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COLD BREW 30

 その絵は窓辺に掛けてある。
 呼び鈴をつけた彫刻のある木製扉、その隣にはステンドガラスを篏合かんごうした窓がある。その窓は外部には開かないが、意匠として鎧戸がある。春一番や台風の折には、ステンドグラスを守るのに役立つ程度だ。
 玄関から長方形の店舗が奥に続く。
 まさに鰻の寝床で、通気は換気扇に頼っている。
 つまり店の空気まで、珈琲の香りに満ちている。
 店の中央に欅の一枚板のバーカウンターがある。
 顧客の要望で、三席に増やした愛用の居場所だ。
 ボックス席は四つあり、カウンターの対面の長壁に三つが居並び、背後には洗面所とトイレがある。
 カウンター裏の壁面収納にCOLD BREW水出しコーヒー抽出ドリッパーがあり、奥に厨房が用意されている。厨房内はヨットのそれのように、機能をぎっしりと詰め込んでいる。ガス式の焼き窯があるのは、ちょっとした自慢でcafeの体裁を整えてくれる。
 気が向けば週末にはパニーニを焼いてランチにしている。
 そして特等席といえばカウンターの隣で、ステンドグラスからの光を浴びるボックス席だ。その席だけは独立している。
 そこの壁に絵は掛けてある。

 祐華も史華も、カウンターに座る。
 いや祐華はかつて座っていた。
 病状が進んだ彼女は車椅子を使うようになり、自然と玄関脇のボックス席につくようになった。
 彼女は通院時と介助ボランティアと行動する日以外は、僕の軽で、この店に出てきて、その席に陣取ってペンタブで作業を続けていた。
 僕たちの会話は、消えかかった熾火のようになっていた。
 不用意に動かすと消し炭が発火するように、ときに口論に発展するので、お互いの距離を自然と取るようになった。
 むしろ店では歪な感情を出せない。
 お互いの矜恃が負の感情を抑えた。
 同居している自宅では散々に言い争いになった。それでもトイレのドアは外して、そこはロールスクリーンのカーテンで仕切ることにしていた。そうしないと車椅子では使い難かった。
 彼女の身体を拭くこともあった。
 拒否するのも最初のことで、病状が進むと小声でありがとうと言った。
 あの美しかった乳房は萎み、乳首から透明な体液が漏れていた。敏捷な鹿のような太腿も細くなり、皺が寄っていた。それを温かなタオルに洗浄液を含ませて、丹念に拭った。とくに背中には床ずれができてはいないか、あせもはできてはいないかと慎重に観察しながら拭いていた。
「ねえ、じろじろ見ないでよ」と小さく言う。
「今日はいい感じだね」と故意に明るく言う。
 交差する会話が、切り結ぶ刃になることもある。
「ねえ、お願いだから殺してくれない」
 その罪の償いは、と言いかけたが何とかこらえた。また熾火が燃え盛ってしまう。
「そうね。ごめんなさい。気が立っているのね」
 わずかな逡巡が正鵠を得ることが多かった。

 絵は斜めに太い線が引かれている。
 主線をやや細目の線が支えている。
 その交差する場所に導流帯ゼブラゾーンの意匠があるので、その線が三叉路道路の暗喩であると気づく。そんな絵だった。
 つまり画面が線で三分割されている。
 安全帯には横たわる裸の男女がある。
 かつて祐華と僕は、その三叉路の道路で人生を分岐した。
 その男女は僕たちを示している。そして分割されたひとつが過去。ひとつが現在を描いている。そこにある絵に、残った未来は下書きのままだ。

 祐華は最期の瞬間まで気丈だった。
 また延命処置を彼女は拒み続けた。
「もう少し、肩まで髪を戻したかったな」
「今の方が新鮮だよ。ぐっとくる」
 ベリーショートにもほど遠い髪に、鼻に酸素パイプを通したままで彼女は笑っていた。透明な笑顔だと思った。
 数日後に危篤の連絡を受け、店には「長期休業」の案内板を置いて病院に駆け付けた。その案内板も祐華のデザインだった。
 静かな病棟だった。
 その日は個室に移動して貰っていた。
 朝日が差して、天井にかかっている。
 看護師は時折り現れて、機材の数値をメモしていた。眠るように穏やかな寝顔を、ひどく硬質な眼でじっと見つめていた。
 脳裏に深く刻むような重い息づき。
 液晶画面がそれすらも数値に翻訳しているのを、腹立たしく思っていた。しかしあるとき、指に力がこもった。
 その瞬間。
 細く荒れた肌の掌を握っていた刹那。
 魂を失い、彼女が意思を失うのを、今も指先で記憶している。

 まだ真夏の余韻があった頃のことだ。
 帰宅すると、祐華が和室で寝息を立てていた。
 そこには制作中の大作の絵があって、下絵が既に進んでいた。必ず布が掛けてあって僕の視線を遮っていた。
 しかしその日にはそれが無く、十文字にカンバスが切り裂かれていた。
 眠っている祐華の目尻は腫れていて、泣きながら眠りについたことがわかった。
 僕は何も言わなかった。
 数日後に新しい小振りのカンバスが届き、それが今かかっている絵のものだった。彼女は、余命という過酷な逆計算を行い、絵の号数と趣旨を変えたのだと知った。
 
 祐華の葬儀を終えた頃のことだ。
 ふと日常に戻り、自分の家にまだ残る祐華の影と残り香のなかで、半ば茫然としていた。
 玄関には郵便物が届き、PCには膨大な未読のメールが来ていた。
 そのメールの大海のなかに、祐華からのものがあった。
 データ量が重いのだろう、圧縮ファイルになっていた。
 『完成版!』という文言に、彼女の声音が蘇ってきた。
 そのデータファイルには、未完成だった部分が描き込まれているのだろう。恐らくは病室で、命を削るようにして絞り出した叫びだろう。
 僕は、未だにそれを開くことができない。
 


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