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本づくりにおける「のどごし」についての考察

先日、久しぶりに大学時代の友人とランチをしました。

彼はまったく出版とは関係ない仕事をしているヤツですが、いい年齢の大人なので、自然と「自分が今やっている仕事の話」をしたりするわけです。

そういう、自分の仕事とまったく利害関係のない、気兼ねなく話せる相手に、最近自分がやった仕事とか、いま自分がやろうとしていることを説明するのは、とてもよいですね。

いま自分がやっていること、考えていることを客観視して、言語化すると、頭の中が整理されてくる感じがします。

ここ半年くらいそういう時間がなかったので、やっぱり定期的に友だちと会ってダラダラ話をするというのは意図的にやっていこうかなと。


◆ ◆ ◆


そんな話はどうでもよくて、ここからが本題です。

先日、とある方と本づくりの打ち合わせをしていたときのことです。

私が

「章トビラの対面ページがぜんぶ白になっちゃいますね。コラムページを入れて白紙のページを埋めましょう」

ということを言ったら、打ち合わせ相手の方が


「でも、白ページがあると早くページがめくれて、なんかお得な感じがしません?」


ということを言われました。

これは目からウロコですね。

私は自分が作る本では白紙ページができるだけないように行数を調整したりしていますが、それはなんとなく白紙ページが多いと「手抜き」のように感じられるからです。

でも、純粋に一読者としての立場に立ってみると、なるほどたしかに、打ち合わせ相手の方のおっしゃったことが理解できます。

ビジネス書でも小説でも、「よしよし、いまの時間でこれだけ読んだぞ」とページ数をついつい数えてしまうことがあります。

それに、サクサクとページをめくることができると、それに乗じてどんどん読み進めてしまう感覚はあります。

だから、「真っ白いページがたまにあると早くページがめくれてなんかよい」という感覚も理解できるのです。


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ここから思ったのは

「『ページをめくる』という行為は読書をする人にとって1つの快楽であって、サクサクとページをめくることができる本とは、『ページをめくる快楽』を得やすいというベネフィットをもたらしているのではないか」

ということです。

これは同時に「一冊の最後まで読み切れる」ということにも同様のことが言えるような気がします。

私なんかは複数の本を同時並行で読みすすめる人間ですが、分厚かったり、内容が難しくていつまでも最後まで読めない本だと、「早くあれを読みきらないとなあ」という、一種のフラストレーションを抱いてしまいます。

逆に、薄かろうがなんだろうが、一冊の本を最後まで読み切ることができる体験というのは、「とりあえず読み切れたぞ」というカタルシスを得ることができると思うのです。

それはそれで、本が読者にもたらすベネフィットの1つなんじゃないかな、と。


◆ ◆ ◆


よく、「この本はスカスカで内容が薄い」などという批判を目にすることがありますが、じゃあ濃くすればいいのかというと、そういうわけでもないでしょう。

カルピスだって、飲むときには原液を適度な濃さに水で薄めます。(『浦安鉄筋家族』のフグオくん一家は別)

どのくらいの濃さをおいしいと感じるかは人それぞれであって、それくらいの薄さじゃないと最後まで読みきれない人も世の中にはいる。


ウイスキーでたとえてもいいかもしれません。

ロックで一杯をじっくり飲むのが好きな人もいれば、ハイボールをガブガブ何杯も飲むのが好きな人もいる。(私はまったくお酒を飲めないので感覚だけで書いてますが)

この例で考えれば、「ページのめくりやすさ=のどごし」みたいなふうにも考えられるかもしれません。


もちろん、だからといってなんでもかんでも薄くしてのどごしを良くすればいというわけでもなく、塩梅が大事です。

ただ、本を作るうえでは想定読者に合わせた「のどごしの良さ」も考慮するべきだよなあ、ということをつらつらと思った次第です。

※これはネット記事とかでも同じで、「ぐいぐいスクロールできる」ということが大事なのかもしれません。


★ ★ ★ この記事のまとめ ★ ★ ★

マンガ『浦安鉄筋家族』の鈴木フグオくん一家は、カルピスを原液で飲む。




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