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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(97) 北条時行、鎌倉に凱旋する…井出沢から鶴岡八幡宮までの道のりをたどってみた

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2023年2月19日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 「まずはここまで描けてホッとしてます

 『逃げ上手の若君』第97話を収録した週刊少年ジャンプの松井先生の作者コメントです。「本当に有難いです」とは、先生ではなく私たち読者のセリフだと思います…。
 最近私の中で、鎌倉北条氏はいろいろとわからないことが多い(諏訪氏はそれ以上ですが…)ことと、戦後に様々な事情で顧みられない一族となったのではないかということへの疑念がわきおこっています(諏訪氏はもともと歴史の日陰を行く一族…でも、北条氏は江戸時代までそうでもなかったと知りました)。

 「全ては北条家への忠義のため!

 第1話で時行に告げた諏訪頼重の一言。それが語られる時が近づいているようです。きっと、驚きの理由を松井先生は頼重に語らせるのではないか? そして、松井先生がこれからくり広げるであろう〝物語〟とは、日本の中世においては、あってもおかしくないと思わせるようなものなのではないか? ーーそんな思いを抱いています。

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 さて、第97話は、鎌倉が近づくにつれ涙あふれ、ラストで言葉を失いました。私などがあれこれ解説するのも野暮と感じてしまいます。
 そこで、私にとって身近な地域の話が出てきたりしたので、作品に登場した場所について書いて、皆さんにもその場所を訪れるきっかけにしていただけたらと思いました。

井出沢から鎌倉へ ※鶴見の位置も確認!
(東京都町田市→横浜市旭区〔畠山重忠公の首塚〕→横浜市戸塚区→鎌倉市大船→鎌倉市街)


①鶴見 「東の鶴見に足利方の佐竹の軍が!」

 諏訪時継が「血と汚れがしゃべってる!!」というあまりな扱いになっていて、笑い禁じえずでしたが、ダメージを負っているのでその分存在感も薄れるということかしら、と解釈してみました(好きなキャラなので、良いようにとってあげたい…)。
 足利直義との対決の場となった井出沢は、現在の地図では左上にある町田市(東京都)のあたりとされています。そこから東の端、川崎市の下に鶴見区(横浜市)とあります。
 
 7月22日、井出沢(東京都町田市)の合戦で、足利直義軍をやぶった北条時行軍は、同日25日に鎌倉を占拠します。その前日の24日、常陸国(茨城県)の佐竹氏は時行軍の一派と武蔵国鶴見辺(横浜市鶴見区)で交戦していました。ー中略ー鶴見を通過したのは時行のいる本体ではなく、時行の蜂起に与同した鎌倉近辺の勢力でしょうか。この合戦では、佐竹貞義さだよしの五男・義直よしなおが家臣とともに討死をしました。〔横浜市歴史博物館『企画展 鶴見合戦』〕

 時継は、佐竹軍三千が「直義と連携して包囲する作戦だったのだろう」と分析し(吉良・小山の五千が、直義本体一万と一色・三浦各五千とで、北条軍の前後を挟み撃ちにしていました)、そこに三浦時明が乗り込んで蹴散らしたという展開に松井先生は解釈されて、第97話に反映されたのですね。


北条時行と諏訪頼重 ~二人が初めて出会ったあの地を目指して~


②畠山重忠公の首塚 「狩野かの師範と塩田しおた師範と遠駆けに来た!」

 『鎌倉殿の13人』をご覧になっていた方は、第36話「武士の鑑」で、中川大志さん演じる畠山重忠が鎌倉に入らず、鶴ヶ峰で陣を構えたのを覚えていらっしゃるかと思います。鶴ヶ峰は祖父母の家があったので何度も訪れたことがありますが、やや険しい高台でした。
 上で示した地図だと、旭区(横浜市)になります。町田市の右斜め下のあたりです。
 旭区のHPに「鎌倉武将 畠山重忠」のページがあり、首塚のことも記されています。

 当時の鎌倉街道は、こののち、戸塚を通って大船の方へ入っていきます。先に示した地図では、旭区から鎌倉市に向かって南(地図下方)へ一直線です。
 ※大船は現在の鎌倉市の一地区です。③常楽寺はJR大船駅、④建長寺はJR北鎌倉を最寄り駅として参拝した記憶があります。次に示した地図でも確認してみてください。

常楽寺から鶴岡八幡宮へ(常楽寺→建長寺→大神山を目にして巨福呂坂→鶴岡八幡宮)


③常楽寺 「清子に誘われ参拝に行った!」

 常楽寺は2月17日(金)にネットのニュースで記事になっていました。タイムリー過ぎますね…。

北条泰時が創建、常楽寺「境内絵図」が鎌倉市文化財に
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 神奈川県鎌倉市大船の臨済宗建長寺派・常楽寺の「境内絵図」が市文化財に指定された。江戸中期の1791年に作成された境内の鳥瞰(ちょうかん)図で、仏殿、文殊堂のほか、同寺を創建した北条泰時の墓や木曽義仲の息子・義高の墓と伝わる「義高墓」などが描かれている。

常楽寺境内絵図。仏殿、客殿などの建物のほか、石塔、墓、池や山林の様子などが克明に描かれている=神奈川県鎌倉市提供 © 毎日新聞 提供

伝「義高墓」も描かれる
絵図は紙本(しほ)淡彩で、縦93・3センチ、横63・8センチ。建長寺が末寺分もまとめて幕府に提出した資料の控えとして、常楽寺で保管されていた。絵図の下部には「境内坪数六千六百七拾九坪」「仏殿三間半四面」などの数値データが書き込まれており、江戸幕府の寺社管理の徹底ぶりもうかがえる。
 鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」によると、常楽寺は1237年に第三代執権の泰時が夫人の母の追悼のために創建したとされる。初代住職は退耕行勇が務め、絵図には行勇が植えたとされる大銀杏(おおいちょう)も象徴的に描かれている。市指定文化財は329件目。
【因幡健悦】〔毎日新聞ニュースサイト〕

 公益社団法人鎌倉市観光協会の「鎌倉観光公式ガイド」のHPには、案内が掲載されています。

 私も訪れたことがありますが、清子の「隠れ家的な雰囲気」というのが納得できるひっそりとしたお寺でした。


④建長寺 「長崎親子がどや顔で連れてってくれた!」

 ​​鎌倉五山の第一位、臨済宗建長寺派の本山です。私も仕事(?)などで何度も訪れたことがありますが……でかい! 北条氏の鎌倉のスピリットを感じる寺の一つという印象を私個人は持っています。
 建長寺の公式HPは以下になります。

 (北条時頼についてもページがあります。実は私、小学生の時に『学研まんが 日本の歴史』、中学生の時に『徒然草』を読んで、〝時頼かっこいい…〟と密かに憧れていました。)

 先にあげた「鎌倉観光公式ガイド」には、「1325(正中2)年と1326(嘉暦元)年には、建長寺造営再建のため中国(元)に貿易船を派遣して、その費用にあてたりしています。」とあり、長崎親子が「修復しました」と言っているのと大体時期が合うでしょうか。


巨福呂こぶくろ坂・大神山だいじんざん
「巨福呂坂を曲がれば目的地はすぐそこ」・「あの大神山で兄上と何度かくれ鬼をした事か!」

 「鎌倉観光公式ガイド」には、巨福呂坂を「青梅聖天社の前から山の尾根を越え、建長寺の前へいたる道」と記しています。

 青梅聖天社の場所を確認したところ、上に示した鎌倉の地図では建長寺と鶴岡八幡宮を結ぶ道が見えると思いますが、その中ほどにありました。
 大神山はよくわかりませんでした。ただ、「八坂大神やさかおおかみ」という名の神社があり、地図では赤い鳥居マークがそこです。建長寺から鶴岡八幡宮に向かう時行の前方に見えたとしたら、場所としては間違ってないのかなと思いました。(ぜひ、ご存じの方がいらしたら教えてください)。


⑥鶴岡八幡宮 「見えた! 鶴岡八幡宮!!」

 有名すぎるので詳しいことはオフィシャルサイトに譲ります。

鶴岡八幡宮 | TSURUGAOKAHACHIMANGU

 「銀杏の若木を取り抜け階段を昇れば」とある、「銀杏の若木」とは、もしや三代将軍・源実朝暗殺時に公暁が隠れていた、現代では〝大銀杏〟と称されるあの木なのでしょうか。
 十数年前に倒れてしまった大銀杏の推定の樹齢は、800~1000年だということです。そうであれば、「若木」ではなく、当時からある程度の大きさであったとも考えられます。しかし、やはり一方で、公暁が身を隠せるほどの大きさではなかったという説もあるそうです。いずれにせよ、今から七百年の時を思わせる松井先生の演出なのかもしれません。
 そして、もしまだ鎌倉を訪れたことのない方がいらしたら、必ず時行がしたように、階段の上から後ろを振り返ってみてください。町の開発で見えづらくはなっていますが、見渡す先にきらめくのが海だというのがわかります。

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 第97話を読み終えたあと、私はあらためて第1話を読み返しました。
 狩野師範と塩田師範、清子、長崎親子、兄・邦時と父・高時との、当たり前のように続くと思われた日々から物語は始まっていたのを、時行と同じように思い出しました。
 そして、鎌倉を脱出してからの様々な出会いと戦いの日々。ーー時行が失ったものと手にしたものに読者も心が揺れます。

 「地形と道が同じならば街の景色は変わりませぬ」「我々が出会った鎌倉は… ここですか?

 今回いつもとは違う形でここまで文章をつづってきましたが、これまで何度も仕事(?)だから、有名な場所だからというのでしか訪れたことがなかった鎌倉の姿を脳裏に映し出してみました。すると、時行や頼重たち(作品だけでなく、実在の彼らもです…)の思いが、七百年前の鎌倉の姿と重なってよみがえるような感覚を、今では覚えるのです。


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