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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(161)宇都宮公綱こそが「我を忘れた精神状態」にあると思い込んでいた私たち読者の思い違いを一刀両断!? いなくてもいい人が誰もいない顕家軍の強さを再検証する!

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2024年6月29日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


寒い… 腹が …なぜあんなにも

 吹雪のこのセリフではっとしました。もしかして、今の吹雪(仮面の「高師冬」ですが……)は、あんな爆食いをもうしていないのかもということを思ったのです。あんなに食べるのは、体質か脳を異常に使っているからなのだと考えていましたが、そうではなくて、父を殺した吹雪は心身のバランスをコントロールできなくなり、その〝飢え〟が表面化してしまっていたのだと思われた、そんな『逃げ上手の若君』の第161話の一場面でした
 合理性の鬼である高師直が、吹雪の頭脳と食費とを天秤にかけて、それでも吹雪の「才」を取ったかとずっとそう思っていたのですが、時行たちが見ていた吹雪とはまるで違う「高師冬」としての生活が、父・師直との間で展開されていると思うと……想像がかきたてられてしまう(スミマセン)。
 時行と吹雪、そして亜也子とのやり取りについては、また最後でお話しします。

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 高師泰、完璧にこれアゴいってますよね。いやあ、新田徳寿丸くん強すぎです。来月発売のコミックスの表紙に父・義貞と一緒に登場ですが、あの表紙の義貞の脇の仏像みたいなオブジェが無限「?」に見えるのは私だけでしょうか。発売日が楽しみです。
 さて、それよりも八郎です。師泰は粗暴なくせに、戦いの場においては無駄に合理性が発揮されます。八郎としては気持ちは時行たちの方へ向いているのでしょうが、裏切って見張りを排除するにしても、戦後の報復を考えるとうかつにそれはできないですし……こういう純粋な青年をあまりいじめないでほしいですね。しかしそう考えると、兄・時明の惣領としての苦しみや弟を追い出した真意にまた涙してしまいそうです(時明は出番は少なかったですが、心に残るキャラクターです)。
 八郎のピンチを知らずとも、煙を立てた木切れ(?)を持つ雫と玄蕃・夏による「師直を倒そう作戦」による解決に期待です。

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 「ここまで頑強か 顕家軍!

 当の師直はというと、思わしくない戦況に白目を剥いています。北畠顕家もよくよく白目を剥いていますが、あなた様の顔こそ「頑強」です……。

 ちなみに「九州から大軍が来るという情報」というコマに「阿蘇」という文字が見えます。

阿蘇氏(あそうじ)
 肥後阿蘇神社の大宮司家。小国家の首長,国造,郡司の伝統を有し,出雲の千家,宇佐の到津(いとうづ)氏などとともに古代末より系譜の明らかな地方名社の社家。宇治氏を称し,中世には武家として活躍。謡曲《高砂》にも登場。阿蘇谷の手野古墳群は同氏歴代の墳墓であるとの伝承がある。文献では1142年(康治1)大宮司宇治惟宣が年貢済物の確認を求めているのが初見。80年(治承4)大宮司となった惟泰は領家源定房の荘官の地位を兼務,翌年菊池隆直と反平氏の挙兵を共にした。その子惟次のころには,それまで氏人の中から選ばれ,任期制の形式を残していた大宮司の地位は惣領に独占世襲されるようになり,開発した南郷谷の私領諸村は預所・地頭の地位を得た鎌倉幕府執権北条宗家の安堵を受けるに至った。元弘の乱では菊池氏とともに日向鞍岡で北条方と戦い,戦功として建武政府から阿蘇郡の本社領と甲佐・健軍・郡浦の末社支配権が,本家職・領家職を含めて与えられ,大宮司の支配権は強化された。南北朝内乱初期,多々良浜に足利尊氏を迎えて戦った大宮司惟直が討死すると,父惟時が大宮司に復活。一族惟澄と北朝方大宮司を破るが,その後惟時の態度は不鮮明。惟時の死後は惟澄が大宮司となるが,惟澄の死後は北朝方の惟村と南朝方の惟武がそれぞれ大宮司を称し,惟村系は益城郡,惟武系は阿蘇郡を支配して対立した。
〔世界大百科事典〕

 九州は後々、尊氏の子である「直冬」が関わって、南北朝動乱にどっぷり巻き込まれて行きます。上の引用によれば、当初、阿蘇氏は後醍醐天皇について倒幕に貢献していますが、後には一族内で南朝方・北朝方に分かれて争っています(一族存続のために、望むと望まないとにかかわらず、兄弟や父子といった間で南北に分かれたというのが、多くの武士の家の事情でもあったようです……)。


宇都宮公綱は、命を懸けて戦場にのぞむ者たちを愚弄する行為に対して怒りを覚えた。


 さて、話を元に戻しまして、第161話の「頑強」という題名について考えてみました。そのヒントになったのが「宇都宮様」でした。

 「う 宇都宮様 お下がりを!
 「敵は異常に興奮してます 雰囲気ハッタリが通用する相手では…」 

 例の戦法に「雰囲気ハッタリ」という名称が与えられていたのには吹きましたが、宇都宮公綱は確かに楠木正成と互角に戦った剛の者だったのですね……か、かっこいい……! 時行と亜也子と北条軍の兵たちの表情とのギャップがまたいいです、この場面!!

 「我を忘れた精神状態で戦に出るなど 戦神いくさがみへの冒涜よ

 公綱のこのセリフには、現代人に対する鋭い問題提起がなされているような気がしました。尊氏の「」によって狂わされて戦場に押し寄せる兵を、多くの人たちがどうにも対処できないのですが、公綱は彼らを「我を忘れた精神状態」だと言ってまさに〝一刀両断〟するわけです。
 私たちはこれまで、公綱こそが「我を忘れた精神状態」にあると思って見ていたのですが、それは誤りだったのです(少なくとも「涎」の兵の前での公綱は……)。もちろん、戦争の歴史を我々はくり返してはなりません。しかしながら、現代はこれまでとは違う形での「戦」が進行しているともいえます。
 顕家は、「皆晴れやかに命を懸けよ! 祭だ!」(第158話「攻防1338」)と自軍の兵たちに呼びかけています。現代から南北朝時代にタイムリープした(と私は解釈しています)斯波家長の最期を思い合わせても、現代人が彼らのように「命を懸け」て生きているかと言えば、私も言葉を濁らすしかありません。
 宇都宮公綱は、おそらく十代前半の初陣より「命を懸け」て戦場で戦い抜き、老いてなお戦場に「命を懸け」てのぞんでいたのです。「」に浮かされた兵を、死の覚悟とともに戦場に立つ者たちを愚弄する態度と感じ取って、「戦神への冒涜」と断じたのでしょう。

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 そしてもうひとつ、顕家軍の「頑強」さは、いなくていい人が誰もいないという点なのです。顕家軍にあって、宇都宮公綱のことを誰一人否定することがなかったように……。

 「攻撃力がないのを棚に上げ」「「勝てない」を「負けない」にすり替えるな!

 吹雪がこう言い放って猛攻をかけた瞬間に、亜也子がその攻撃を「四方獣」で跳ね返します。

 「攻撃力には私がなるよ 郎党だから

 これについては、かつて中先代の乱において岩松経家が、北条軍と諏訪軍の強さを「こいつらは女も含め全員で固まって立ち向かってくる」ことにあると見抜たことに重なります(第80話「理想1335」)。吹雪に対して、「この兵を使い捨てて」と、合理性を発揮して平然と命じる高師直ともまるで反対のあり方です。
 また、真の強さとはいかなるものであるかについても考えさせられます。合気道の創始者である植芝盛平の弟子であった塩田剛三(興味のある方はお二人の名前を検索して、ヤラセでは決してないとされる動画をご覧ください!)は、〝絶対に相手に負けない技〟について聞かれ、〝仲良くなること〟と答えたと言います。ーーリアルに時行のことですよね!?
 吹雪がいつどのようにして「野心」の限界に気づき、自分自身と父親を許して受け入れることができるのかについて結論が出るのは、この石津の戦いのまだ先になります。

〔参考とした辞書・事典類は記事の中で示しています。〕


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