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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(129)輪廻の「檻」に囚われた復讐鬼・斯波家長ーー『逃げ上手の若君』は転生のループを書き換えている!?

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2023年10月22日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 ただでさえ人気のある関東庇番衆が現代に転生!?ーー第129回は、女性ファンが泣いて喜ぶ展開だったのではないでしょうか。
 かくいう私も、最初は孫二郎以外好きではなかった庇番衆でしたが、中先代の乱が展開する中でひとりひとり好きになっていきました。その彼らと孫二郎と再会できたのだと思ったら、少し救われたような気になったのでしたが……何度か読み直しているうちに、考えが二転三転しました。
 今回は、古典『太平記』を読んだ当初よりその大きなテーマのひとつだと感じていた〝輪廻転生〟といった思想的な解釈を、現代の最新の〝時間〟の概念なども重ね合わせて考察してみたいと思います。

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 まず、本当に時行が斯波家長を討ち取ったのだというのに驚きを隠せませんでした。確かに、この鎌倉での戦いに至るまでに、家長が北畠顕家を苦しめ、北条泰家も打ち破っていることいるにもかかわらず、家長が敗北するのだという史実のネタバレをした際に、私の妹は〝その展開から家長が負けるって信じられない〟と言っていたのを思い出します。
 しかし、時行は自身の持ち技である「二河白刃」を、今この時の状況に応用した「千眼白刃」で家長を破ります。

「只の無責任な十七の童」(とはとても思えない才能の持ち主ですが……)
として永遠に仲間とともにありたいという思いにフラグが立ち、
輪廻の「檻」に閉ざされてしまっている?斯波家長

 「未来が… 読める 今までで最も… 遥か遠くの

 諏訪頼重か!?……というツッコミはおいておいて、最近私はタイムリープやパラレルワールドにものすごく興味を持っていまして(正確には、子どもの頃からずっと興味があって)、タイムリープといった現象が起こる要因のひとつとして〝死〟が関係するようなので、家長のケースもそうなのではないかと推測しました。
 そして、Twitterの公式では「部室でひとりギターを弾く孫二郎」を「急展開!」なんてコメントで表現していましたが、孫二郎の意識が〝今までで最も遥か遠くの未来〟に、一瞬にして移ったとでも言えばよいでしょうか。

 高校生の孫二郎の〝アイテム〟のあれこれがまた庇番要素と現代のパロディ要素がうまく混じっていましたね。ーー校名、校章、そして、部活動の顧問は名前だけ出て来たのにがっかりな直義ファンの方も多かったかもしれません(笑)。
 関東庇番衆の転生者らしき人たちは、相変わらず真面目で、女で、馬(瑪瑙!)で、鶴子ちゃん(石塔現代Ver.似の人ってかなりの高確率でいませんか?)で、マッド(現代は完全にお縄では!?)でした。彼らの近況にはしゃぐ孫二郎が、中先代の乱出陣前夜の様子と重なります。
 一方で、孫二郎は自分でYouTubeか何かのチャンネルを持っているのですね。オバチャンなので間違っていたら指摘していただきたいのですが、「ボカロP」とかいうものですか? また、〝「しまご」って何?〟と思ったのですが、自分の苗字の最初の一字と名前の最初の二字を取ってアーティスト名としているのだと気づきました。「渋滞牛車」なんてぶっとんだセンスはおそらく前世の名残なのでしょう。その下の「すいません黙ります」は、私でも知っている〇doさんの「うっせぇわ」を意識して作ったか、あるいはこの世界では「しまご」がその地位を得ている可能性もあります(イラストやアニメーションも自作?)。

 古典『太平記』を読んだ際に、「一業所感(いちごうしょかん)」という語が強く印象に残っています。『平家物語』などにも用例があるそうですが、辞書を引くと「多くの人が業を同じくすることによって同じ果を受けること。」〔例文 仏教語大辞典〕とあります。少しわかりにくいので、この語を用いた人物の発言部分の現代語訳を見ると、「我らのように前世の同じ業でここに集まった者たちが、この場所で皆そろって討死するのもまた前世からの因縁であろう。」となっています。
 これは、関東庇番衆のように足利一門といった強いつながりもなく、かなり不利な戦場にたまたま居合わせた者同士が、死を覚悟して戦おうと気持ちをたかぶらせている場面です。その程度の人間同士のつながりでさえ、前世からのつながりによるものだというのですから、孫二郎と庇番衆がまとまって同じ時代の同じ場所に〝転生〟するなどということは、当時の人間の考えではありえないことではないのかもしれません。

 ……といったあたりを前置きとして、皆さんは、「平和の続く未来」の世界で、死んだ仲間たちと再会した孫二郎をどう思われましたか。私には〝またみんなに会えてよかったね〟と素直に思えなかったのです。なにか釈然としないのです。

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 「この時代に生まれた時点で 僕はゆるやかに詰んでいる

 雪がちらつく中、「先輩たち」が帰ってしまった後の孫二郎は憂い顔です。渋川先輩も岩松先輩も、孫二郎の才能や資質をお世辞抜きで認めて、〝お前はまだこれからだ〟ということを励ましています。しかし、孫二郎はそうは思っていません。孫二郎が欲しいのは、渋川の言う「お前たちといる空間での「楽しかった」過去なのです。だからきっと、孫二郎にとって時が経つのは苦痛でしかないと思われます。
 そこではっと気づいたのです。現代(未来)の孫二郎のしていることは、南北朝時代に彼がしていたこととまるで変わらないではないかと。中先代の乱の出陣前夜のハイテンション、〝敵〟と〝味方〟での線引きなど、「新入部員全然入れてないんだって?」という今川先輩の発言と符合します。〝入らない〟ではなく、孫二郎が新入部員を「入れてない」(強い仲間意識ゆえの他者の排除)のです。
 強い執着は輪廻転生の妨げとなり、何度生まれ変わっても同じことをくり返すと言います。ーーそうです、「復讐鬼 斯波家長」は、輪廻の輪をループしているのではないかと思ったら、私は悲しくなったのです。

 古典『太平記』の中で、輪廻転生を前提として、激しい思いを抱いて兄弟で散ったのが楠木正成・正季です。

 正季、うち笑うて、「七生しちしょうまでも、たただ同じ人界同所に托生たくしょうして、つひに朝敵をわが手に懸けて滅ぼさばやとこそ存じ候へ」と申しければ、正成、よにも快げなる顔色にて、「罪障はもとよりはだえに受く。悪念も機縁の催すによる。生死しょうじは念力のくにしたがふ。尤ももっとぶ処なり。いざさらば、須臾しゅゆの一生を替へ、忽ちに同じきしょうに帰つて、この本分を達せん」と契つて、兄弟手に手を取り組み、差し違へて同じ枕に臥しにけり。

 七回までも人間に生まれ変わって尊氏を倒す。この思いを胸に、兄弟一緒に同じ場所で生まれ変わろう。ーー仏教では、迷いから起こる執念を「妄念」と呼んでいますが、『太平記』の楠木兄弟のこと思いはまさにそれにあたります。こうなると、輪廻転生を抜け出すことはできなくなります。
 ところが、『逃げ上手の若君』では、楠木正成は「七度生まれ変わっても必ずや… 逆賊尊氏を殺しに参るよ」と笑顔で最期を迎えています
 私は、戦前の教育で作られた〝楠木正成〟が好きではありませんでした。〝アイドルはう〇こしない〟みたいに勘違いしている人がいますが、それと似たようなものを感じしまうからです(あれだけ、う〇こで有名な偉人に対して、美化し過ぎとはかえって失礼でしょ、などと考えるのです)。
 だから、松井先生が『逃げ上手の若君』において、汚部屋の住人でつまみ食いして奥方からダッシュで逃げるといった楠木正成を登場させた時、面食らいながらも清々しさを覚えました。そして最期には、とうとう正成を輪廻から解放してくれたんだとまで感じました。

 ※古典『太平記』における楠木正成の最期について、詳しくはこのシリーズの第114回をご覧ください。

 こう考えてみるとそうですね、時行が家長に勝てたのは当然のことだったのです。輪廻の「檻」から抜け出すには、同じ行動を、同じ意識を、同じ感情を持ち続けていてはだめなのです。

 「師から教わった逃げ上手の技は どんな対策も飛び越える!

 正成と時行は、そもそも「檻」に囚われていないのです。

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 しかし私は、それでもすっきりしませんでした。孫二郎が好きなので、悲しいままの人生をくり返してほしくないという思いがあったのはもちろんなのですが、最期の一言がどうしても頭から離れなかったのです。

 「僕は今だ 十七だ

 最近知ったのは、〝時間〟とは過去から現在、未来へとは流れていないのだということでした。〝え、どういうこと?〟と思いますよね。最先端の物理学や脳科学等の研究では、過去・現在・未来は同時に無数に存在しているというのです。〝いや、まったくわからん…〟なのですが、第129話についてこう考えたのです。
 ーー「詰んでいる」高校生・孫二郎の、「生まれた時代が違えば… 命を燃やせるような生きがいが見つかったのかな」という意識が、逆に、南北朝時代の斯波家長に移行したというのであれば、家長に救いはあるのではないかということーーを。
 少年の感性が失われないうちに、自分の内なる可能性を最大限に発揮できる世界に生きてみたい。北畠顕家や北条時行のような自分とは異質の人間との死闘をくり広げる中から、自分の限界を超えてみたい。ーーその思いをかなえる新たな世界へ飛び出せるきっかけ、自分の才能を持て余し、仲間との楽しい時間が永遠に続くことだけを望むという執着の「檻」から抜け出す瞬間を得ることに、家長は成功したかもしれないのです。

 こう考えると、「自力救済社会」を残酷だと否定することばかりが、世界の真実ではない気すらしてきます。現代にだって、「自力救済社会」の時代よりも十分に残酷で、あるいは、残酷ではなくとも人間から人間らしく生きることを奪う物事は無数にあるとは私は考えるからです。
 まったく、松井先生にはまたしても〝してやられた!〟と思います。

〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)を参照しています。また、タイムリープやパラレルワールド、「時間」の考え方については、BTTPさんによるYouTubeチャンネル「BTTPのタイムトラベルや不思議な話」を参考にさせていただいています。〕

 BTTPさんはnoteも展開されていますので、興味のある方はぜひご覧ください。お人柄の感じられるわかりやすくて楽しい動画でいつも学ばせてただいています。ありがとうございます!


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