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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(112)後醍醐天皇との笠置での出会い、桜井での父子の別れーー令和の世にて解放された楠木正成、ここにあり!?

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2023年6月11日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 『逃げ上手の若君』第112話「インターミッション1336②」ーー尊氏の謎過ぎる勝利についての松井先生の見事な解説(今週号の作者コメントに「担当編集さんには、逃げ若のナレーションは作者の声で脳内再生されるそうです。オーディションいこうかな」とあり笑いましたが…)をしても菊池武敏は浮かばれず、相手が悪かったとしか言いようがありません。

 これだけ見ると、武敏と菊池一族は弱いと思われてしまいそうで、本当に残念です(武敏は、別の機会にもツイてない出来事に遭遇するので、間の悪い人、運が悪い人だった可能性はおおいにありそうですが…)。尊氏と直接に戦ったのではない菊池の面々は、いずれ劣らぬ強さであるのですが、だからこそかえって、菊池武敏の敗北の異様さが際立つのも事実です。
 ただ、武敏はもちろんのこと、その後も一貫して菊池一族は後醍醐天皇(南朝)方として戦い、尊氏の〝幻惑〟に屈することはありませんでした。これだけでも、史実として皆さんにお伝えしておきたいと思います。
 そしてもう一人、徹底的に尊氏と対立した人物、南朝方を貫いた一族がいます。ーー新田義貞とその一族です。かっこいい!と言いたいところなのですが、九州から戻って来た尊氏に敗北しているのは、第112話で公家たちが「新田も負けて逃げ帰った!」と叫んでいるのでわかります。
 実際、尊氏が九州に逃げ落ちる際に、義貞は追撃を行いませんでした。それというのは、後醍醐天皇から賜った勾当内侍こうとうのないしという絶世の美女にべったりだったとか、熱病にかかって動けなかったからだとか言われています。やっと挙兵できたと思ったら、今度は、赤松円心の策にはまって逆上、それを弟の脇屋義助にとがめられたり……やらかしちゃってます。
 とはいえ、義貞が尊氏に幻惑されないのはやはり、尊氏とは違う次元のわけのわからなさがある、「」な人ゆえなのでしょう。どこか憎めない〝熱い〟男なのです。

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 さて、第112話で注目したいのは、何といっても楠木正成と後醍醐天皇ではないでしょうか(ちょっとだけ、坊門清忠(笑))。後醍醐天皇、これまでは目玉が二つギラギラしていましたが、素顔が明かされました! 日本史の教科書などで見る有名な肖像の雰囲気が出ていますね(『逃げ上手の若君』では、シャープなイケメンで描かれていた護良親王の父君ですが、そこはあまり似ていないですね…)。

『絹本著色後醍醐天皇御像』(清浄光寺)

 鎌倉幕府討幕を企てた後醍醐天皇を捕らえんと京都に迫った幕府方から逃れるため、天皇は宮中を脱出、後に滞在した笠置かさぎ(奈良県相楽郡そうらくぐん)で、二人の童子が木陰で南を向いて座るように勧める不思議な夢を見ます。自ら夢解きをして、「くすのき」という名の武士がこの辺りにいるのではないかと直感した後醍醐天皇は、やはり存在した楠木正成を自分のもとに呼んだのです。
 古典『太平記』の正成は自信満々なのですが、私個人は『逃げ上手の若君』の正成の方により親しみを感じました。「朕は汝の夢を見た だから汝を呼んだのだ」と言って、身軽で質素な服装で正成の近くに駆け寄って来た後醍醐天皇もまた、『太平記』を下敷きとしつつ見事なキャラ設定だと思いました。

嫌われ者の坊門清忠ですが、彼は帝側近の公家としての役割を果たし、
楠木正成は、武のスペシャリストとして必勝の策を帝に示しました。
すぐれた眼力と果断な決断力を持つ、かつての後醍醐天皇を知るだけに、
「弱くなられました」と正成には感じられたのでしょう。


 あと、坊門清忠もいい味出していますね。これまで、正成が時行に与えた汚い字の「記録書」の随所に坊門の悪口が記されていたので、「坊門てめえ!」とヒクついている正成には笑いました。
 多くの『太平記』の本でも、〝この策しかない〟という正成の言を坊門が退けていますが、後醍醐天皇自らがこの考えを示したことになっている本もあるようです。いずれにせよ、「没 企画が弱い」と平然と言ってのける坊門殿は、いやらしい悪者感が漂っていて、むしろそれでいいという感じです。
 問題は坊門ではなくて、後醍醐天皇です。武のスペシャリストである正成ではなく、ごひいきの側近である坊門の言を採用した後醍醐天皇に失望して、悲しみすら覚える正成の心中は、察して余りあります(松井先生が描く、正成のその心の動きの〝見せ方〟も素晴らしいですね)。

 続いての、「摂津国 櫻井宿」での正成と正行との別れは「桜井の別れ」と称され、戦前の日本では子どもたちの歴史や国語の教科書に採用、映画も制作されるほど有名なものでした(八十歳を過ぎる私の父もこの話が大好きです…)。ただ、これには極端な美化やイデオロギー化が施され、戦後の多くの時を、楠木正成や正行(これには、先に記した新田一族や菊池一族も入ります)に触れることすらタブーとされる空気が存在していました。
 ところが、『逃げ上手の若君』の正成のキャラは肩の力が抜けた面白いオッサンで、息子の正行や正時が熱血なのは「この子達は母に似て血の気が多い」からだという、ここまでのギャグ設定であれば、戦前の楠木正成信奉者のような人たちも、これは単なる漫画なのだとして文句を言う気すら失せる気がします。ーー美しくも、決められた型にはめられた重苦しさから逃れられなかった昭和の正成像。そこから解放された、令和の楠木正成が『逃げ上手の若君』で誕生!?です。
 正成にはもう一人、正のりという子どもがいて、正行・正時の弟になりますが、もしかしたらこの子が正成似で〝血の気の多くない子〟として、いずれ登場するのかも知れませんね。ちなみに、正行とその母のエピソードも「桜井の別れ」に負けないくらい有名で、確かに母は強いです…(正成が大好きな関西の男性が、正成以上に正行母エピソードが泣けると、熱く語っていたのを思い出しました)。
 あとは、天正本をベースにしたという全集の『太平記』では、「正時」が「正言」になっていて「まさとき」と読ませている部分があるので、以前より〝あれ?〟と思っていたのですが、確かに、漢和辞典を確認したところ「言」で「とき」と読ませることがあるようです。「正行」で「まさつら」と読ませた反対の方法なのかなと思うと、「意味は無い  特に意味は無いのだ息子たちよ」と言って笑う正成に、〝そうなんですね!?〟と思わず声をかけてみたくもなってしまうのです。
 
〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、ビギナーズ・クラシックス日本の古典『太平記』(角川ソフィア文庫)、『太平記』(岩波文庫)を参照しています。〕


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