【『逃げ上手の若君』全力応援!】(165)北畠顕家の勝利が「間違った歴史」とは、いったい誰目線……? 高師直が情けない姿を晒して崇める「あら人神」の正体を考察する!?
「こうして 「石津の戦い」は顕家軍の勝利に終わり 高師直は討ち取られた」(高師直・師泰兄弟を包囲した顕家軍からは「おおおおおお」の歓声)
ーー『逃げ上手の若君』第165話のこの場面、二度見しました。いや、二度見どころか三度見、四度見したと思います。でも、ストーリーの展開は、死力を尽くした顕家たちの「あと一押し」による勝利で、疑うべくもありませんでした。
「石津の戦い」の結末を知る私は(……なにせ、顕家が好きすぎる堺在住のYさんと、南朝大好き少年のまま大きくなったようなXさんという、南北朝時代を楽しむ会の会員二人と一緒に、顕家が戦死した場所だと言われている場所をまで見ているのですから)、あっけにとられてページをめくる手が止まりました。
先にも、恨みや憎しみを一切持つことなく最期を迎えた諏訪頼重の姿を描き、あっと驚く〝書き換え〟を行った松井先生だからな……そう思いなおし、疑問を抱きながらも、「石津の戦い」にも大胆に解釈がなされるのだという期待でページをめくった私は、……絶望しました。
「おお 忌々しい虫よ! どこへ行く かくなる上は軍を率いて潰してやる!」
ーーなんと、「虫」を「追いかけて」いたのが、足利尊氏だったとは!
そして、他の人には見えていない、この「邪魔な虫」のことを、尊氏は「虫の報せ」だったと理解したと同時に、「虫を潰しに来た」とも一人納得するのです。私は前回、この「虫」について、師直が感じている「バグ」だと考えていました。「バグ」あるいは「ノイズ」の類なのは間違いなかったようですが、尊氏にとってのそれはレベルが違い過ぎました。尊氏の感じる「虫」(バグ)とは「間違った歴史」だと言うのです。得心してうっすら笑みを浮かべる尊氏に、私は背筋が凍るほどの恐怖を覚えました。
頼重の比ではない未来予知……いや、これって未来予知の域を超えています。北畠顕家の勝利を認めないというのは、一体誰目線での「間違った歴史」なのでしょうか。
前回の第164話(「従える者1338」)で、師直に回想された尊氏少年の変貌ぶりは、宇宙人に誘拐されたか何かの事件ではないかと私は述べましたが、……もうそれしか考えられない!?(そもそも、南北朝時代の日本に「宇宙人」は来ているのか、ってところですが(汗))
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「おおお 神様」
震えながら手を合わせて涙を流す師直を見て、私の恋心は一気に醒めてしまいました。私は『逃げ上手の若君』の師直のことを、本気でかっこいいと思っていたのです。その気持ちが醒めてしまったのは、顕家に負けたからでも、みっともなく泣いているからではありません。
ーー誰よりも強烈に、そして一番最初に、尊氏に身も心も捧げてしまっていたのは、彼だったのだとわかってしまったからです(でも、師直の顔マネをする尊氏を見て目がテンの師直と師泰がかわいいので、まだ高兄弟ファンは続けようと思います)。
ところで、師直の身体から発せられた涙の形をした無数の光が、尊氏に吸収されていますね。これを書いていて、見たくない師直の情けない姿をあらためてまじまじと見て気づきました。ーー何だこれ???
この構図、どこかで見たことあると思いました。マルセイユ版のタロット・カードの「月」です。
大澤義孝氏の『古典マルセイユ版から読み解く タロットの謎』(画像も本書より引用)では、ロシアの神秘思想家・グルジェフの「人間も含め地上のすべての有機生命体はより高次の生命体に食われている」という説を示し、さらに体外離脱(幽体離脱)研究で有名なロバート・モンローが体外離脱した際に知的存在から教わったという「ルーシュ」の知識と重ね合わせて、以下のようなことを考察しています。
ルーシュとは地球の有機生命体が体内で生産する物質で、特に4M対応の作物(おそらく人間のことだろう)が、戦ったり、死んだり、寂しくなったり、葛藤したり、愛や憎しみを抱いたとき、つまり感情を震わせるような経験をしたときに大量に放出されるという。地球という庭はルーシュを生産するための作物を育てる畑で、そこを管理している「誰か」がいる。その「誰か」にとってルーシュは「飲み、食べ、麻薬として使用する」物質だという。
グルジェフは食う側を月とみなしているが、モンローは体外離脱で行く世界にいる高次存在(意思疎通可能な人格的な存在)を想定しているようだ。しかし、人間が知らぬ間に上位存在の食料になっているという点は共通している。通常の家畜と異なるのは、毛皮や肉が目当てなのではなく、有機体の活動によって生まれる未知の物質を食われているということだけだ。
涙型の「滴」は、普通は空(画面の上方)から落ちて来るので、尖った部分を上にして描かれていると思います。ところが、マルセイユ版の「月」では、すべての「滴」が尖った部分を下にして描かれています。これについて大澤氏は、「月に落ちていく滴は、地上の有機体から搾り取られたエッセンスで、上位存在の食料になる物質なのかもしれない。」としています。
つまり、何かが月によって〝吸い上げられている〟図なのです。そこで再度、『逃げ上手の若君』第136話の「ふふ それだよ師直 全ての人の畏れが欲しいのだ」と言う尊氏のコマを見ると、師直の身体から「畏れ」(「心から神に感謝する」気持ち)という、特上の養分をその身にチャージしているのではないかと想像されるのです。
「天くだる あら人神の しるしあれば 世に高き名は あらはれにけり」
この歌は『風雅和歌集』という勅撰和歌集(第十七番目の勅撰集。二十巻。二千二百余首。光厳院(こうごんいん)撰。一三四九年(貞和五)頃成立。〔全文全訳古語辞典〕)に採られた歌だということです。
気になるのは和歌の中にある「あら人神」(=現人神)の語です。『逃げ上手の若君』読者の皆さんは〝諏訪頼重のことじゃないの?〟と思われるかもしれませんが、頼重は辞書的な意味ではまさに「胡散臭い」かもしれません。
『日本国語大辞典』で「あらひと‐がみ 【現人神・荒人神】」の項を確認してみると、まず「(1)神が、仮に人の姿となってこの世に現われたもの。天皇をいう。あきつかみ。あらがみ。」とあり、続いて「(2)随時、姿を現わして、霊威を示す神。霊験の著しい神。多く、住吉や北野の神をいう。」となっています。
この歌は、石津の戦いに勝った師直が住吉社で詠んだ歌とされているとのことです。住吉社と言えば、「仁徳天皇の住吉津の開港以来、遣隋使・遣唐使に代表される航海の守護神として崇敬をあつめ」る神様であり、また、「第十四代仲哀天皇の后である神功皇后 (じんぐうこうごう) 」は「住吉大神の加護を得て強大な新羅を平定せられ無事帰還を果たされま」した〔住吉大社公式HP「住吉大社の由緒」より〕ので、『逃げ上手の若君』の説明にあるように「軍船を焼いた神風への感謝」と解釈するのが従来であり、まっとうなのでしょう。
しかしながら、用例は室町時代末まで下ってしまいますが、「(3)わざわいをする荒々しい神。また、人にとりつく悪霊。」という意味もあるのです。『日本国語大辞典』の「現人神」の(3)の意味であると、尊氏の身心をのっとって食事する「高次存在」というのがそのもの過ぎて、私の尊氏宇宙人誘拐説も笑えなくなってしまうのが怖いです……。
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以前から、古典『太平記』での北畠顕家の存在や戦いがはっきりしない書かれ方なのが気になっていました。「物語」には、多くの人がそれを信じれば、大きな念の力によって「物語」が〝本当のこと〟になるということが言われたりもしています(私は、平将門の首塚などがその良い例だと考えています)。
ところが、顕家の「物語」は、肝心の戦いが語られていなかったり、顕家のキャラクターがどこにもピントが合わないような気がしていました。
そんなことを思い起こしても、『逃げ上手の若君』の尊氏が、「メキィ」「メキ メキ メキ メキ」「グシャッ グシャッ グシャッ」と、本来あった歴史を「潰し」てしまったことは、ありえそうなことだと思ってしまうのです。しかし、逆に考えれば、それでもなお顕家の「物語」が断片的であっても残っている、もっと言えば、現代に至るまで多くの人々が彼を、南北朝最強のイケメンの貴公子であると信じて疑わないということが、すごいことなのではないかとも考えるのです。
〔大澤義孝氏『古典マルセイユ版から読み解く タロットの謎』(アールズ出版)を参照しています。〕
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