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巣ごもり2DK─2020年5月22日~5月25日

2020年5月23日
  パンデミック以前、世界的規模において最も重要な現代的課題は地球温暖化である。それにはグレタ・トゥーンベリの活動の影響が大きい。彼女の行動力が世界的なエコロジーの連帯を生み出している。

 もちろん、同時代的な優先順位からその報道量は減っている。しかも、メディアに取り上げられる際、それはパンデミックとの関連した内容である。

 NHKは、2020年5月20日 0時13分更新「世界のCO2排出量 外出制限などで減少も温暖化防止には不十分」において、そうしたパンデミックの影響を受けた環境問題について次のように伝えている。

新型コロナウイルスの感染拡大に伴う外出制限などの影響で、世界全体の二酸化炭素の排出量が最大で17%減少したとイギリスなどの研究グループが発表しました。一方で、地球温暖化防止のためには十分な減少とは言えず、各国は、経済を回復させる過程で排出量を増やさないための構造的な改革を進めるべきだと指摘しています。
これはイギリスやアメリカの大学などの研究者で作るチームが日本時間の20日、発表しました。
研究では、69の主要な排出国について、外出制限の度合いに応じてことし1月から4月の二酸化炭素の排出量を試算しました。
その結果、1日当たりの排出量は去年に比べ中国で23.9%、日本で26.3%、アメリカで31.6%最大で減り、世界全体では先月7日のピーク時に17%減少していたことが分かりました。
これは、世界的に外出制限が広がり自動車からの排出が大きく減ったことが最大の要因だということです。
一方、ことし1年間の排出量は最大でも7%程度の減少にとどまる見込みで、国連が、世界の平均気温の上昇を1.5度に抑えるために毎年必要だとしている削減目標にようやく届いた水準です。
執筆者の1人で、イギリスのイーストアングリア大学のコリーヌ・ルケレ教授は「コロナ後の経済政策においてどの程度気候変動を考慮するかで、今後、数十年間の排出量が決まる」とコメントし、各国は、経済を回復させる過程で、徒歩や自転車の利用を促進したり在宅勤務を奨励したりするなど、排出量を増やさないための改革を進めるべきだと指摘しています。

 二酸化炭素排出量の減少は尾案でミックによる経済活動の停滞が原因であって、一時的な現象である。コロナ化が下火となり、消費が回復して、生産量が戻れば、温室効果ガスの排出量は増加するだろう。技術革新やライフスタイルの変化を通じて改善される可能性はあるが、パンデミック下の値が維持されるとは考えにくい。

 近代は自由で平等、自立した個人によって成り立つ社会を理念とする。社会契約説によれば、政府、すなわち国家はその社会のための機関である。功利主義によると、個人の功利、すなわち幸福の増大が社会にとって望ましい。その際、経済成長や科学技術の進展による物質的豊かさが必要で、それにはそうした活動の自由が不可欠である。国家は産業発展を邪魔しないのみならず、促進する制度整備や政策実施を担当していく。

 しかし、急激な産業発展は自然環境にその回復力を大きく上回る負荷を加える。それは無視できない状態に至り、公害を始めとするさまざまな環境問題が噴出する。こうした状況は近代文明自身への懐疑をもたらす。物質的豊かさの追求がこの事態を招いたことは確かである。それは社会の功利の増大に基づいており、この幸福はあくまで人間が中心だ。その信託を受けた政府の活動も同様である。産業主義には人間中心主義が背後にある。

 エコロジーはこうした人間中心主義への批判を含まざるをえず、それは近代を相対化する思想である。エコロジーの政治は人間社会の維持と繁栄、すなわち人間の満足以外の課題の考察を促す。伝統的な共通善、すなわち公共の利益に人間以外の自然界全体のそれを加味する。むろん、環境悪化は社会における功利を減少させる。功利を増大させるために、政府はエコロジーの問題提起に応える必要がある。だが、人間の幸福追求自体が環境悪化を招くとすれば、自由の制限が伴い、人々の同意が必要となる。

 エコロジーの主張を自由主義と調和させた発想が持続可能な開発である。フェミニズムがそうさせたように、エコロジーも自由主義を進化させている。持続可能な開発によりエコロジーは拡張された自由主義でもある。

 人間中心主義批判は近代文明全体を射程に入れるので、近代以降に蓄積されてきた知識の全否定を招きかねない。それは非合理主義の台頭を許すことになる。その一つが既得権や生活習慣の維持のため、エコロジーの異議申し立てを軽視・無視する動向である。それは、アメリカの地球温暖化懐疑論者が示している通り、科学の知見を恣意的に利用する。一つ一つ挙げるまでもなく、グレタの主張に反対する言説の多くがこの非合理主義に含まれる。

 新型コロナウイルス感染症をめぐる非合理主義も、ドナルド・トランプ米大統領が示すように、エコロジーに対するそれと重なるところがある。そこに共通しているのはパターナリズムだ。

 このごろどうも、おじさんぽい言説が、社会の表層で幅をきかせているような気がする。社会の価値観が変わろうとしているときだけにかえって目につくのかもしれない。
 伯父さんやおばさんの言説的特徴は、ものごとを単純に割りきり断定したがることだ。「人間が生きていくにはきびしさが必要だ」とか、「どの世界にもいじめはある」とか。さすがに今では、「男は女を征服したがるものだ」とか「金さえあれば幸福が買える」だとかは口に出しにくいが、心の底で考えていないでもない。
(森毅『みんなおじさん化』)

 夕食には、牛肉とも野菜の炒め物、セロリとパプリカのピクルス、野菜サラダ、豆腐と海苔の中華スープ、食後には玄米茶、ウォーキングは10037歩。都内の新規陽性者数は22人、

参照文献
森毅、『21世紀の歩き方』、青土社、2002年
「世界のCO2排出量 外出制限などで減少も温暖化防止には不十分」、『NHK』 、2020年5月20日 0時13分更新
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200520/k10012436651000.html?fbclid=IwAR2oJlYbZ1cEUiKZv1QplYpSNujd4zB_cVhACfSyJNR-zsg7Cyz7iTbM10k


2020年5月24日
 文学は、医療と違い、生命に不可欠ではない。ただ、QOL(生活の質)に寄与する。近代以降の文学のアイデンティティは「社会の中の文学」である。前近代において、古典を含め共同体にの範を共通理解にして美意識を交歓するのが文学の楽しみ方だ。しかし、近代では価値観の選択が個人に委ねられている。その自由で平等、自立した個人が集まって社会を形成している。だから、作者と読者の共通理解の基盤はその社会である。ベストセラーは言うまでもなく、古典のリバイバルや国外作品の流行が起きた際、今なぜこれなのかという問いが文学者やメディアなどから発せられることがそうした証の一つである。

 しかし、日本の文芸誌はそのアイデンティティを十分に理解していな。『NHK』が伝える2020年5月24日 6時18分更新「文芸誌が相次ぎ特集 文学作品にも新型コロナの影響」 はそれを善く物語る。

新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、文芸誌は相次いで最新号で特集を組み、感染が広がる社会を舞台にした小説などを掲載しています。編集者は「新しい文学として今後さらに作品が増える可能性がある」と指摘しています。
今月発売された『新潮』の6月号には「コロナ禍の時代の表現」という特集が組まれ、芥川賞作家の金原ひとみさんや、鴻池留衣さんなどが新作を発表しています。
金原さんの「アンソーシャルディスタンス」は、恋人どうしの若い男女が新型コロナウイルスの感染拡大による生活の変化や制約に直面し、やるせなさに苦しむ様子が描かれています。
また、河出書房新社が先月発売した『文藝』の夏季号では「アジアの作家は新型コロナ禍にどう向き合うのか」と題して6人の作家がエッセーを寄せ、このうち中国を代表する社会派の作家、閻連科さんは、世界中で不安が広がる中で文学が果たす役割をめぐって葛藤する思いなどをつづっています。
『文藝』の坂上陽子編集長は「東日本大震災のあとに『震災後文学』が現れたように、その時代時代で新しい文学が生まれている。今後さらに作品が増えてくるという印象を持っています」と話しています。
このほか講談社の『群像』6月号でも、ドイツ在住の作家、多和田葉子さんが電話インタビューの中でヨーロッパの状況を紹介したり、経済思想の研究者、斎藤幸平さんが感染拡大がもたらした危機的な状況を現代社会の構造的な問題として捉える必要性を説いた文章を寄稿したりしています。

 社会を揺るがす事件・出来事が起こった時、文芸誌がそれをテーマとした特集を組み、文学者が作品を発表したり、発言したりすることは当然である。3・11が示しているように、広範囲に影響が及ぶ出来事に直面した際、文学者のとる姿勢はおそらく四つあるだろう。 第一に、ニューノーマルを取り入れた作品を描くことである。第二が文学者として現状に対して何を認知し、行動できるのかを述べることである。第三は、具体的な状況についてのルポを伝えることである。第四に、フォーチュンテラーとして来たるべき世界に関する提言を語ることである。このうち、ルポとフォーチュンテラーは文学者に限らない。前者はジャーナリスト、後者は思想家も行っている。

 パンデミックは影響が極めて広い範囲に亘り、その継続期間も年単位と長い。社会はそれに圧倒される。文芸誌がその特集をするのであれば、この広大さ・長大さを体現する必要がある。それは尋常ではない形式をしていなければならない。

 パンデミックは、影響がきわめて広範囲で、一人の作家の想像力でとらえられるものではない。この状況への文学者の対処法として、あえて狭い世界を選び、そこでの変化を描き、漣かのように、他の作家と連作することが思い浮かぶ。作家の人数は極めて多くなければならない。世界に対する鳥瞰的=叙事詩的な視点は困難なので、局所的=抒情詩的なそれの集合体を提示するということだ。他にも、日々の報道・生活をめぐる思索を長期に亘って記していく方法もある。これにより影響の広範囲さだけでなく、時間に伴う変化を表わすことができる。パンデミックは変化の及ぶ範囲が広く、長期に続くので、それを文学として取り扱うには長大さが必要である。

 もちろん、雑誌の特集でこういう試みは難しいだろう。けれども、各紙の今回のそれでは事の重大さを示せていない。イマヌエル・カントが『判断力批判』において崇高を論じたように、見る者を圧倒する巨大さが要る。それは事の重大さを伝える量の可視化だ。失われた者は少なくない。変わったことは小さくない。そう経験した文学関係者は国内外に多いことだろう。その量を具現することが圧倒する特集となる。

 社会の中の文学という認知を持って普段から行動していれば、パンデミックに見舞われたからと言って、文学者として何ができるかなどと悩まないものだ。影響の広がりに驚き、未来が見通せないことに困惑し、この感染症の恐怖に怯え、死者を悼み、想像力の限界に打ちのめされたら、それを作家として書き、編集者として特集すればよい。社会がその尋常のなさを詠んだ時、圧倒され、パンデミック下にいることを改めて実感するものになるはずだ。

 夕食には、カルボナーラ、キャベツの酢漬け、野菜サラダ、モズクスープ、食後はアイスコーヒー。屋内ウォーキングは10143歩。都内の新規陽性者数は14人。
 
参照文献
「文芸誌が相次ぎ特集 文学作品にも新型コロナの影響」、『NHK』、2020年5月24日 6時18分更新
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200524/k10012442631000.html?fbclid=IwAR3Tc1FOR1-LDYvee9Fg4MsKZzQ2ep6_G14nAv6sawJEtkSqc1jqJ3dPqsY


2020年5月25日
 日本政府は5月31日に予定していた緊急事態宣言の解除を今日に前倒しする。とは言うものの、完全に終息したわけではない。スペインかぜの時には3年を要しているのだから、それくらいは覚悟しておくべきだろう。

 新型コロナウイルスは、インフルエンザ同様、RNA型で、変異して感染力や毒性も変化する可能性がある。不明な点が多いが、変異によりさらにそれが増すかもしれない。ワクチンが開発されても、楽観視は禁物だ。重症化したり、後遺症が残ったりするので、2019年水準にいきなりではなしに、様子を見ながら徐々に行動を戻していくことになる。経済活動の制限も完全に緩和されることもなく、巣ごもり生活もそれに合わせてやりくり状態が続くように思える。

 以前より日本の中央・地方政府が一度決めた判断を覆さないのは、彼らが無責任だからだとされてきたが、このコロナ禍でその理由が明らかになっている。それは元々の決定に合理性が乏しいからだ。合理的論拠があれば、状況が変わった際でも、それに基づいて検証可能だから、変更・中止ができる。しかし、最初からないのだから、正当化するために、非合理的な言い訳を繰り返し、決定が維持される。

 政府の対策をめぐってメディアを通じて「エビデンス」をしばしば耳にする。これは定量的・実証的データとして用いられることが多いが、厳密には、インパクトファクターの大きい学術誌に掲載された論文に基づくことを意味する。しかし、「エビデンス」は、今回の政策活用の場面において、政治学者のキャロル・H・ウェイス(Carol H. Weiss)による研究活用モデルで言うと、「政治的モデル(The Political Model)」や「戦術的モデル(The Tactical Model.)」のレトリックとして用いられている。前者は政治的に特定の立場を支持・反対するために利用されるモデルである。また、後者はその知見よりも研究が行われている事実のみが重要とされるモデルだ。政府とその専門家会議の見解がそれの擁護の際の「エビデンス」は、少なからず、この二つのモデルのレトリックである。

 NHKは、2020年5月25日6時53分更新「米紙『計り知れない喪失』新型コロナ死者の氏名など掲載 において、パンデミックのただ事ではないことをもっともよく物語るNYT紙の記事について次のように伝えている。

新型コロナウイルスへの感染による死者の数が10万人に迫るアメリカで、有力紙ニューヨーク・タイムズは、24日付けの紙面の1面いっぱいに「計り知れない喪失」という見出しで亡くなった人の氏名や人物紹介を掲載し、事態の重大さを伝えています。
アメリカのジョンズ・ホプキンス大学の集計によりますと、アメリカでは新型コロナウイルスの感染者は世界最多の163万人、死者も9万7000人を超えています。
有力紙ニューヨーク・タイムズは、24日付けの紙面の1面に「アメリカの死者10万人に近づく。計り知れない喪失」という見出しをつけ、ウイルスに感染して亡くなった人、1000人分の氏名や年齢などを掲載しました。
亡くなった人の情報は地方紙の訃報などから集めたということです。
リストの中には「笑みを絶やさないひいおばあちゃん」とか「魔法の天才として知られた数学者」と紹介文が記されていたり、「生涯を社会奉仕にささげた」といった感謝のことばが添えられたりしていて、故人をしのぶ内容になっています。
ニューヨーク・タイムズは「この1000人はアメリカの死者数の1%にすぎないが、一人一人の死は単なる数字ではない」として、いかに多くの人がウイルスによって命を落としたか、アメリカが直面する事態の重大さを改めて伝えようとしています

 新型コロナウイルス禍をめぐりこれほど「重大さ」を具体的に表わした記事はない。言うまでもなく、こうした試みは初めてではない。HIV禍を扱ったTVドラマ『ノーマル・ハート(The Normal Heart)』(2014)のラストにおいても犠牲者のリストが流れている。それを踏まえているからこそ、「ニューノーマル(New Normal)」と言われる時代に「重大さ」をよく物語る。

 死者は各々名前を持っている。固有名詞は唯一単独なものを示すので、普通名詞と違い、加算することができない。「志村けん」と「岡江久美子」を足すことは不可能である。しかし、死者という普通名詞として扱うならば、2人と足し合わせることができる。「使者」と言う普通名詞がいつどこで生まれたのかはわからない。けれども、「志村けん」や「岡江久美子」という固有名詞がいつどこで生まれたかを知ることができる。そこには人生がある。

 NYT紙は死者と言う普通名詞ではなく、各々を固有名詞として扱う。加算することができないので、名前がページを埋め尽くし、あふれ出しそうだ。その視覚的効果により事の「重大さ」が目にする者に印象づけられる。この光景に圧倒され、パンデミックが公共の問題と気づく。その時、死は私的ではなく、公的なものになる。日本の文芸誌に欠けているのがこの公共性の認識である。

 夕食には、青椒肉絲、野菜サラダ、カボチャのヨーグルトサラダ、麻婆豆腐スープ、食後はウコン茶。屋内ウォーキングは10122歩・都内の新規陽性者数は8人。

参照文献
Weiss, C. H. ‘The many meanings of research utilization’. ”Public Administration Review”. 1979, vol. 39, no. 5, p. 426-431.
「米紙『計り知れない喪失』新型コロナ死者の氏名など掲載」、『NHK』 、2020年5月25日6時53分更新
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200525/k10012443381000.html?fbclid=IwAR3aEHcjE18-OBsaxxXD1O5_qqfholSXNlEQGdx9Eih-9Fg4DakxxigsxP4
延広絵美、「緊急事態宣言を全面解除、東京など5都道県で7週間ぶり」、『ブルームバーグ』、 2020年5月25日 20時37分更新
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-05-24/QAQ0TNT1UM0Y01
〈了〉

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