I Love You, Mr. Robot─手塚治虫の『鉄腕アトム』(11)(2001)
11 Themes frim Osamu Tezuka
手塚は、『マンガの描き方』の中で、手塚マンガのテーマは大きく二つあり、そのうちの一つが「言葉のちがう者同士のヒューマン・リレーションの欠如」と言っている。手塚によると、その代表が『鉄腕アトム』や『0マン』、『リボンの騎士』、『ブラック・ジャック』であって、さらに、『鉄腕アトム』の中に「注ぎ込まれたテーマは、人間のロボットに対する侮蔑とか差別であり、優位に立った者の行動に対する、疑問でもあるのだ。虐げられたロボットのコンプレックスと自覚。この両者の間で、人間でも機械でもない、アトムという少年の、悩みを描いているのだ」。
『鉄腕アトム』では、アトムはお茶の水小学校へ通っているが、アトムが脇役だった『アトム大使』では、「ヒューマン・リレーションの欠如」にのみ焦点があてられている。『アトム大使』では、素朴な共生を批判している。最初はうまくいっているかに見えて、不満と不信が蓄積し、些細なことをきっかけにして、ファシズム的運動が始まってしまう。関東大震災後の朝鮮人虐殺を思わせるようなデマによる宇宙人虐殺を描いている。宇宙人は地球人に対して報復を宣言し、全面戦争に突入しそうになる。地球人でも、宇宙人でもないロボットのアトムが宇宙人と交渉するために、宇宙船へ向う。アトムは大使の役割を果たし、両者は和解する。お茶の水博士は、ヒゲオヤジに対して、『アトム大使』の最後で、「人間のやってることが正しいか狂っているかは…機械が一番よく知っとるんじゃよ、きみ!!」と言っている。
『鉄腕アトム』でも、アトムは人間とロボットの大使を演じているが、『アトム大使』とは違い、第三者ではない。「青騎士」において描かれているロボタニアは、ユダヤ人による国民国家イスラエルの建設を引き合いに出している。また、「メラニン一族」では、アメリカの黒人によるリベリア設立を思い起こさせるアトムによるアフリカにロボットの国家建設が計られる。ロボットに対する差別がなくならない理由で、ロボットによるロボットのためのロボットの国民国家建設に賛成したものの、アトムはそれを最終的に放棄する。ロボットと人間は共生していくべきなのだ。
アトムはいつでも交渉する大使である。手塚は、一貫して、暴力による「ヒューマン・リレーションの欠如」の解決を認めない。「アトラス」において、ラテン・アメリカの先住民族差別を告発しつつも、テロリズムはその解決策にならないと主張している。当時の手塚の理想とする政治体制は、「ZZZ総統」(一九五四)で「地球連邦」を描いているように、リベラル・デモクラシーの連邦制・共和制である。手塚にとって政治体制は共生を目指すものでなければならない。
手塚の共生は、「アトム今昔物語」の中のリーマス大佐と宇宙人のケースが示している通り、パラサイトの肯定である。「ヒトとその体内に棲む寄生虫との関係は『共生』である」(藤田紘一郎『共生の意味論』)。「アトム今昔物語」が執筆された頃、日本では、寄生虫を排除する方向に向っている。手塚の「共生」は今日の医学的傾向を先取っていたのである。手塚治虫の共生をめぐる認識は極めて刺激的である。
手塚はミトコンドリアの謎や進化論に対しても示唆を与えてくれる。ミトコンドリアは、河野重行の『ミトコンドリアの謎』によると、細胞の中に存在し、呼吸をして、エネルギーを生産する。その上、DNAを持ち、老化に関係し、性的ふるまいをする。ミトコンドリアは、本来、別の生物であったが、細胞の中に入りこみ、共生するようになる。生物進化は、手塚治虫に従えば、環境要因や遺伝子の突然変異のみならず、こうした「共生」によって促進される。
「共生」から見ても、『鉄腕アトム』はさらに読まれなければならない。「鴨長明とか、与謝蕪村とか、そうした人の生き方に憧れている。都の俗を避けて山にいるようで、加茂の祭ともなれば、浮かれている長明が好きだ。蕪村だって、南の芝居を欠かしたことがない。俗を捨てたと言いながらも、ときにはだれかに馳走になって、俗を楽しまぬでもない。世俗にこだわらなかっただけのことで、なんとも優雅だ。考えようによっては、これは俗に寄生することでもある。雅の人だらけになったら、世の歯車はまわらないだろう。俗あっての雅である。だから、俗を敵にしては優雅になれない。(略)雅の人のいいのは、俗のなかの雅として、世のバランスを支えているからである。そして、世の中のこととよりなにより、雅の人を眺める自分自身にとって、俗に生きる自分に雅の風穴があく」(森毅『清貧より優雅』)。
手塚マンガのもう一つのテーマは、手塚によれば、「生と死」であり、それを最も明瞭に打ち出した作品が『火の鳥』である。「自分が死ぬときになって、『ああ、死とはこういうものか』という体験をする、そのときが、この物語の終わるときではないか、とさえ思っている」。だとすれば、『鉄腕アトム』と同様、『火の鳥』が終わることはなかっただろう。「隣へ行って仕事をする。仕事をさせてくれ」と言って、手塚悦子によれば、手塚治虫は亡くなっている。
手塚は終わりが嫌いだ。『鉄腕アトム』は雑誌では未完のまま終わる。TVアニメではアトムは死んだことになっているが、『産経新聞』の「アトム今昔物語」のほか、アニメの後のアトムを何度か描いている。『ブラック・ジャック』も、本質的に、終わっていない。一九七八年九月に「人生という名のSL」で連載は終えているが、その後、何度も読み切りを発表している。
手塚は完結した作品にも、手を加えている。『ジャングル大帝』のように、加筆すると、作品を台無しにすることも少なくない。手塚にとって、作品の終わりがないのは、終わりが死を意味するからである。神の死が決定不能に陥っている時代にあって、それはふさわしくない。
手塚はこの時代を体現したマンガ家としての老いにも挑戦している。水木しげるのように、デビュー年齢が遅い場合はともかく、年齢とともに、視力は衰え、筋肉の柔らかさと強さは失われていくのであり、転換はやむをえない。速球投手が変化球投手に変身していくように、年齢にあわせた線の描き方が問われるようになっている。手塚は、ギクシャクしながらも、転換できたが、晩年、丸を描けなくなったと嘆いている。
けれども、これまでの歩みからも明らかなように、衰えを指摘されながらも、マンガではマンガ家と道具とのせめぎあいもある以上、新たなテクノロジーを導入しつつ、新しいマンガの方法を提出することが手塚には可能だろう。
エピローグ アトムの子
夏目房之介は、一九九六年、NHK教育テレビにおいて、『マンガはなぜ面白いのか』という十二回に渡る素晴らしい連続講義を行ったが、今や「マンガはなぜ面白かったのか」という時代に突入している。マンガの人気が衰えたとは、確かに、言えない。多くのヒット作が生まれているし、海外のMangaのマニアも増えている。しかし、戦後マンガは東西冷戦の解体とバブル経済の崩壊でエネルギーがなくなる。戦後マンガが立脚してきた経済成長と東西冷戦が消失したからである。大友の手法ももうそのままでは使えない。大友のマンガは東京オリンピック以降の日本を最も体現している。それは、『AKIRA』の最後が物語っている通り、他者、すなわち「言葉のちがうもの」の排除へと辿り着かざるをえない。
サイレント映画が示しているように、「言葉のちがう者同士」、外国人同士のコミュニケーションでは、オーバーアクションを使わざるをえない。喜怒哀楽の表情は、記号化した顔文字が表わしているように、言語や文化に依存しない。感情や主張を相手に伝えるために、表情や仕種にわかりやすく記号化しなければならない。
手塚のマンガ革命は潜在性を記号化によって顕在化する試みだったが、戦後マンガはすでに顕在化している問題を比喩として用い、発展している。
夏目房之介は、『手塚治虫の冒険』の中で、マンガを生み出した力について、次のように述べている。
ともかく日本語の構造っていうものに、ある力がはたらいて立体化して、日本のマンガができた。じゃあその力は何だったのか。それは外部性と越境の力学だったんじゃないかと僕は思ってるんです。つまり手塚が戦後マンガにもち込んだものですね。
一コマ・マンガ以外は、マンガが、絵画と比べて、言語に依存しているのは確かであるとしても、「外部性と越境の力学」は高度に消費化した資本主義の運動そのものである。しかし、日本国内では、それが理念上にすぎず、コミュニケーションのレベルで、根本的な変化をもたらしていない。外部へ越境することはあっても、外部から越境されることが少ない。力は、マンガにおいて、記号と記号の交換であり、この交換は一方的である。
戦後マンガはマンガ家と読者の間の暗黙の共犯関係によって成り立っている。越境されることが少なかったため、戦後マンガが最も描けなかったのは、それぞれの人間の違いをパーソナリティだけでなく、社会的・時代的背景に基づいて造形することである。たとえ海外でマンガが受け入れられているとしても、外国人を描けた作品はほとんどない。「民族や国別や職業別の顔の描きわけ」(『マンガの描き方』)が不十分である。
もちろん、マンガに登場する外国人虚像であるから、日本の若者が彼らに対してどのような願望を抱いてきたかを確かめる素材になり得る。時代を追っていけば、の変遷を捉えられるだろう。また、ジャンルから検討すれば、性別や年齢層の特徴が明らかになるに以外ない。マンガは虚像であるがゆえに、読者層が共有する認知を考えるのに適している。
意識していないような思考を含めて、医師を扱う場合、内科医、外科医、耳鼻科医、眼科医、皮膚科医などの違いを描きわける必要がある。手塚は、「てるてる坊主」(一九七六)や「湯治場のふたり」(一九七六)、「土砂降り」(一九七七)などでブラック・ジャックが外科医であることをうまく描いている。外科医は、手術をほとんど行わない内科医と違い、比較的、患者の話を聞かない傾向にある。日本における問題の多くは、三十八度線のような可視的ではなく、不可視である。
ただ、高度経済成長による風景の変化は数少ない可視的問題を提供している。戦後マンガは問題の潜在性を顕在化することなく、マンガ家も、読者も、東西冷戦構造と高度経済成長という可視的な枠組みに依存している。
東西冷戦構造の解体とバブル経済の崩壊によって、戦後マンガ発展の根拠は失われる。さらに、一九九〇年代後半に起きた地下鉄サリン事件や阪神・淡路大震災、グローバリゼーション、IT革命、失われた一〇年、政治・行政改革は戦後マンガの「思想」の多くを無効にする。そうした事件や出来事を超えても、例外的に、手塚の提起した問題は生き続けている。潜在的に存在してきた他者が顕在化してきたとき、他者を意識し続けた手塚が蘇るのは当然である。手塚は、現実に対して、冷ややかに構えることもなく、やりすごす姿勢を持たない。『マンガの描き方』の「あとがき」において、「漫画は今後、どうなるでしょうね」と問われ、手塚は「世界じゅうをひっくり返すような漫画が、今後、出ないもんですかなあ。日本だけの反響なんて、小さすぎる」と答えている。
日本のマンガやアニメはかつてないほど輸出されている。戦後そうだったように、若年層を中心に、日本の文化として受容されている。手塚がぶつかった異文化の壁は著しく低くなっている。手塚は『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』のアニメが海外に輸出されたこともあって、異文化と直面し、それを意識せざるをえない。手塚以外はこの他者の視線をあまり気づかない。戦後マンガは、日本語の世界で、自閉的に発達している。日本のマンガは、逆に、その自閉性のために、技術的に高い発展を遂げている。
自閉的な世界は、中世のスコラ哲学がそうであるように、細かな技術が発達する。その極限が大友だろう。大友は絵だけでマンガをどこまで表現できるかというテーマに取り組み、限界まで推し進めた反面、極端な視覚主義は、少なからず、嗅覚や聴覚、味覚、触覚を犠牲にしている。マンガで、それらを表現するには、手塚が堅持した記号化しかない。手塚亡き今、新たなマンガのルールが求められているとしても、もはや日本国内からは生み出す可能性は低い。日本語の非ネイティヴ・スピーカーによるマンガがそれを行うだろう。「外部性と越境の力学」がそこにはある。これからマンガは、日本の影響を受けた海外で、むしろ、発展してゆく。
しかも、インターネットは英語の世界であり、ネットのサイバー・マンガは英語の構造に依存する。また、ネットの向こうには、多言語の世界が潜在的に存在し、携帯電話でウェブサイトを見る時代にさえ突入している。一九八九年に亡くなった手塚はインターネットには出会えていない。『鉄腕アトム』の中でさまざまな未来予測を的中させた手塚だったが、インターネットは描いていない。ロボット開発史はARPANETに始まりインターネットへと向うネットワーク通信の歴史に奇妙に符合している。手塚は、逆に、国家の強化を予測している。アイデンティティ・ポリティクスの勃興を見る限り、その予想は外れていない。
手塚の盲点は「パーソナル」である。彼は携帯電話や電子メールを想定していない。だが、手塚にとって、未来は解釈項である。『鉄腕アトム』を未来という解釈項から読むとき、記号が再変換されるように、手塚を今という時代から考えると、そうなる。「手塚治虫」も記号だ。
インターネットを通って、多種多用な言語のマンガも世界に向けて発信されている。手塚はそうしたサイバー・マンガに驚嘆して、多言語を貪欲に吸収し、「手塚治虫@ワールド」という公式サイトを通じて、新たな記号化を試み、ハイパー・マンガに挑戦していたかもしれない。パソコンに向い、自分のマンガのスタイルを大きく変え、大友のナノテクノロジーを超えるマンガのアトムテクノロジーに挑んでいたことだろう。
アトム自身が『鉄腕アトム』を描き始めるときが到来する。海外からどころか、ロボットがマンガに参入してくる。マンガが人間に独占され続けるなど幻想にすぎない。ロボットはセンサ・プロセッサ・アクチュエータ、すなわち入力装置・データ処理装置・出力装置を備えた機械である。ロボットの開発は「人間とは何か」を問い直すことにつながる。人間とロボットが、いや、すべての生成が共生して、マンガを描き、楽しむ日がきっとやってくる。それこそが手塚治虫が見ていたマンガという「得体の知れないもの」の夢である。「マンガは、現在も、明日も、明後日も、分裂しては増殖しつつジワジワと変貌する」(『ぼくはマンガ家』)。
どんなに 大人になっても 僕等は アトムの子供さ
どんなに 大人になっても 心は 夢見る子供さ
Fe-Fe-Feel it! Fe-Fe-Feel it!
いつでも 百万馬力で みるみる 力がみなぎる
だからね さみしくないんだ 僕等は アトムの子供さ
Fe-Fe-Feel it! Fe-Fe-Feel it!
Oh Boy どんな時でも 君の事だけを Oh Boy 考えていたっけ
意地悪 する子がいたって 最後は 仲良くなれたよ
あの子は どうしているだろ 今でも 大事な友達
みんなで 力を合わせて 素敵な 未来にしようよ
どんなに 大人になっても 僕等は アトムの子供さ
Fe-Fe-Feel it! Fe-Fe-Feel it!
─Tribute to The King “O. T.”─
(山下達郎『アトムの子』)
「おむかえでゴンス」。
〈了〉
参照文献
石森章太郎、『ぼくの漫画ぜんぶ』、廣済堂出版、一九七七年
石ノ森章太郎他、『宇宙鉄人キョ―ダイン[完全版]』、マンガショップシリーズ、二〇一一年
今村仁司編、『現代思想を読む事典』、講談社現代新書、一九八八年
小栗康平、『映画を見る目』、NHK出版、二〇〇五年
小林秀雄、『考えるヒント』、文春文庫、二〇〇四年
田中康夫、『言いたいこと言うべきこと』、扶桑社、一九九四年
手塚悦子、『手塚治虫の知られざる天才人生』、講談社+α文庫、一九九九年
手塚治虫、『鉄腕アトム』全21・別1、サンコミックス、一九七五~七六年
同、『ブラック・ジャック』全25、チャンピオンコミックス、一九七四~一九七八年
同、『マンガの描き方』、知恵の森文庫、一九九六年
同、『ぼくはマンガ家』、角川文庫、二〇〇〇年
同、『ぜんぶ手塚治虫!』、朝日文庫、二〇〇七年
同、『火の鳥』全13、角川文庫、二〇〇九年
夏目房之介、『手塚治虫はどこにいる』、ちくま文庫、一九九五年
同、『マンガはなぜ面白いのか』、NHKライブラリー、一九九七年
同、『手塚治虫の冒険』、小学館文庫、一九九八年
成井紀郎、『ゴーゴー悟空』、テレビマガジンKC、一九七七年
藤田紘一郎、『共生の意味論』、講談社ぬるーバックス、一九九七年
森毅、『キノコの不思議』、知恵の森文庫、一九九六年
同、『二番が一番』、小学館文庫、一九九九年
同、『ええかげん社交術』、角川oneテーマ21 、二〇〇〇年
同、『もうろくの詩』、青土社、二〇〇八年
E・アウエルバッハ、『ミメーシス』上下、篠田一志他訳、ちくま学芸文庫、一九九四年
アイザック・アシモフ、『コンプリート・ロボット』、小尾芙佐訳、ソニーマガジンズ、二〇〇四年
ウィリアム・ギブスン、『ニューロマンサー 』、黒丸尚訳、ハヤカワ文庫SF、一九八六年
F・ニーチェ、『ニーチェ全集』4~6・9~13、ちくま学芸文庫、一九九三年
ダナ・ハラウェ他、『サイボーグ・フェミニズム』、巽孝之他訳、水声社、二〇〇一年
DVD『エンカルタ総合大百科』、マイクロソフト社、二〇〇一年
DVD『手塚治虫漫画大全集』、講談社、二〇〇一年
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