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歴史と遺産(2)(1994)

3 世代と歴史
 ヘーゲルに強い影響を受けたカール・マルクスは、フリードリヒ・エンゲルスとの共著『ドイツ・イデオロギー』において、歴史過程について次のように述べている。

 歴史とは個々の世代の連続的交代にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行 するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力を利用する。したがって一方では、うけつがれた活動をまったく変更された環境のもとでつづけてゆき、他方では、ふるい環境をまったく変更された活動でもってあらためてゆく。ところでこのことが思弁的にねじまげわれて、後代の歴史が前代の歴史の目的とされるようになる。たとえばアメリカ発見の基礎には、フランス革命の勃発をたすけるという目的がおかれるわけであるそうすれば歴史はその特別な諸目的をもつことになり、『他の諸人格にならぶ一人格』 (Person neben anderen Personen,他の諸人格とは『自己意識、批判、唯一者』などの こと)となる。しかるに前代の歴史の『使命』(Bestimmung)、『目的』(Zweck )、『芽ばえ』(Keim)、『理念』(Idee)、という語でよばれるものは、後代の歴史の一つの抽象、前代の歴史が後代の歴史へおよぼす能動的な影響の一つの抽象にほかならない。--さて相互にはたらきかけあうここの範囲がこの発展の過程につれてひろがってゆけばゆくほど、そして発達した生産様式と、交通と、それによって種々のこくみんのあいだに自然成長的につくりだされた分業とによって、個々の民族の原始的な自足性がうちこわされてゆけばゆくほど、歴史はいよいよ世界史になってゆく。

 これまで見てきた「遺産」をめぐる歴史観とマルクスのそれは異なっている。歴史は、線的に流れてきたものではない。それは、後の「世代」が前の「世代」の恣意的な偏りを「使命」、「目的」、「芽ばえ」、「理念」というように必然化してしまうような、隠蔽と抑圧の累積としてある。線的な時間性によって成立している歴史など、倒錯的な構成物である。「世界史」とは、「自由の意識の進歩」というような必然的な、目的的な、一方向的な意味ある発展などではなく、偶然的な、無目的な、非方向的な「交通」の所産である。しかし、マルクスは、中心を退ける多元的なものとして「世界史」をとらえたのではない。中心がたえず移動し、そのつどそれが偶然的なものであると見る。だから、歴史に世代交代がつきものであっても、負債を含めて「遺産」は線的に世代間で継承されるわけではない。歴史に偶然性を認めることはルソーと同意見であるが、「遺産」の相続が必ずしも線的ではないことに違いがある。

 マルクスは「歴史」を「個々の世代の連続的交代」と定義している。この「世代」は人間だけにあり、動物にはないものの一つ、人間と動物との区別の一つである。すべての感性的存在は欠如を持ち、それに働きかけて存在している。このことには動物も人間も違いはない。しかし、動物も、人間と同様に、欠如を持って、欠如に働きかけるが、外的環境と本能的に合一化できるので、働きかけに遅れというものを感じることはない。人間は、動物と違って、外的環境に対して差異として存在してしまうため、つねに遅れてしまい、それを過剰に取り戻そうとしてしまう。言うなれば、人間とは自らを規定しえない存在である。

 フロイトは、『自我とエス』において、人間は外的環境に自動的に、本能的に適合しうる能力を所有しておらず、そのため、他の動物と比べて、異常に長い幼年期を持たなければならないということに、「世代(父と子)」が「制度」として生ずるゆえんを見出だしている。「世代」は「自然」的なものではなく、すでに「社会」的なものだ。「世代」とは、実は、時間において線的なものではなく、欠如・無力性から生じた、欠如を遅れてしかも過剰にとりもどそうとする示差的なものである。

 その上で、フロイトは『自我とエス』において「世代」間の「階級闘争」として心的世界をとらえている。前の「世代」は、後の「世代」にとって、過去であると同時に現在なものでもある。前の「世代」は後の「世代」に、「父」の「子」に対する関係のように、同時代的に「支配階級」として君臨する。だが、時間的差異の間に「子」=後世代は「父」=前世代との隔りを表示する。時間的状況におかれた「子」は「父」による禁止、「子」にとっての否定的自己認識の諸前提を疑うという「階級闘争」によって、一種の弁証法的運動によって、自らを確立していく。その際、「子」は「父」との同一化をつねに希望するが、繰り返しえない弁証法的運動ゆえに、それは断念せざるをえず、「子」は、知らず知らずのうちに、「父殺し」を行ってしまう。

 ある「世代」が消え去ったら、次が出現するわけではない。「世代」には重なりがある。マルクスの「世代」も通時的であると共に共時的であると理解できよう。マルクスは『ドイツ・イデオロギー』で、続けて、次のように述べている。

 ところでいま、歴史的な経過をつかむ場合に支配階級の思想を支配階級から切り離し、 それを独立化し、一つの時代にあれこれの思想が支配したという点にとどまって、これ らの思想の生産の諸条件および生産者たちのことを気にとめないことにしよう。従って、 思想の基礎となっている諸個人や社会的条件を省くことにしよう。そうすれば、例えば 貴族が支配していた時代には名誉、忠誠などの概念が支配し、ブルジョワジーの支配の ときには、自由、平等などの概念が支配していたということができることになる。支配 階級はおおむねこのように想像するのである。特に十八世紀以来すべての歴史家に共通 しているこの世界観は、必ずや、いよいよ抽象的な思想、すなわちいよいよ一般性の形 態をとる思想が支配するようになるという現象につきあたるだろう。言い換えれば、自 分より前に支配していた階級に代わって現れる新しい階級は、すでに自分の目的を貫く ためにも、みな自分の利害を社会のあらゆる成員の共同利害として掲げずにはいられな い。すなわち観念的に言い表せば、自分の思想に一般性の形態を与え、それを唯一の合 理的且つ一般通用的な思想として掲げずにはいられない。

 支配的・普遍的と見られている概念は、実は、「階級闘争」の結果、現実の力関係によって成立した「支配階級」のイデオロギーである。「階級闘争」は、普遍性・支配性としての言説の根本的諸前提に対して懐疑をはさみこむこと、あるいは前の「世代」である「支配階級」の転倒した意識によって抑圧・隠蔽されているものを解読することだ。「歴史」は、その「階級闘争」を通じて、「個々の世代の連続的交代」として現われる。

 その上で、フロイトの先の『モーセと一神教』の「遺産」を思い出してみよう。「遺産」とは「世代」があって始めて存在するもので、自立してあるものではない。「遺産」とはあくまでも「親」という先にあらわれたものから見られたものではなく、遅れてきた「子」から見られたものである。「世代」が「階級闘争」をはらんでいる以上、「世代」の中間にあるものを「遺産」というものである。と言うよりも、むしろ、「遺産」とは「階級闘争」そのものを意味している。「遺産」によって、「歴史」は「個々の世代の連続的交代」を顕現していく。つまり、「遺産」と「歴史」は不可分である。

4 家族と歴史
 しかし、マルクスは、『ドイツ・イデオロギー』の後、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』において、次のように述べている。

 人間は自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に、自分で勝手に選んだ状況の下で歴史をつくるのではなくて、直接にありあわせる、与えられた、過去から受け継いだ状況の下でつくるのである。あらゆる死んだ世代の伝統が、生きている人間の頭の上に悪魔のようにのしかかっている。そこで、人間は、自分自身と事物とを変革する仕事、これまでにまだなかったものをつくりだす仕事にたずさわっているように見えるちょうどそのときに、まさにそういう革命的危機の時期に、気づかわしげにかこの幽霊を呼びだして自分の用事をさせ、その名前や、戦いの合い言葉や、衣装を借りうけて、そういう由緒ある衣装をつけ、そういう借り物の台詞を使って、世界史の新しい場面を演じるのである。

 ここでのマルクスの「歴史」把握は『ドイツ・イデオロギー』の時とは異なっている。『ドイツ・イデオロギー』においては、「歴史」とは前の世代と後の世代、過去と現在、「父」と「子」の弁証法的闘争であったが、『ブリュメール十八日』では、過去そのものの闘争も現在との闘争の場にもちこまれている。「歴史」は一義牲・同一性をたえず解体していく作業、すなわち様々な「世代」のせめぎあう差異的状態から新たな差異関係を生み出すような関係・協調・闘争の場における中心化ととらえられている。「歴史」は弁証法的体系に見られる綜合もしくは止揚というテロスに憧れるということはもはやない。一つの「世代」が他のすべての「世代」に対して持つ根源的な外部性と異質性を支え、それを通して「歴史」はつくられていく。言ってみれば、そのような多様な「世代」の関係の場は「家族」と比喩えることができよう。メンデルの法則の隔世遺伝を思い浮かべるだけでも、それは理解できるだろう。

 「家族」の類似性を比喩として言語に関する示唆を示した思想家が二人いる。ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインとフリードリヒ・ニーチェである。

われわれが言語と呼ぶものすべてに共通な何かを述べる代わりに、私は、これらの現象のすべてに対して同じ言葉を適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、--これらの現象は多くの異なった仕方で類似しているのだ、と言っているのである。そして、この類似性ないしこれらの類似性のために、われわれはこれらの現象すべてを「言語」と呼ぶ。
(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』66)

私は、このような類似性を「家族的類似性」という言葉による以外に、うまく特徴づけることができない。なぜなら、一つの家族の構成員の間に成り立っている様々な類似性、例えば、体つき、顔の特徴、眼の色、歩きかた、気質、等々も、同じ様に重なり合い、交差し合っているからである。--だから、私はゲームが一つの家族を形成している、と言おう。
(同67)

(略)その限りにおいて、哲学することは高級な先祖返りである。すべてのインドの、ギリシアの、ドイツの哲学の不思議な家族的類縁性は、申し分なく簡単に解明される。言語上の類縁性の存するところ、まさにそこでは文法の共通な哲学のおかげで--思うに、同様な文法機能による支配と指導のおかげで--始めから一切が哲学体系の同種の展開と順序とに対して準備されていることは、全く避けがたいことである。同様にまた、世界解釈の或る別の可能性への道が塞がれていることも避けがたい。ウラル・アルタイ言語圏の哲学者たち(そこにおいては、主語概念が甚だしく発達していない)が、インド・ゲルマン族や回教徒とは異なった風に「世界を」眺め、異なった道を歩んでいることは、多分にありうべきことであろう。特定の文法機能の呪縛は究極のところ生理学的価値判断と種族的条件の呪縛である。
(ニーチェ『善悪の彼岸』20)

「家族的類似」は一つの言語体系に関してさまざまな見方があるという理解ではない。多くの言語の世界があり、それが類似して見えるということである。だから、「家族」を類似という点から見るならば、見取り図は系統樹的ではありえない。「家族的類似」は、ウィットゲンシュタインによれば、「互いに重なり合ったり、交差し合っている複雑な類似性の網目」である。ある子どもが似ているのは、その親とは限らない。その祖父母あるいはその親戚に似ているということは日常的に見られることである。しかも、その類似というものも、性格も含めて多重な様相を呈しているので、同一的なものは見出だすことは難しい。

 ヘーゲルの『法哲学』によると、家族とは「客観的精神」の段階にあり、夫婦・子供の自然的愛情によって結ばれる共同的な関係社会である。人間社会の最も基礎をなすものであるが、子どもの独立によって、共同生活とは異なった別個の独立した生活、すなわち「市民社会」さらには「国家」が形成されていくという。

 だが、「家族」を持ちながらも、「市民社会」や「国家」を形成しなかった共同体は人類学によってムス運報告されている。その人類学においてもっとも基本的な人間関係は「母と子」である。父や家族は共同体の監修・法制度によって規定される。ヘーゲルの「家族」は彼の文化圏の文脈に基づいてあくまで理解されている。「家族」は普遍的でも、その内容はそうではない。「家族」は「市民社会」や「国家」の発生論的初歩の段階ではない。逆に、「市民社会」や「国家」によって「家族」とは何かが規定される。

 「家族」が問題になるのは相続の際である。むしろ、相続によって「家族」が規定される。前近代において家族の標準型はない。近代では西欧の「家族」が標準化していたが、各共同体の歴史的経緯や自由主義的権利の拡張に応じて「家族」形態も多様化している。それは相続の制度が共同体によって異なることを意味する。また、現代では法制度が「家族」と認めていなくても、自身ではそうだと共通理解している場合もある。その際、「遺産」の相続によってそれをしばしば確かめられる。近代的「家族」は前近代や現代によって相対化される。相続という制度自体が「家族的類似性」を持っている。つまり、「家族」にはさまざまな見方があるのではなく、さまざまな世界がある。

 「歴史」は諸「世代」の諸関係によって形成されている。「世代」は各々世界を持ち、「家族的類似」をしている。そうした諸世界の諸関係が「歴史」である。だから、歴史的出来事には一つの世界があり、それに関する認識が多様なのではない。存在する多様な世界が「家族的類似」によって一つの歴史的出来事を形成している。これはアナール学派に始まるた社会史の対象でも同様である。それに対する人間の認識ではない。そうした対象の存在をめぐる世界が歴史研究の関心だ。

 従って、「歴史」を「遺産」から考察することはこういうことだ。「歴史」は一つであり、それについてのさまざまな認識があるのではない。「歴史」にはさまざまの世界が存在しておる。しかも、そうした世界は「家族的類似」を持っている。「歴史」の検討はその多様な世界を明らかにすることだ。捉えるべきは認識ではない。歴史における世界の存在である。
〈了〉
参照文献
ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、『ウィトゲンシュタイン全集』8、藤本隆志訳、大修館書店、1976年
城塚登、『ヘーゲル』、講談社学術文庫、1997年
ジョージ・スタイナー、『マルティン・ハイデガー』、生松敬三訳、岩波現代文庫)、2000年
ポール・ド・マン、『読むことのアレゴリー――ルソー、ニーチェ、リルケ、プルーストにおける比喩的言語』、土田知則訳、2012年
フリードリヒ・ニーチェ、『ニーチェ全集』11、信太正三 訳、ちくま学芸文庫、1993年
マルティン・ハイデガー、『存在と時間』3、熊野純彦訳、岩波文庫、2013年
ジークムント・フロイト、『自我論集』、中山元訳、ちくま学芸文庫、1996年
同、『モーセと一神教』、中山元訳、光文社古典新訳文庫)、2020年
カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルス、『ドイツ・イデオロギー 新編輯版』、廣松渉編訳、岩波文庫、2002年
カール・マルクス、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』、丘沢静訳、講談社学術文庫、2020年


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