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新井政談(6)(2022)

6 白石と科学
 従来、幕府はキリスト教の禁教のみならず、西洋の科学技術にも門戸を閉ざしている。しかし、白石は、公認イデオロギーの相対化につながるキリスト教禁教は継続させるものの、そうした恐れが理論的にあり得ない西洋の科学技術の積極的な導入を考えている。政策判断は、政教一致である以上、朱子学に根拠を持たねばならない。
 
 白石の著作には定量データの記載が多く見受けられる。しかも、自身が算出したと思われるものも少なくない。幕府中枢の中でも、彼は数学の知識を比較的有していたことがうかがわれる。江戸中期は和算が庶民の間でも広く普及している。白石は、宝永5年(1708年)に亡くなった関孝和と同時代人であり、こうした時代的・社会的背景と無縁ではない。
 
 当時の計算はそろばんを利用する。白石も使えたことだろう。そろばんの伝来は室町時代後半の16世紀とされている。計算器として非常に便利であるが、割り算の計算法が難しく、理解している人はほんの一握りである。慶長5年(1600年)頃、割り算の九九を紹介した作者不詳の『算用記』が出版される。次いで、元和8年(1622年)に京都で和算塾を主宰する毛利重能が『割算書』を刊行、本格的な割り算計算を解説する。この二署によりそろばんを用いた割り算計算の方法が世に知られるようになる。白石は関孝和と同じ時代を生きている。それは和算がこの天才により特に高度化する時期に当たる。和算ブームが背景にあるのだから、白石が数字に強いとしても不思議ではない。
 
 余談であるが、そろばんは計算機としてだけでなく、占いの道具としても利用されている。古典落語『御神酒徳利』が江戸時代の様子を今に伝えている。
 
 自然科学に比較的明るい白石は、『西洋紀聞』において、シドッティの「博聞強記」や「多学」に感心し、「天文地理の事に至ては、企及ぶべからず」と評し、エピソードを紹介している。初めて顔を合わせた時、白石が奉行所の役人に現在の時刻を尋ねると、庭に座らされていたシドッティは太陽の位置と自分の影を観察して計算、欧州時間での日付と時刻を答えている。また、世界地図を開いてローマはどこかと尋ねると、シドッティはコンパスを何度も操作してその位置を指し示している。白石は、キリスト教の「教法」について「一言の道にちかき所もあらず」としながら、「彼方の学のごときは、たゞ其形と器とに精しき」と地理・天文の「形而下」の事柄に関して西洋の学問が優れていると評価する。
 
 このエピソードに対して、渡辺浩は『日本政治思想史[十七~十九世紀]』において反論している。日時計もなしに、太陽と影だけを見て月日と時刻を算出することは不可能である。そもそもその正しさを確証する術がない。また、世界地理に通じた人物がローマの場所を指し示すのに、コンパスを使って計算する必要はない。いずれも布教の許可を得るために相手を驚かせるハッタリだというわけだ。
 
 白石は計算に強い人物である。もしそうなら、その彼が目の前で行われた作業のごまかしを見抜けなかったことになる。こうした反論をだとうかどうか検証してみよう。
 
 任意の地点での任意の時刻における太陽の高度や方位角、影の位置の概略値を計算することは可能である。国立天文台のサイトにその解説が公開されている。ただし、それには三角関数が必要だが、当時はまだ完全に関数として確立してはいない。できないことではないので、大雑把ながら、シドッティは計算した上で結果を提示したと思われる。
 
 シドッティに与えられた世界地図はマテオ・リッチの『坤輿万国全図《こんよばんこくぜんず》』もしくはそれに倣ったものだろう。中国が中心にある楕円形の世界地図で、ヨーロッパが西端、アメリカ大陸が東端にある。『坤輿万国全図』は欧州が周辺にあるため見にくいだけでなく、地名の記述もわずかである。欧州が中心あるいはやや西よりに置かれ、中国が東端、アメリカ大陸が西端にあるヨーロッパの世界地図に見慣れた者には違和感があるに違いない。また、『坤輿万国全図』は経緯度戦も大まかで、直線だけでなく、曲線も含まれる。シドッティは基地情報を元に、コンパスを何度も用いて、そういった地図上の目的地の位置を導き出している。国土地理院のサイトなどでも解説されている三角測量の応用で算出したと思われる。
 
 マテオ・リッチの世界地図は経緯度の概念を導入したとされるプトレマイオス的世界観が反映している。カトリックにとって、エデンの園があったとするなど東は重要な方角である。シドッティも、『西洋紀聞』によると、「試に物を観るに、其始皆善ならずといふ事なし」とし、「天地の気、歳日の運、万物の生」は「東方」から始まったから、極東の日本は「万国にこえすぐれ」た国と白石に述べている。当時、教会は天動説とプトレマイオス的世界観を認めているる。神聖な方角である東方へ知識を拡張していくことはカトリックとして望ましい。
 
 時刻に関しては当時の認識の説明が要る。欧州は、1日を24時間とし、分や秒まで計測する定時法をすでに採用していたが、江戸時代の日本では、不定時法と呼ばれる時刻制度を使っている。1日を日の出と日の入りによって昼と夜に分けてそれぞれを6等分にし、その一つの長さを一刻《いっとき》と呼ぶ。 時間の単位は刻のみで、分や秒の単位はない。 もちろん、刻より細かい時間が必要な場合もあり、その際には香盤に立てた線香を利用するなどして測っている。
 
 香盤時計や和時計を保有している城や寺が鐘でその時刻を市中に知らせる。江戸には、欧州の都市と違い、城壁がなかったが、町や長屋に木戸が設置されている。明け六つ(午前6時)に開けられ、宵の五つ(午後10時)に閉じられる。昼間は商人、夜間は木戸番の声でだいたいの時刻がわかる。特に、蕎麦屋などの担ぎ屋台は、重い荷物なのでそろそろ歩くため、詳しい。
 
 シドッティは定時法で答えただろうから、不定時法に慣れた白石がそれをどこまで理解できたかはわからない。均質な時間概念など経験したことがない。白石を驚かせものには、自然のリズムに沿った不定時法ではなく、時計の支配する定時法の発想もあっただろう。天文と地理のいずれにも驚愕したとしても、針が一本しかない時計の不定時法の社会に生きる彼が前者よりも後者に熱心に取り組むようになったとしても、不思議ではない。
 
 白石とシドッティの関係は藤原惺窩と姜沆を思わせるところがある。白石は、シドッティの尋問に刺激を受け、『西洋紀聞』の他、『采覧異言《さいらんいげん》』も執筆している。これは日本最初の体系的地理書である。ここからも彼の思考が体系的だということがわかる。マテオ・リッチの『坤輿万国全図』やオランダ製の世界地図等多くの資料を活用、各地の地理を説明し、その典拠も示している。全巻を通じて世界各地の地名などの地理的称呼はマテオ・リッチの漢訳に依拠し、漢文で記されている。構成は「巻之一 欧羅巴《エウパエロ》」・「巻之二 利非亜《リビア》」・「巻之三上下 亜細亜」・「巻之四 南亜墨利加《ソイデアメリカ》」・「巻之五 北亜墨利加《ノオルトアメリカ》」で、各地の地理が体系的に記述されている。なお、「リビア」はアフリカのことである。白石は正徳3年(1713年)に書き上げたものの、亡くなる享保10年(1725年)まで加筆している。
 
 白石の子の二書においてしばしば引用されるのがイスラムをめぐる記述である。これはイスラムに言及した初めての日本の文献であるにもかかわらず、紹介にとどまらず、重要な点を押えている。
 
 『西洋紀聞』で白石は、従来漢字表記されていた地名や国名、人名をカタカナでも記している。「四回」は「マアゴメタン」のことであり、それは「モゴール」の教えにしてアフリカやトルコにも伝播している。
 
 白石は『西洋紀聞』において、アラビア半島を除く、イスラム圏について言及している。「波爾斉亜」は「ハ〃シャ」であり、インドの西とアフリカの東に位置し、名馬の産地とだと記している。これは「ペルシャ」、すなわちイランである。また、トルコについては「トルカ」はまたは「ツルコ」とし、アフリカやヨーロッパ、アジアに連なり、首都は「コウスタンチンィ」もしくは「コウスタンチノプール」と解説している。これは現在のイスタンブールに当たる。
 
 白石はそのトルコのオスマン帝国について次のように述べている。
 
 その風俗はタルクーリャすなわち韃靼国にひとしく勇敢敵すべからず、丘ハ馬の多きこと二十万エウパエロ(ヨーロッパ)の地方はその侵略に堪えずして各国相援けてこれに備う。アフリカ地方ことごとくトルカに属し、東北はゼルコニアに至り東南はスマアタラ(スマトラ)に至るという。
 
 なお、かつてはサハラ以北を指して「アフリカ」が用いられている。
 
 この『西洋紀聞』よりも『采覧異言』は、アラビア半島の記述があるなどイスラムに関する情報が詳細である。アラブを「夫方」とした上で、預言者ムハンマドを国王「謨罕黙徳」と紹介している。
 
 さらに、白石は聖地メッカのカーバ神殿や黒石について次のように記している。
 
 自古置有礼拝寺等分為四方方九十間共三百六十間、皆白玉為柱、中有墨石一片方丈余、寺層次高上如城毎見月初生、皆拝天写呼称揚以為礼。
 
 1間は6尺である。1尺は約0.3mなので、1間は約1.8mに当たる。また、1丈は10尺である。方丈は1辺を1丈とする正方形のことなので、約3mの2乗で約9平方mになる。なお、黒石はおよそ0.3m四方の大きさで、神殿の東隅の外側に高さ1.6mのところに据えられている。
 
 白石は『西洋紀聞』と違い、『采覧異言』を漢文で執筆している。前者が国内の読者向けであったのに対し、漢文は東アジアの共通語なので、国外でも読まれることを前提にしている。東アジアの知識人の目にも耐え得る水準の内容との自負があったように思われる。欧州の治世に驚かされた彼にすれば、世界の地理を扱っているのに、国内でしか通用しないのでは、不十分である。いわゆる鎖国の状態にあっても、知的交流は不可欠という白石の考えが読み取れる。
 
 白石はキリスト教の神父に刺激されて知的好奇心を膨らませ、世界地理の研究を行っている。それは日本の知識人がイスラムという宗教に関する初めての考察をもたらしている。こうした敷衍は原理を把握した上で体系的に思考する姿勢が可能にしている。イスラムを取り上げるとしたら、その基本原理を理解、重要なポイントをつかみ、体系を組み立てる。こうした体系性に基づく総合力があるからこそ、江戸時代に最高の知識人と評されたと推察できる。このような知識人はその後に登場しなかったため、近代を迎えるまでイスラム研究はまったく発展しなかったのだろう。
 

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