『セロ弾きのゴーシュ』-音楽と成長ー
賢治先生にはまったきっかけの作品。
あの日、読みながら考えたことを忘れないように、書き残しておく。
本文はここから読めます。
『セロ弾きのゴーシュ』には動物が出てきます。
ねこ、かっこう、たぬき、野ねずみ。
この動物たちが何を表しているのか、3年間だけ音楽を、箏を本気でやっていた私から見てあるあるなところなどを書いていきます。
1.ゴーシュの課題
そらと思って弾き出したかと思うといきなり楽長が足をどんと踏んでどなりだしました。
「だめだ。まるでなっていない。」
「おいゴーシュ君。君には困るんだがなあ。表情ということがまるでできてない。怒るも喜ぶも感情というものがさっぱり出ないんだ。それにどうしてもぴたっと外の楽器と合わないのもなあ。いつでもきみだけとけた靴のひもをひきずってみんなのあとをついてくるようなんだ、困るよ、しっかりしてくれないとねえ。」
合わせって緊張するよね…。演奏に慣れてくると、自分と周りの音の違いも聞こえてくるし、ずれちゃったのも、実力が足りてないのもわかってるよ!
そう思って、できない自分が悔しくて泣きながら、何回も同じフレーズを練習した。
ゴーシュの演奏には課題がある。
何が課題なのかわからないと、ただ練習しても乗り越えられない。
1.演奏に感情が入っていない。
2.周りの楽器と合わない。
これを、ゴーシュが乗り越えていく物語である。
2.ねこは、自分をコントロールしようとする人。
ゴーシュにとってのねこは多分楽長だと思う。
熟れてもいないトマト(ゴーシュ)を平気で摘み取ってしまうところが似ていると思う。
↓ねこが弾くように言った、「トロイメライ」↓
私にとってのねこは先輩だった。
箏には指揮者はいない。
大抵、その中でうまい人、先輩、メインパート、そういうペースメーカーに自然と合わせる。
今でも覚えている嫌な思い出がある。
高校3年生のとき、大会に向けて残り少ない合わせをしていた。
遊びに来ていた先輩に課題曲を聞いてもらうことになった。
今までで一番上手に弾けたと私は思った。
私たちは大会を目前に闘志に満ちていた。
低音は重く、高音は鋭く。最初はバラバラだったのに、こんなにみんなで弾けるようになったことが誇らしかった。
でも、先輩は、
「なんかちょっと怖すぎ~。もうちょっと力抜いたら~?(笑)」と答えた。
「迫力がすごいね!優勝できるよ!」ぐらいお世辞でも言って欲しかった。
いや、先輩が言わないなら私が言うべきだったのかもしれない。
「先輩はああ言ったけど、今までで最高だったと思う。この気持ちで本番も弾こうね。」って、言うべきだったんだろう。
↓ゴーシュが弾いた印度の虎狩↓
セロはねこに一杯食わせて、自分の怒りの感情に気づいた。
自分の課題を一つ、乗り越えたのだ。
ねこのように何度も壁に体当たりをして。
2.かっこうは、自分の先を行く仲間。
かっこうとのやり取りで好きなセリフがある。
かっこう
「たとえばかっこうとこうなくのとかっこうとこうなくのとでは聞いていてもよほどちがうでしょう。」
ゴーシュ
「ちがわないね。」
かっこう
「ではあなたにはわからないんです。わたしらなかまならかっこうと一万云えば一万みんなちがうんです。」
この場面では、ゴーシュはかっこうと何度も合わせをする。
一万回同じ音を弾いたって、一万回同じようには弾けない。
指の力加減で、音は大きい、小さい、鋭い、重い、柔らかい、がさつく。言葉が足りないけど、同じ音は出せない。出したくても当時の私には出来なかった。
それでも、小さな幅がある音を、確実に仲間と合わせなければ曲にならない。
箏だと始まるとき、せーのは言わない。指揮者もいない。なので頭だったり肩を落として合図をする。誰かと一緒に歌うときに、同じタイミングで息を吸うように。
かっこうは始めるときにお辞儀を必ずしたり、からだを曲げて、ゴーシュに合わせようと寄り添っている。
ゴーシュは、かっこうと過ごすことで、また課題に向き合った。
音をよく聞くこと。
周りと合わせようとすること。
また、かっこうは「外国へ行く」と言ったり、まっすぐに飛んで行ってしまう。ゴーシュの前には一度も現れない、『ホーシュ君』は、自分より遠くへ行ってしまった仲間なのかもしれない。
3.狸は、後から追いついた人。
狸は、ねこやかっこうと比べると、ゴーシュの下から接している。
ねこが上司、かっこうが同僚、ならば狸は後輩って感じだ。
ねこで怒りを発散し、かっこうで人に合わせることを知ったからか、ゴーシュの扱いも落ち着いたものになっている。
「ゴーシュさんはこの二番目の糸をひくときはきたいに遅れるねえ。なんだかぼくがつまずくようになるよ。」ゴーシュははっとしました。たしかにその糸はどんなに手早く弾いてもすこしたってからでないと音が出ないような気がゆうべからしていたのでした。
ゴーシュはかっこうとのやりとりで、音をしっかり聞けるようになり、自分の楽器の癖にも気付けるようになっていた。
「いや、そうかもしれない。このセロは悪いんだよ。」とゴーシュはかなしそうに云いました。すると狸は気の毒そうにしてまたしばらく考えていましたが「どこが悪いんだろうなあ。もう一ぺん弾いてくれますか。」「いいとも弾くよ。」ゴーシュははじめました。
自分が下に見ていた狸に指摘されても、怒らずに受け止めている。
周りの人から学ぶこともあると学んだのだと思う。
ゴーシュは、かっこうと狸との演奏を通して、
仲間に合わせて弾くこと、という二つ目の課題を乗り越えた。
5.ねずみは、自分を届けたい相手。
驚くことに、ゴーシュの演奏は動物たちにとって治療の一つだったようだ。(ドリトル先生?)
ゴーシュは演奏をして、治したあげただけではない。
ゴーシュはセロを床へ置いて戸棚からパンを一つまみむしって野ねずみの前へ置きました。野ねずみはもうまるでばかのようになって泣いたり笑ったりおじぎをしたりしてから大じそうにそれをくわえてこどもをさきに立てて外へ出て行きました。
お土産まであげちゃう。最初のねこに比べたらすごく心に余裕が出てきたのがわかる。
どんなに練習をしても、どんなに素敵な仲間がいても、お客さんがいなければ。心から自分の演奏を聴きたいと思ってくれる人がいるからこそ、演奏になるのだと思う。
6.物語の最後。
みんなのお荷物だったゴーシュは、みんなに推薦されて、アンコールを任される。
嫌がらせではない。この成長に楽団のみんな気付いていたのだと思う。周りからの純粋な賞賛を浴びて、ゴーシュも自分の成長に気づいたし、それを認めてくれたことにも気付いた。
まとめ
文章を読みながら別のことを考えたり、においや音を感じてしまうけれど。
普段そうやって読まない人も、文章から音を感じることができる作品だと思う。
ていうか個人的に弦楽器が好き。
↓おすすめの演奏者さん↓
絶対にいつかチェロを買おう…。
*画像は松本一策さんからお借りしました。
あたまの中で #熟成下書き
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