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コラム③皇居の自然は日本人の「こころ」


天皇陛下の思し召しにより始まった「皇居の生物相調査」に参加して

はじめに

 平成が終わるにあたり、この時代を振り返る様々な報道や催しもの
が行われたが、私は天皇陛下の思し召しにより始まった「皇居の生物
相調査」に参加したことがある。この調査では都内では絶滅したと思
われていた貴重な種や新種が発見された。あまり知られていないこの
貴重な調査について記しておきたい。

貴重種で溢れた皇居の自然

 皇居の生物相調査は国立科学博物館により平成八年(一九九六)か
ら五年かけて調査された第Ⅰ期と、平成二十一年(二〇〇九)から五
年かけて調査された第Ⅱ期がある。私は植物研究を専門としており、
調査に加わったのは第Ⅱ期にあたる平成二十三年(二〇一一)から二
十五年(二〇一三)の約二年間である。
 調査班は「蘚苔類、藻類、菌類、地衣類、鱗翅類・トンボ類・鞘 翅
類・膜翅類とその他の昆虫類、クモ類・土壌動物、陸貝類、鳥類」で
構成されており、私は「その他昆虫類班(アブラムシ)」の調査に加
わった。なぜ植物の研究者がアブラムシ班なのかといえば、日本のア
ブラムシは七百種類いるとされ、種によって依存する植物種が決まっ
ている。そのため、アブラムシの調査では植物の専門家が一緒に調査
することが望ましい。
 この調査の結果、七百十一種の植物、二千七百三十七種の動物、合
わせて三千四百四十八種が確認された。そのうち八百九十九種(植物
二百五十種、動物六百四十九種)が皇居初記録種、四十五種(植物二
十四種、動物二十一種)が日本初記録種として確認された。しかも、
これには百種(植物五十七種、動物四十三種)の未同定種等も含まれ
ており、この数字から皇居の自然の底知れぬ不可思議な力と魅力が感
じられる。アブラムシの研究において権威ある松本嘉幸先生から当時
二十三歳の私に、同行調査の声をかけていただいたことは感謝しても
しきれない。
 確認された貴重な種とは、具体的にはどんな種なのか。例えば、ヒ
キノカサと呼ばれる植物である。東京都では絶滅危惧I類(一番高い
ランク)に該当する。やはり稀少になりつつあるオドリコソウも皇居
では色々な場所で観察できた。昆虫では、都内では絶滅したと思われていたベニイトトンボやオオミズズマシが確認された。
 私自身は、普段から日本の各地で植物を観察しているが、この皇居
での調査で初めてヒキノカサを見ることができた。その感動は一生忘
れることができない。ヒキノカサはわずか数十センチの植物で、名前
の由来が面白い。カエルがいるような湿地に生育し、花を傘に見立て
たことから「蛙(ヒキ)の傘」と名付けられた。初めて見た時は嬉し
さのあまり、小雨降る中、その黄色に輝く花を地面に這いつくばりな
がら観察したのを覚えている。

昭和天皇が目指した森

 では、皇居にはなぜこのように貴重な動植物が生育しているのか。
 それは昭和天皇の御意向が大きいと考えられる。「雑草という草は
ない」と仰った昭和天皇は武蔵野のような自然に戻すことを意識し、
できるだけ手をかけない形の管理を行う御意向を示された。それを受
け、宮内庁は現在、次のような管理方法を公表している。
 「樹林や草本は、苑路沿いの草刈、繁茂し過ぎた水生植物の除去、
危険防止のための枯損木の処理などを行うだけで、農薬も通常使用し
ていません。伐採や手入れで発生する枝幹は短く玉切りにして目立た
ない場所に積み上げ腐るに任せており、昆虫の生息環境に配慮してい
ます」
 一方、研究者として皇居の自然を調査して感じたことは、まさしく
皇居は生物多様性に富んでいることである。
 生物多様性というのはとても漠然とした言葉に聞こえるかもしれな
いが、基本は三つの考え方で構成されている。一つ目は「環境」の多
様性、二つ目は「種」の多様性、三つ目は「遺伝子」の多様性である
。環境が多様であれば種も多様になり、種が多様であれば自ずと遺伝
子も多様になる。そして、皇居には常緑樹林、落葉樹林、草原、路傍
、小川、池など様々な環境が存在する。それらの環境が存在するから
こそ、数多くの生物や貴重な生物が生育できるのである。
 先ほど例に挙げたヒキノカサは、森林しかない場所では見ることが
出来ない種類である。従って、皇居は単に昔からの自然が残されてい
る場所ではなく、たび重なる改修や江戸城からの変遷を経ても尚、人
間の手によって質の高い多様な環境が維持されている、大きな価値がある場所といえる。

自然と共存してきた日本人

 実は今から約四百年前の皇居外苑あたりまで海であったのはご存知
だろうか。植物の変遷を考えると、一六〇三年に徳川家康が神田山を
掘り崩し海岸の埋め立て工事を行うまでは、江戸城の緑は海風などの
影響に耐性を持つクロマツが主体で構成されていたとされ、皇居に残
された大木がそれを今でも語り継いでいる。
 しかし、現在では昔と環境条件が変化したことで、スダジイ、タブ
ノキ、シラカシなどの常緑広葉樹が主体となり森を形成している。高
木層、亜高木層、低木層、草本層と四層の階層構造が形成され、林内
にはヤブツバキ、サカキ、アオキ、ヤツデ、ベニシダ、ジャノヒゲな
ど多くの種類が揃っている。この森林構造は明治神宮の森と同様の「
永遠に続く森」である。私は第二次明治神宮境内総合調査の植物調査
班として、神域である明治神宮の森に入り植物調査を行ったことがあ
る。明治神宮の森は人がつくった森としては、その広大な面積と森林
構造は素晴らしい。だが、環境の多様性では皇居の方が目を見張るも
のがあると私見では感じた。
 もちろん、皇居の森と明治神宮の森は双方とも伯仲の迫力と内容で
あることは言うまでもない。どちらも林内に足を踏み入れた瞬間にふ
かふかの落ち葉が沈み、歩くたびに森の歴史を感じる。手で落ち葉を
かき分けると黒い土が見え、少し湿った土をすくい上げるとダンゴム
シ、ミミズがいる。喩えようがない土の匂いがしたと同時に、子供の
時に遊んだ神社の森を思い出す。そして、森の中から空を見上げれば
、心地の良い木洩れ陽が体を突き抜ける。そこには神々しさを感じる

先日、皇室のある方の御講演を拝聴し、日本の伝統や文化など「日
本美のこころ」を学ぶ機会をいただいた。お話を拝聴し、私はこう思
った。日本人は太古の昔から自然と共存、共栄してきた。だからこそ
、日本人の心が美しく研ぎ澄まされてきたのではないか、と。
 皇居の自然が創り出す四季折々の風景は、芸術とも言うべき素晴ら
しいものだ。そこには今の日本人が忘れかけている何かがある。思し
召しにより保持される皇居の自然は、日本人の「こころ」なのではないか。

※このnoteは明日への選択5月号(令和元年)より加筆修正したものです

<著者>
株式会社グリーンエルム代表取締役社長
里山ZERO BASEプロジェクト代表
西野文貴

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