「性別はグレード」、私は本当に女性なのか?

最近、自分は「女性」なのだろうか?とよく考える。
このように考えるようになったのは、田崎智咲斗さんという性的マイノリティの方の話を聞いたからだ。詳しい経緯は、以下のnoteに書いている。

田崎さんは、女性に生まれたご自身に圧倒的な違和感があったわけだけれど、私自身が「自分は女性だ」と100%納得しているかと言われると全くそんなことはない。「圧倒的な違和感」まではいかなくとも、30%から70%くらいの幅でしっくりこないものがある。

例えば、私は、小学校に上がる前から、いわゆる女性の象徴的な職業に就くことがいやでいやでたまらなかった。今でこそ、男性の方も見かけるようになったが、当時はCA、看護師などは女性のイメージが強かった。
また、「お茶汲みOL」なんて言葉も聞きかじっていて、「私はOLになるくらいなら、ホームレスになる」と公言していた。(OLが何をするかも知らないくせに失礼な子どもだった。)まして、夢に「お嫁さん」と書くなんて思いもよらなかった。
いわゆる、社会的な女性性みたいなものをどうしても受け入れることができずにいた。一方で、そうしたシンボリックな職業を好む女の子がいることも理解していた。だから、「男女平等をっ!」と叫ぶ、フェミニズムを言いたいわけではない。ただ、私が受け入れにくいというだけなのだ。

先日、「佐藤さんは、いろいろなところに飛び込んで勇気のある女性ですね」とメッセージをいただく機会があった。
褒めてくださった言葉であると、思う。
しかし、私は心がザラザラザラザラして、どうしてもその言葉を素直に喜ぶことができなかった。
なぜ、「勇気のある人ですね」ではないのか?
なぜ、「佐藤さんのような勇気は大事ですね」ではないのか?

先方は何も意識していない言葉であると思う。しかし、そこに「男女というカデゴリ」を持ち出すことに、大いなる違和感を覚えてしまった。

あぁ、我ながらなんて面倒な人間なんだろう。

ちなみに、私は出産することも自分が自分でなくなるような気がして非常に恐ろしい。(もちろん鼻からスイカを出すようだと聞く痛みに関しても恐ろしい。)
そこで、「もしパートナーが産んでくれるならどうだろう?」と考えたとき、「万々歳だ!」と思ったのだ。なるほど。そこでも、女性的な役割を担うことに違和感を持っていたのか。

冒頭でお話した田崎さんは、飲み会の席で「性別はグレードなんだよね」と教えてくれた。
つまり、100%の女性・100%の男性は少なく、各人が性別のグレードを持ち合わせている。だから、私の抱く30%〜70%くらいの女性性への違和感はそんなに突飛なものでもない。(らしい。)

私が「女性だ」という拠り所は、せいぜいこれまで男性のことを好きになってきたという恋愛歴くらいなものだ。
それほどまでに、自身の女性性はあやふやなものである。

「女性として生まれた」という特徴は、私のごくごく部分的な特徴であると思っている。性別は私にとって絶対的なアイデンティティにはなりえない。
だから、「女性だから」ではなく、「佐藤智だから」と自分を好いて、必要としてくれる人を私は求めている。そんなふうに、最近になって、少しだけ自分が求めるものがわかってきた。

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