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「自己満足」を「他者満足」につなげる設計

「他人の役に立ちなさい」
「誰かの役に立てる方法を考えなさい」

そんな言葉をよく耳にして、「うん、素晴らしいことだよね」と同意してきました。しかし一方で、しっくりきていない自分の心にも薄々気づいていて。
そんな自分を薄情者だと思っていたし、きれいごとはいくらでも言えるけれど結局ワガママな人間なんだなぁと、呆れ果てて自分を愛せないこともあったんですよね。

「誰かの役に立ちたい」。
そんなことを心から思える人は、マザーテレサのような清らかな心に生まれついた人で、自分はあと15回くらい輪廻転生を繰り返さないとたどり着けないんだろうなぁなどと、諦めの気持ちがあったんです。(無宗教ですがw)

でも、そんなことを言えば、「心ないヤツだ」とか「人間として未熟者だ」などといわれそうだし、自分自身をもっと嫌いになりそうだしで、そっと言葉をしまってきました。いわゆる、人様からの見られ方を気にして自粛していたわけです。

…これまでは。

昨晩うつらうつらしている時、「自己満足でも、ワガママでも、いいじゃない」と思ったのでした。脈絡なく、唐突に。
30年以上も生きてきて、未だ直らないこの性格は、きっと一生直ることはない。だったら、自己否定をしていないで、「自己満足型の生き方をする自分」を受け入れてやるしかないじゃん、と思ったんです。

その開き直りともいえる閃きに、途端に気持ちが楽になりました。

どんなことでも、蓋をしていては何も生まれてこないでしょう。得体のしれない重りがズドンと腹の中に存在し続けるだけで、解消するどころか、その正体を把握することもできない。
すべては、蓋を開けて、何が入っているかを直視することから始まる。だから、私の「自己満足」についても、まずはそうしてみたんです。

蓋を開けたことを機にとばかりに、自己満足について考えてみました。そして、現段階で私に必要な「答えらしきもの」にたどり着きました。

それは、「自己満足を他者満足につなげる設計」こそが、私には重要なのではないか、ということです。
あくまで「現段階で」なので、1週間後には変わっているかもしれないけれど。

もしかしたら、「なにを今更当たり前のことを!」と思う人もいるかもしれない。
でも、私の場合、これまで「誰かのために」という言葉には、常に「自己犠牲」のイメージがつきまとっていたんです。私が犠牲になって誰かを助ける、私の身を捧げて人を救う。それはひどく尊いことだけれど、自分がそれをできる気にはとてもなれませんでした。

でも、
なにも自分を犠牲にして「誰かのために」を実現することはないんだな、と思ったんです。自分のしたいことを追究した結果、「誰かのため」が実現されればいいんじゃないのかな?と。 そう、大事なのは、「自己満足を他者満足につなげる設計」です。

自分が楽しんで、それで周りが楽しくなるなんて最高ですよね。

「自己満足を他者満足につなげる設計」で思い出したこと。すごく些細なことなんだけれど。

大学時代、私はバレーボールサークルの代表だったんです。毎週2回集まって、じゃんけんでチーム分けをしていたんだけれど、何かおもしろいことができないかとずっと考えていました。
そこで、血液型でメンバーを分けて、チーム戦を実施しました。<A型 VS B型>という具合だ です。私は、「科学的にうんちゃら」とか「人を4つに分類するなんてうんちゃら」とかいうフレーズをいくら聞いても、血液型によるカテゴライズの話が大好きなんですよね。大好きなんだから、仕方ない。開き直り。

血液型を信じない人にはおもしろさがまったくわからない対抗戦だったかもしれない。
でも、その日はひいき目に見ても、とても盛り上がった。結束力が生まれ、チームで写真を取り合うメンバーが続出したんです。

これは、私の「自己満足を他者満足につなげる設計」のささやかな成功体験かもしれない。じゃんけんでチーム分けをした方が運営側としてはずっと簡単だし、文句が出る可能性もない。でも、「血液型対抗試合をやりたかった」。そして、「やるからには楽しんでほしかった」。

私は、自己満足から他者満足が生み出されることがとても嬉しいタイプです。だから、これからは自己満足な自分自身も大切にしてあげたい。そして、それをどう他者満足につなげるか、自分の脳がちぎれるほど考えて、いろいろな人にアドバイスをもらって、設計していきたい。今は、そんなふうに思っています。

いつもありがとうございます!スキもコメントもとても励みになります。応援してくださったみなさんに、私の体験や思考から生まれた文章で恩返しをさせてください。