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現状はすべて「自分」の選択の結果である

今年、私のもっとも大きな気づきは、「母は不幸ではない」ということだった。
私は、ずっとずっと母は不幸だと思っていた。それはもう自分の中に染み込みすぎて、疑う余地すらないような、私にとっての「真実」だったのだ。

例えば、こんなふうに思っていたーー。

<最愛の人と思って、信じて結婚したのに、夫の裏切りにあい。それも、これでもか!これでもか!というほどの、ひどい仕打ちにあい続けてきた。
自分の親ともうまくはいっていない。
小さい頃から苦労して、苦しめられてきた。
家族に恵まれない。家庭の中では、幸福を得られる関係性ではなく迷惑をかけられる関係性しか経験ができなかった。
重ねた苦悩から、心を病んだこともある。
それでも必死で働いて、弟と私を育ててくれた。
だから、母は不幸だし、本人が「不幸だ」と嘆くことを私くらいは聞いてあげないといけない。>

こんな話を、友人にしたらね、
「ほんとうに、お母さんは不幸なの?」
と聞かれたの。すごくまっすぐな目で。いつもだいたい笑顔なのに、この時は、すごく真剣な表情で。
「え? なになに? 話聞いてた?」って思ったよね。
再度、「だってさ、こんな苦しそうで、こんなふうに文句を言っていて……」と繰り返して。

でも、友人からは同じ言葉が返された。
「で、ほんとうに、お母さんは不幸なの?」

「お母さんは自分で人生を選べる状態にあったよね? お父さんと縁を切ることもできた。仕事が大変だったら変えることもできた。まったく別の人生を歩むことができたはずでしょう。
でも、しなかったんでしょう?
ということは、今の状態を選んだんだから不幸ではないんじゃないの?

そんな言葉に、正直、カチンときた。
「何もわからないくせに!」
「不幸に決まっているじゃん!」
「なんて失礼なんだ!」

ずっと引っかかっていて、頭にきて。もうイライライライラして。

でも、忘れようとするのに、頭の中から消えなかった。忘れられなかった。

そして、ふと思った。
「母親は不幸じゃない」と言われて、なんで私は怒っているわけ?
むしろ、いいことだよね、と。

人が過剰に頭にくることには何かしらにワケがある。
だからね、よくよく整理して考えてみました。

そうしたらね。
たしかに母は自分で選んだ道なんだよな、と思えてきたんです。
現在目前で起こっている事象は不幸でも、何度も何度も選択のチャンスはあったはずだ。
例えば、「父と一緒にいる」と「父と一緒にいない」という選択肢があったら、「父と一緒にいる」方を選んだ。
「解決するために話し合う」と「話し合わない」の選択肢に対しては、「話し合わない」を選んだ。

つまり、今ある状況はすべて母の選択の結果だったんだよね。
どんなに今、文句を言っていても、選択をしてきた。

そして、それに対して娘である私が「不幸だ」というのはとんでもなく失礼なんじゃないだろうか。

今ある状況はすべて「自分」の選択の結果であるという気づきは、ボディブローのようにじわじわと私に効いてきた。気づきを得たきっかけは、母の生き方への振り返りだったけれど、これは万人に共通する普遍的ルールともいえるからだ。

もちろん、これは自分自身に向けられる矢印でもある。
目の前の現実は自分の選択の結果だ。

2022年末にこのnoteを書いたのは、2023年を歩くためにこの意識をきちんと持っていたかったからだ。ある種の羅針盤である。よくいわれることだが、人生は選択の連続である。選択が最良かどうかは、その時点ではわからない。でも、少なくとも、「選択をしている」という権利すら気づかずに人生を歩むことは、あまりにもったいないことだ。

あらゆる選択肢に対して怯まずに、自分の心と対話をしながら、選び取っていく。それが、2023年の私です。

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