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「おわり」がある意味を考えていた。

私が大好きで大好きで大好きな中華屋さんが4月いっぱいで閉店する。最後の2ヶ月間はほぼ満席。常連客が名残を惜しんでいる。
おじちゃんおばちゃんはきっと何度となく「もう少し頑張ってよ」「どうして閉めるの?」と言われたに違いない。しかし、どんなに止められても「おわる」決断を撤回することはなかった。
閉店する理由は、家賃の問題や体調面などひとつではない。その数々の問題をすべて解決するようなプランを見つけ出すことは至難の業だ。だから、店のファンだからという理由で、安易に脚にしがみつくことは私たちにもできなかった。

もうひとつ。間近に迫った「おわり」がある。
私が尊敬するライターの大先輩が「引退」を掲げている。会社員を辞めたばかりで「これから路頭に迷うかもなぁ」と不安を抱えていた私に声をかけてくださり、以降、刺激をいただき、笑いをいただいてきた。
ライターや編集者の世界には、才能みなぎる方々があふれている。その中でも、間違いなく鬼才だ、と私はその方について思っている。

彼にも「なんで辞めるんですか?」「さびしいですよ」と繰り返し言ってきた。しかし、私や周囲がなんと言おうとも自分の心が決めたことに従うのが彼なのだ、ということも私はわかっている。
仕事は大量にある。彼は明らかに社会に求められているし、社会に新たな価値を提供している。しかし、「おわる」気持ちは強く固まっていた。

そんな大切な方々の一区切りを目の当たりにして、「おわり」がある意味を考えていた。

私は強制的に「おわり」を決められることがとてつもなく嫌いだ。だから、突然、生の「おわり」がもたらされる不慮の事故が非常に怖い。
仕事においても同様。会社員時代、編集の部署に所属していたのだが、その仕事を異動により終わらされたことが許せなかった。自分の人生の大半の時間をかける仕事を、自分ではなく他者に終わらせられるなんて。私には受け入れられなかった。

いま、自分で仕事をするようになり、自ら「おわり」を決める立場となった。現時点では、「85歳まで続けるか! 目指せ、瀬戸内寂聴!」と思っていたりするが、いずれにしても、自分で意思決定できる立場になれたのは非常にありがたいことだ。

「おわり」を決めるのは、自分の人生の意思決定権を自分が持つということである。
一度身につけた技術や経験は自分の中に蓄積するが、「おわり」を宣言することで、これまで積み上げてきた生活や人脈などを手放す可能性もある。そして、取り巻く環境も大きく変わる。

嵐の記者会見を見ていても思ったが、一旦区切りをつけるというのはそう簡単なことではないし、決めるまでは自分たちへ多大な負荷がかかる。

「おわり」は、「はじまり」を決めることよりも、ずっと勇気が必要だ。
つづける美学もあると同時に、おわる美学もあるのだと、知った。

正直なところ、「おわり」を定める意味について、私にはまだよくわかっていない。なるべくならば、「おわり」は到来してほしくないと思っている。しかし、私は「おわり」の道を選ぶ人たちを尊敬してもいる。自分の人生を、自分できちんと歩いていると感じる。

これまで、私たちはどうはじめるかばかりに注目してきたけれど、これからは、どう「おわる」かも考えていく必要があるのかもしれない。自分の人生を生きるには、「おわり」のマネジメントが鍵になる。

「おわり」の決断の先にある彼らの人生。それを覗かせていただくことを、私は心の底から楽しみにしている。前向きな「おわり」には、前向きな「はじまり」があるのだと思う。きっと。

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