ひきこもりが抱えるのは罪悪感

今日、私が参加したひこきもりフューチャーセッション『庵』では、現在ひきもりの人や、かつてひきこもりだった人、あるいは家族にひきこもりがいる人が集っていた。年齢も性別もまちまち。50人、時には100人ほどが集まることもあるらしい。

テーブルごとにテーマが分かれ、それぞれ加わりたいテーマのテーブルにつく。途中参加、途中抜け自由だ。
もっというと、この場に来たからといって話さなくたっていい。ピンクのたすきをかけると「話すこと休憩中」の印。声をかけられることはない。輪から離れて、ぼーっとみんなを眺めていてもOK。
休憩テーブルもあるし、フリーテーマのテーブルもあるので、自分が参加したいように参加すればいい。これは、庵がこれまで何度も回を重ねてきた結果、できた仕組みだろう。

私はその中で、「ひきこもりって本当に悪いことなの?」というテーマのテーブルについた。私自身はひきこもりを経験したことはなかったが、”1日でも学校を休んでしまったらもう二度と行く気力が出ないんじゃないだろうか…”と思い、思考を殺して学校に通っていた経験はある。

そんなわけで、「ひここもるか」「ひきこもらないか」は、ほんの少しの巡り合わせの違いに過ぎないんじゃないかという思いがある。
「あの時、友達が声をかけてくれていたら」
「あの時、先生が話を聞いてくれていたら」
そんな些細なことが分かれ道としてあるような気がしている。

だから、これまでもひきこもりという社会現象を全く他人事とは捉えられなかった。「もしかしたら、私も」という心でいつも見ていた。

このテーブルにいる人たちは、私と兄弟にひきこもりがいるという女性以外、全員がひきこもり経験者だった。

私の右隣に座っていた40代とおぼしき男性がいった。
「どうしてひきこもりになったのかと聞かれることがありますが、私には選択肢はなかったんです。ひきこもらざるをえなかった。ひきこもりにならない道があるのであれば、誰でもその道を選びます」

そして、左隣のかっちりした身なりの男性もいった。
「一度役割を投げ出してしまったという後悔や後ろめたさが、ずっとついて回っています。周囲から、ひきこもりがネガティブに捉えられていることはわかっている。自分自身だって、ネガティブに捉えているんです」

誰の何の言葉に誘引されたのかわからないが、現在引きこもって「行き詰まりを感じている」と自己紹介で語っていた女の子が突然ボロボロと泣き出した。

ひきこもっている、あるいはひきこもっていた方々が感じていたのは、痛烈な罪悪感だった。

「こんな自分でごめんなさい」
みんながそんなふうに叫んでいるように見えた。

ひとりひとり口を開いていく。悩みや苦しみはそれぞれ違うけれど、語っている人へ優しい眼差しを向けることで、自分への許しにつなげているように見えた。
彼らの心を楽にする方法はひとつではない。最適解を見つけることは、非常に難しいし、効率的に治療法を見出すことはできない。
しかし、対話をしながら自分を許し、他者とのちがいと共通性を受け入れていくことは、「自分として生きることへの罪悪感」を取り除く方法になるのではないかと思った。特効薬にはならないけれど、漢方茶くらいの速度でジワジワと心に効いていく。そんなふうになればいいな。

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