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『体験格差』と『ユニバーサルエクスペリエンス』

旅をしていた頃は、あの県のあの町にしかないものにこそ価値を感じ、どうにか同じ体験を届けられないものか(その町に訪れる人を増やしたい)と奮闘していた。

ただ最近は、もっと身近にある、誰でも手にできるような大衆的なものから自分の『推し』を見つけ、小さく発信することに面白さを感じている。


10年以上前の話だけど、空間装飾やディスプレイ、インテリアコーディネーターなどの業界に興味のあった僕は、勉強の過程で『ユニバーサルデザイン』という概念を知った。

『バリアフリー』という言葉と比較されるように語られていた『ユニバーサルデザイン』という言葉に、当時とても共感したのを覚えている。


ユニバーサルデザイン(Universal Design/UD)とは、文化・言語・国籍や年齢・性別などの違い、障害の有無や能力差などを問わずに利用できることを目指した建築(設備)・製品・情報などの設計(デザイン)のことである。 - Wikipedia


体験にこそ価値を感じる時代だ。

『そこでしかできない体験』『あなただけのサービス』『〇人限定』のような、希少性の高いものに価値が向けられることは、古く経済の成り立ちをみてもいうまでもないけど、最近そういった希少性を打ち出すことに『暴力的ななにか』を感じる機会が増えた。


希少価値のあるものは、当然何かしらのハードルが設けられていて、誰でも簡単にたどり着けないからこそ、そこに価値がある。

あの場所に行かなければ体験できない。

あの場所に行くためのお金、あの場所に行くためのコネクション、あの場所に行くための時間、あの場所に行くための体力、あの場所に行くための…

あの場所に行くためのハードルがあるからこそ、あの場所での体験に価値が出てくる。


それは分かるし、悪いことだとも思わないのだけど、そのハードルに弾かれた人はその体験は出来ない。したくても、出来ないのだ。…

すべてをフラットにするなんて面白くないし、望んでもないけれど、もう少しハードルの低いところで、そこで普通に生活していながらも、色んな人達と喜びや幸せを共有できないものなのかなぁと思う機会が増えている。


たとえば、ある県の山奥に行かないと飲めない一杯のビールよりも、コンビニで売っている『自分推し』の大衆的なビールを。

手間暇かけて作られた行列必須の一杯のカレーよりも、スーパーに売られている『自分推し』のこだわりレトルトカレーを。

晴れた日の午後の温かさや、雨上がりの夜道の美しさを。



場所や時間、コネクションやエネルギーというハードルを出来るだけ軽くして、様々な場所で生活をしている人たちが日常的に触れられるものを通じて、喜びや幸せを共有したい…という思いが前よりも強くなっている。


一点ものにも、そこにしかない本物にも、そこでしか感じられない圧倒的な体験にも、今までのように価値は感じているけれど、誰かと何かを共有したいと思う欲求は、徐々に大衆的なものにシフトしている。


『体験格差』をもう少し薄めて、『ユニバーサルエクスペリエンス』(造語)のような、誰でも体験できるようなもので喜びや幸せを共有したいなぁ。


色んな町の色んな人と関わってきたからこそ感じる感覚なのかな。

インターネットをはじめ、せっかく手軽なコミュニケーションツール、そしてインフラがあるわけだし、それぞれの暮らしで直ぐにでもとり入れられるような、小さな幸せを通じて同じ体験を共有したい。



個人ブログ:日本微住計画



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