詩人・井上充子さんにとって、キツツキとはなにか

暖炉の前でみずがめ座の話を聴かされたとき、自分はおうし座で、空がとても短いイ短調になり始めました。そんなふうにして昨日、手のひらでお椀をつくり、そこに夜を注いでもらってから、そのままにしています。だから井上さんが「キツツキ氏らは経理士を家業として/一門の繁栄をほこっています」と描かれた時、氏の労働をわたしは、昨日の夕刊のなかにそっと、隠してあげたいと思いました。新聞にはまだ埃っぽい風の温度も残っていましたし、人の命のことなどが書かれていればよかったのですが、優しい嘘ばかりでした。

乾いた牧草のこと。手に収まるくらいの少量では、あの繊細さを肌で感じることはできません。擦れあって生じるわずかな静電気から、心のにおいが漂ってくる。水辺は今も、他人を裏切るための場所かもしれない。「キツツキは法律事務所を経営していた/ここ数年依頼者は一人もなく/小さなビルは次第に汚れ傾いていつた」ということを井上さんはつぶさにみてとり、いまのキツツキは、どこかに身体を置き忘れているというのです。空とも一縷の癒着がある川蝉の卑怯な飛びかたをみては、冬の言葉をつかいたくなる。そして色のついた市民プールで水浴びした後、編み物をする時のゆびさきみたいな甘いおくすりを一筋のみたい。

ずっと鉤括弧のきっかけを探しながら「きつつきとみみずくがおとずれる/ポマードをつけて」、その腐葉土のようなにおいを風に染み込ませて、隠し子の噂をもみ消そうとしているのです。変声期の咽からキツツキは、とても近い空の青さが吐き出されていると思って追いかけているのにいつまでも追いつけないでいる。そして新しい鍾乳洞がそっと村はずれに生まれてくる気配がして、今日はそこだけに夜が忍び込む手筈になっている。夜って性器よりも遠くないところに、小さな異なりとして静かに眠っているものなのでしょうね。

 ※ 註 井上充子(詩集『田舎の牧師』ピポー叢書、一九五五)より部分引用

大好きな詩人、井上充子、について書いた詩です。
引用詩の形態をとっていますが、完成度は低い為、今回作成中の小詩集には掲載の予定はありません。
しかし、思い入れのある作品でもありますし、この原稿を改良して、またどこかに発表できればいいと考えています。
ついでに、井上充子について…
『 現代日本女性詩人85  (高橋 順子 2005/3/1) 』
のアンソロジーの中で発見、一遍読み、一目ぼれしました。
下の写真はネットの写真ですが、古本屋で3000円で買いました。
北園克衛が主宰する「VOU」や「青ガラス」などに
同人として参加しているからなのか、シュールの影響を多分に受けて、
その才能は本当に、キラキラ輝いているように思うのです。
晩年は、とつぜん断筆し行方不明になってしまったようですが、
他の作品も読んでみたいですし、その活動なども追ってみたい。
とっても可愛らしい人だったんだろうな、
、などとおっさんは、キモく人物像の妄想を膨らませるのでした。
すいません。

国文社 ピポー叢書6 1955年



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