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心が生き返る、深呼吸のような対話を求めて。

何かを話すことで、身体に息が入ってくる。
話すことは同時に息を吐くことだから、話せたときには、身体に息が入ってくる。

逆に、うまく話せないときは、うまく息を吐けて無いときで、浅い呼吸のように、息は出来てるけど、息苦しくなる。

生命活動としての呼吸と同時に、心や意識、感覚としての呼吸も同時にしていて、その精神的な呼吸は、精神的な生命活動に直結している。

だから、うまく話せない、話したいことが話せないと、精神的に弱ってくる。

そして、聞くという行為は、その人の精神的な呼吸が深くなるか、浅くなるか、その精神的な生命活動に大きく影響するものであることは間違いない。

でも、聞くという行為は、目の前の人のためだけにあるわけではなく、聞いているその人自身の呼吸にも関わってくる。

聞くというのは、息を吸うこととほぼ一緒じゃないだろうか。

人の話を聞くと、自分も話したくなる。

ちょっと間をおいて、自分も話をする。
さっき話してた人が聞く人になる。

そしてまた聞いた人が話す、
話してた人が聞く、
聞いてた人が話す、
話してた人が聞く、、、

話して、、、聞いて、、、話して、、、聞いて、、、
吐いて、、、吸って、、、吐いて、、、吸って、、、

2人でひとつの呼吸の中にいる。

それが深い会話であり、深い対話ではないか。

呼吸も、会話も、ペースが早ければ浅くなるし、苦しくなる。

ゆっくりと味わえれば、深くなるし、心地よくなる。

深呼吸するように、会話をしたい。
目の前の人とも、そして、そして自分とも。

それは全部、同じ呼吸の中にある。

対話は、二人の間を言葉と想いが巡り、ひとつの無限の輪をえがく、心が呼吸する循環的な営みなんだと言ってみたい。

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