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「死んだらどうなるのか?」時間の哲学書から教えてもらった (その1)

死後の世界を、僕は信じてない。

でも、今日は少し話してみようと思う。なぜ急に話してみたいと思ったかというと、今読んでいる『時間についての十二章』という本の中に、「生の時間」と「死の時間」っていう話が出てきて、その内容がとても腑に落ちたから。死後の世界は、いまだに信じてはいない。でもこの「死の時間」というのはあると思える。「死の時間」とは何か?

僕は死ぬのが怖い

怖いというか寂しい。この人生で出会った人たちと別れてしまうのがとても寂しい。もう二度と会えなくなるっていうのが、、、、なんだろう、、、その辺がちょっとまだ自分でも気持ちをつかみきれてないですけど、寂しいなぁ、悲しいなぁみたいな気持ちがあって。でも、今日その時間の本を読んで、生の時間と死の時間について書かれているところを読んだら、ちょっと気持ちが楽になった。死んだ後も何かあると思えたから、ちょっと安心できたのかもしれない。先に亡くなった方にも、僕が死んだらまた会えるし、逆に僕が先に逝ったことで別れた人たちとも、待ってたら会えるのかもしれない。そんな風に思えたらからか、ちょっと気持ちが楽になった。でもこれ、僕にとっては世間でよく言われる「死後の世界」のことではないんです。繰り返し書きますけど。「死後の世界」は信じてない。でも「死の時間」はふに落ちる。他にもとても興味深い話があったので、今日はそのことを書いてみます。

「直線の時間」と「円環の時間」

順を追って話してみます。まずは「時間」について。本によると、時間には「2つの時間」があるそうです。現代の人が普段普通に使っているのは「直線の時間」。時計の針で共通にして等速で進む時間を「直線の時間」と本では説明されています。そして、それとは別に、時計が生まれる前、時計の針によって時間を計測する前に人間が感じていた時間というのがあって、それは「円環の時間」。春が来て、夏が過ぎ、秋冬を越すとまた春が来る。夜が終わればまた朝が来る。過ぎ去るのではなく戻ってくる。回帰する時間。この2種類の時間を区別しているところに、まずこの本のベースがあります。

昼と夜はそれぞれ異質な世界だった

昼と夜というのは、今、僕らの中では時計の計測による1日24時間という枠組みがあって、その中で、昼は10時間くらいだとしたら、残りの時間が夜。そこには時計使った共通の時間があって、同じ世界の中に2つの区別、昼と夜がある。でも昔はそうじゃなかったと。本によると。昼と夜というのはまったく異質な世界だったと。この2つの世界を貫く共通の時間軸というのは昔は無かったそうです。

今の僕たちにとっては、昼が過ぎたら夜になり、夜が終われば昼(朝を含めた日中のこと)になる。12時に昼食があって、3時のおやつがあって、6時の夕飯があって、9時頃寝るとか。1日24時間という共通の時間が貫く世界の中に昼も夜もある。これが現代の「直線の時間」で認識する昼と夜です。でも昔は、そのように昼と夜を同じ時間で語れなかった。異質な世界、別世界だったんですね。昼と夜というのは同じ直線の時間軸を進むような移動ではなくて、空間の移動として捉えられていた。世界自体を移動する。異世界転生じゃないけど、そういう世界の移動だった。世界を移動するというのが昼から夜への変化だった。

時間世界

そして、この昼の世界と夜の世界と同じように、春とか夏とか秋冬っていう四季も全部別の世界だったと。1年間365日、この時計の針が計測する1年の中の、そういうのある共通の時間軸で貫かれた、同じ時間軸によって計測できる春夏秋冬ではなく、春という世界があって夏という世界があって、春から夏に変わるっていうのは世界を移動している。そういうまとまった時間を一つの世界として見るという現実の捉え方があった。このような時間感覚で人生を見てみたとき、「生の時間」というのは「生の時間世界」、僕が今こうやって生きている人生や、みんなが生きてる人生は、それぞれ一つの時間世界であって、「生の時間世界」があるのであれば同時に「死の時間世界」というのがあると。昼があるなら夜があるのと同じように。春があるなら夏があるのと同じように。そして、ここでも共通の時間には貫ぬかれていない。それぞれが異質な世界、全然違う世界。生と死は、空間の移動である。

続きはまた。

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