「正欲」が欺瞞に満ちた酷い作品である理由
はじめに
「正欲」はどんな小説か?
浅はかな「多様性ブーム」の持つ欺瞞をマジョリティ側に突き付ける、強いメッセージ性をはらんだ作品__と一般的には解釈されている。
物語中では「ダイバーシティフェス」に奔走する八重子と、その”枠”からはみ出た大也の衝突を代表としつつ、その他にも幾つかのマジョリティvsマイノリティの構図が配置されている。
全体を通して
「マイノリティに対して理解している側だと思い込んでいるマジョリティ側の人間に対して、己の想像力の欠如、浅はかさを突き付ける」
内容であり、そのテーマ設定に私は大きな期待を抱いて読み進めた。
しかし、その期待は大きく裏切られることになる。
「正欲」がはらむ欺瞞
欺瞞を突き付けるメッセージそのものが、本作品と読者が想定する多様性の枠外にあるものに立脚しているためである。
”本作品と読者が想定する多様性の枠外にあるもの”
それは何か?
小児性愛である。
物語のメインプロットは
自分が他の人よりも悩みを抱えていると感じている八重子が、その想像の範疇を超えたマイノリティである大也に対して、実際には無理解なまま浅はかな受け入れの姿勢を示す。
しかし、最終的には小児性愛と誤解されることで、大也は逮捕されてしまう
___といったものだ。
他の主人公である夏月や佳道においても同様に
「本来は無垢だが、一般には理解されない特殊性癖であるがゆえに、悪い性欲(小児性愛)と誤解されてしまう可哀そうな人たち」
という描かれ方をしている。
つまり、読者は
「LGBTQ+が当然の多様性として受け入れていかなければならないんだ!」
といった認識から
「LGBTQ+以外のマイノリティの存在を無意識に排除していたことに気が付いた・・・」
「悪い性欲に誤解されて可哀そう」
「主人公達のような存在も想像し、認められる世の中であるべきだ!」
と考えをアップデートするのである。
端的に言って、このような思考プロセスそのものが、多様性ブームのはらんでいる本質的な欺瞞である。
本作品によって生まれる
「害が無いのにマイノリティなだけで不利益を被るのは可哀そう」
「もっと想像力を働かせよう」
といった感想は
「害がある性欲は可哀そうじゃない」
「存在してはならない」
の裏返しであり、この作品で「多様性ブームの欺瞞を突き付けられた!」と、無邪気に、言外の差別意識に立脚したメッセージ性を受け止めて価値観をアップデートした気になっている殆どの読者は、ダイバーシティフェスで”繋がり”を提供することで気持ちよくなっている八重子達と同じ構造なのである。
この作品の卑怯で巧妙な点は、その暗黙の了解__小児性愛は許されない性欲であり、多様性の範疇には絶対に入らない__には一切手を付けないまま、その限定的な多様性観を利用して、新たな多様性観を提起しているように見せかけているところにある。
無論、この作品が主に小児性愛などの嫌悪される性欲をテーマにしていたとしたら、ここまでヒットすることはありえなかっただろうから、商業的には極めて”正しい”、妥当な選択であったと思う。
※まさに、主軸とした綺麗な性欲が”正欲”であることの証左と言える。皮肉にも
それと同時に、多様性への問題提起をテーマとしている作品でありながら、無意識の多様性枠を利用しているという点に、思慮の浅さと、正義の無さ、誠実性の低さを感じざるを得ない。
そして、この欺瞞を糾弾せねばならないという思いに駆られ、このnoteをしたためた。
多様性の問題は、本作が示すような、多くの読者が感銘を容易に受けることができるようなポップで可愛らしいものではなく、もっと醜く、ドロっとした、エグく、深刻な、ダークなものであるということに気が付く人が、1人でも増えて欲しい。
「衝撃を受けました。世間の多様性礼賛ブームに感じていた違和感、欺瞞に気が付かされました。正しさ・正欲について深く考えるキッカケとなりました。」
とかレビューを投稿している、あの人に、届くことを願って。
追記1.無理やりの好意的なレビューへの批判
※
ネット上のレビューの中には「正欲は小児性愛を暗喩として描いている」「読者に許される性欲と許されない性欲の存在について考えさせることで、小児性愛を含む禁忌とされる性欲についての検討を問いかけている」といったものも見受けられる。
しかし、それはかなり無理やりの好意的な解釈であると言わざるを得ない。
本当に暗喩として描くのであれば、作品内で主人公達の潔白性を際立たせるための足場として小児性愛を用いるべきではないし、主人公達の発言や内心が小児性愛当事者のものとしても矛盾がないようにしなければならない。
しかし、全くそれは反映されていない。
また、小説全体を通して「小児性愛というあってはならない性欲と、主人公達の持つ、共感は全くできないが、不幸なく過ごしていて欲しい性欲、を区分しているという欺瞞自体を突き付けている」というメタ的な内容であるという解釈をしているのかもしれないが、レビューを沢山確認してもらえば分お分かり頂けるように、少なくともその狙いは完全に失敗していると言える。
本noteのような批判的な目線で書かれたレビューは極めて少ない。
なぜか?
このような多様性ブームはらむ本質的な欺瞞について敏感な、排除される側のマイノリティは、声を上げることすら許されない立場だからである。
この正欲という作品がはらむ欺瞞と、それを持ち上げる「『正欲』を読んで多様性ブームの欺瞞に気が付いた気になっている人」の欺瞞が完全に一致し、世間的な評価が形成されているのである。
そのグロテスクな構造に、気が付いて欲しい。
※
小児性愛が認められるべきという風には、本noteを通じて一言も書いていないことを、よくご確認いただきたい。
小児性愛のような、性欲そのものが社会的な悪性を発揮してしまうような、そういった”悪欲”とどう向き合うかの方に、より根本的な多様性問題の難しさが存在しているということを主張したい。
追記2.素晴らしいレビューの紹介
※
こちらのAmazonレビューには深く共感する。
より丁寧に、この作品の持つ欺瞞を指摘、解説されているので、ぜひご覧いただきたい。
追記3.『”水フェチ”は”小児性愛”の暗喩説』への反論
※
「主人公達の水フェチは小児性愛と置き換えることができる」
という趣旨のこちらのnoteに、私は強く反論する。
まず、仮に「無実の小児性愛についての問題提起」が作品の本質的な狙いであるとしても、それが失敗に終わっていることは、レビューをザっと確認するだけで容易に確認できる。
この時点で、本作が欺瞞に満ちた酷い作品であるか、狙いが失敗に終わった酷い作品であるかのどちらかであることは確定しているのだが、より妥当な検証のため、論拠について詳細に確認していく。
指摘の通り「この台詞の射程に小児性愛が含まれることを示唆している」ことには同意する。
ただしそれは、あくまで老人から家族、男の子、など、様々な人間の存在、家族や生活のあり方という多様性全般を含めた中での一部であることも、同様に明確である。
もし、小児性愛であることを強調したかったのであれば、子どもの描写を強調すべきだった。
また、その描き方は小児性愛者の本質的な悩みを浮き彫りにするようなものとすべきだった。
しかし、それをしていないということは、すなわち、
・水フェチを小児性愛に置き換えることを少なくとも強くは想定していない
ことを意味する。
※様々ある多様性の中の一つとして射程に収めていることについては否定しない
まず
「子供に性的関心があること、その感情を持つこと自体は内心の自由により罪には問われない。」
ということを前提としている点に、認識上の大きな誤りがある。
世間的には、内心の自由さえも否定する論調の方がマジョリティであり、その常識観に立脚したプロットであるということはこの作品自体が根拠となっている。
それゆえ、仮に「子供に性的関心があること、その感情を持つこと自体は内心の自由により罪には問われない。」ことを前提としているのであれば、それを強調しなければならない。
例えば、作品内で、内心の自由性を論点として挙げるべきだった。
それをしなかった以上、逆のメッセージとして伝わることを少なくとも許容していたことになる。
※逆のメッセージというのは、つまり、小児性愛は鼻から多様性の範疇外であるということ。
確かに、主人公達のマイノリティ欲求を水フェチとしたことによる違和感は各所に生じている。
しかし、水フェチとそれを持つ主人公達が抱える卑屈性を主軸に据えるにあたっての説明は丁寧に描写されており、そのもの自体には何ら小児性愛と照らし合わせられる要素がないことが、そのまま置き換えられるとは考えにくいことの根拠となる。
例えば、水フェチとしての自分たちを追い詰める心境の流れは、水フェチによる住居侵入罪、窃盗罪のニュースが、全く理解されないまま馬鹿にされる一件をスタートとしている。
これは小児性愛者が抱える孤独や、社会から受けている圧力とは大きく異なるものであり、仮に暗喩だとしたらよほど質が低い。
小児性愛の抱える本質的な課題は、その性欲そのものが、社会にとって悪性を持ちうるということであり、その点を無視した場合、その暗喩は全く意味を持たない、おままごと上の暗喩となる。
仮に暗喩として機能させる意図があるのであれば、主人公達の性欲は、そのものの解消が社会的な悪と隣り合わせになっている行為でなければならない。
例えば、水を盗む行為であれば、まだましだろう。
しかし本作では、あくまで対象を水とし、上記引用のような台詞によってのみで、その暗喩としての架け橋を担おうとするのは余りに脆弱で、無理がある。
少なくとも商業的な正当性、受け入れやすさを優先した選択が認められる内容となっていると言える。
先ほどの指摘と同様に、置き換え可能とするのに重要なはずの要素が欠如しているため、少なくとも暗喩には失敗している。
指摘の通り、「致命的な自己矛盾」に陥った作品であると言える。
読み替えたとして、その内実性は全く真に迫っていない。
その根拠は複数ある。
まず先ほど述べた通り、小児性愛の持つ本質的な課題である、性欲そのものの社会的悪性を水フェチに含めていないこと。
次に、水フェチ側の解決策として、仮面夫婦やパーティのメンバーとして”繋がりを持つ”というアイディアが示されていること。
これを引用のnoteでは「小児性愛者同士によるセラピー目的で行われている自助グループ」として当てはめているが、全く実態には即していない。
小児性愛者が孤独によって法を犯してしまうといったような根拠があるのか?取材によってそのようなことが見出されたのか?
は不明だが、少なくとも一般的にはこの主人公達の悩み感とは全く異なると考えられる。
小児性愛の暗喩として描くのであれば、所持による違法化とその葛藤などを、水フェチに置き換えて示すなどすべきだった。
また、何より、作品内に法を犯す小児性愛者を登場させることで、暗喩としては機能しなくなっている。
仮に暗喩としたかったのであれば、逮捕のキッカケとなる人は、小児性愛者ではなく、水フェチが行き過ぎたことによる、巻き込みでの逮捕、とすべきだった。
例えば
・より強いフェチズムを追求するためにダムに潜入し、勝手に放水を行う
・違法アップロードされた水動画をダウンロードし、共有することで共犯となる
とか。
__本当は、ダムに潜入して放水を行いたいが、それは犯罪なのでなんとか社会的に認められる方法で解消することを試みている立場の主人公達が、一線を越えた存在によってまとめて糾弾される__
といったようなプロットにすべきだった。
本作品では、あくまで理解されない水フェチという性欲について、理解されることは無くても、”繋がり”によって、”いなくなることはない”という尊さに注目を集めさせており、それは本人の内心に葛藤を持ち、真っ向から蔑まれて生きている小児性愛者に照らし合わせることはかなり無理がある。
暗喩と捉えた場合に批判できる点は他にもある。
例えば、水フェチたちのその後はどうなるのか?
「小児性愛者」としての濡れ衣を着せられたままではありつつも、そのまま変わらない日々は続いていくだろう。
今回の反省を踏まえ、より安全で、適法な解消法を模索し、追求していくだろう。
しかし、小児性愛は違う。
仮に、一線を越えた小児性愛者に巻き込まれた小児性愛者だったとして、その後の日常は変わらず、自分の性欲の解消が社会的な悪と肉薄している状態で過ごしていくことには変わりがない。
適法精神が高ければ、例えば、子どもがいる可能性が高い場所には、近づかないなどの対処をすることになるだろう。
本作の主人公達、水フェチにとって、そのような一生を通しての苦しみは想像できない。
(何度目かという感じだが)仮に暗喩として機能させたかったのであれば、水フェチゆえに、つい、法のすれすれのところに吸い込まれかけてしまうような描写があるべきだった。
また、葛藤の後、それから距離を置くなどの対処を描くべきだった。
子どもYoutuberへのコメント及びその停止が、これらの葛藤を表しているという見方も不可能ではないが、あまりに実害性が低過ぎて、距離がある。
水フェチによるリクエストは、子どもを対象とした訳ではなく、子どもを使わざるを得なかっただけなので__といったような説明書きも、仮に暗喩としたかったのであれば、かなり余計である。
全体を通して、確かに台詞部分だけ抜き取ると、如何にもバズりそうな、強い言葉で本質をエグっている雰囲気だけ出ている作品だが、単純な置き換え可能なものとして解釈するには、それを否定する表現が余りに多い。
以上のことから、この作品は、
・水フェチの小児性愛への置き換えは意図していない
あるいは
・水フェチの小児性愛への置き換えを意図したが、小児性愛への思慮は浅く、表現にも失敗している
のどちらかであることは、間違いないと確信する。
追記4.共感したnote一覧
もとい, この小説は失敗だと思う(朝井リョウ「正欲」)
痛烈な批判、非常に的を得ていると感じる。
「何者」を面白いと感じた自分は、朝井リョウの傑作と謡われる作品として、最終段に大きな期待をしていた。
それはつまり、そこまで読み進めていた水フェチへの同情をかき消すような激しい嫌悪を催すようなパラダイムシフトが作中終盤で起こり「さぁ、ここまで水フェチに同情的になっていたあなた達読者の、浅はかさの二重性に気が付きましたか?この上でも、先ほどまで持っていた感情を、保つことができますか?葛藤スタート!」といった提起をしてくれることを期待していたからである。
それがどうであったか?
非常にがっかりだった。
AI42, 【小説】多様性への寛容は虚栄か?〜『正欲』#11
心の奥底から同意だ。
このnoteでは神学者の森本あんり氏の『不寛容論』を引用し、寛容の不愉快性を指摘している。
多様性問題の持つ本質的な問題は、多様性を礼賛する人々の想定の枠外の不愉快な多様性の存在と、マジョリティはどう向き合うか?といった点にあり、共感ができないだけで害性が極めて低い水フェチを主題とすることは、かなり大胆な逃げ、逃走であると言えるだろう。
「正欲」が多様性議論や、他作品のレビューで引用される、その浅はかさに、マジョリティが気が付く時代が到来することを強く願う。
あるいは、朝井リョウ氏、全て不愉快な多様性に置き換えたアンサー小説を書いてくれ!
shandy, 正解なんてないんだよとかいう世の中の詭弁──『正欲』読了
このような自身の心の動きの欺瞞に気が付いた読者がどれだけいたのだろうか?
マジョリティにこのようなメタ認知を促すことが目的だったとするならば、表現の工夫がかなり不足していたのが「正欲」だったと思う。
栄養学生の見る世界, 全ての性的嗜好を肯定する「正欲」の世界で唯一肯定されなかったもの
このようなレビューが大半だったら、このような批判noteを書かずに済んだと感じる。
このようなところへ思い至る人もいるという意味では、
1.多様性礼賛の否定
2.「正欲」で多様性礼賛に使われている本質的に多様性問題の提起
という二重構造になっていると言えなくもない。
そして、前者のレビューが大半であることが、世間的には2段階目に挑むのは困難であることの証左であり、やはり商業的には妥当な作品だったということが分かる。
Misato, NYで読書会。朝井リョウ「正欲」について
こちらはなんとニューヨークでの読書会の内容を報告。
筆者以外のメンバーはニューヨーカーとのことで、新しい観点をうかがい知ることができます。
鋭い指摘。
他の方の素直さと、それがはらんでいる矛盾を明らかにしている。
議題に上げること自体がタブーという、アメリカのリアルな雰囲気をうかがい知ることができる貴重なレポートである。
先に批判を展開した、Amon氏の「「正欲」が投げかけるもの」内では、
「子供に性的関心があること、その感情を持つこと自体は内心の自由により罪には問われない。」
とあったが、その前提が少なくともアメリカでは全く通用しない可能性を感じさせる。
「アニメとかそういうもの」に対する弾圧は、日本以外では特に厳しく、それを国内でも標準化すべきという声は根強い。
”正義の多様性”の欺瞞を問う「正欲」にこの観点が抜け落ちているのは、やはり片手落ちと言わざるを得ない。
散れ (旧 520), 朝井リョウ 『正欲』 の感想ツイートが浅いのは仕方ないとしても、いろいろ酷すぎるという問題
「追記2.素晴らしいレビューの紹介」で紹介したAmazonレビューのリンクを紹介している。
私は朝井リョウがどこまでの意図を持って、そしてそれが悪意によってこの作品が成り立っているかは判断がつかない。
しかし、ビジネス的な観点においては、欺瞞をはらむことで成功を収めたということは間違いなく言える。
追記5.欺瞞に飲み込まれた典型的な方の感想note
晒すような形で申し訳ありませんが、とても参考になるので載せさせていただきます。
本作品のはらむ欺瞞、そしてマジョリティの読者の反応を象徴しており、素晴らしい。
「すんなり納得」できないのが多様性の本質である。
追記6.Amazonレビューへの反論noteへの反論
「追記2.素晴らしいレビューの紹介」で紹介したAmazonレビューに反論しているnoteを見つけたので、これに反論する。
まず、このnoteの筆者が感じた、自身の経験と照らし合わせたときのリアリティや、感情を否定するものではないということを明言する。
あくまで、「正欲」がはらむ表現上の問題を指摘することを意図している。
書いてある通り「youtube の規制がどうこうとか」が、既にそのコンセンサスを含んでいる。
本noteでも、当Amazonレビューでも述べられているように、物語上、主人公達に同情的になることを促す目的で、悪い性欲として小児性愛が用いられていることは明らかである。
理解できないが悪くはない性欲:水フェチ
を多様性の枠の中に放り込むために
理解できないし悪い性欲:小児性愛
を利用しているのは明らかである。
Amazonレビューが指摘しているのは、読者が読みやすいように「そう演出されている」ということである。
隠しきれずに捕まった人、ですら、所詮器物損壊等”程度”であり、その予備軍としての主人公たちに嫌悪感をもたらすものではない。
直視できないほどの嫌悪感を抱かせるほどのものではない。
これは何を言っているかというと、
小児性愛は、「直視できないほどの嫌悪感を抱かせるほどのものである」ということである。
その多様性の持つ欺瞞から逃れた作品であることを指摘している。
”ダイバーシティフェス”たるものや、男性同士の恋愛ドラマ、それを取り巻く周辺の描き方は明らかに近年の多様性礼賛への皮肉として描かれている。
Amazonレビューを読む限り、ここで書かれている”最近の世界全体の流れ”を皮肉っている内容であるということは、もぶ氏と共通の見解であるように思われる。
その上で、田吉というステレオタイプな超保守的人物に任せた役割を分析しており、それは もぶ氏が感じているめんどくささを、否定するものではない。
物語上の機能として、上手くいっていないという指摘をしているに過ぎないので、反論がズレている。
これは反論とは違うが、Amazonレビューの筆者がマジョリティと断定している点には些か違和感を覚える。
マイノリティである、もぶ氏が共感し、受け入れた内容の作品に対して、別のマイノリティが共感を示さず、批判的になることはありうる。
Amazonレビューの筆者がマイノリティだったとしても、内容に矛盾はなく、論を展開している以上、マイノリティであるからといって、その論を即棄却できる訳ではない。
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