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【小説】多様性への寛容は虚栄か?〜『正欲』#11

※ネタバレを含む記事です。

『正欲』は朝井リョウさんによる新潮社から2021年に出版された小説です。
2023年11月10日に映画も公開されます。

発売当時にも読んでいたのですが、先日、映画を観に行くにあたって、小説の方を再読しました。

テーマは”多様性”?

こちら出版社の方も販促に気合が入っており、特設サイトも開設されています。

特設サイトには、以下の小説のセリフが引用されています。

「自分が想像できる"多様性"だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな」

この小説はメッセージ性がものすごく強いです。

特設サイトのセリフからもわかるように”多様性”が大きなテーマとなっていて、発売当時に読んだ際、自分もこれは現代の多様性を痛烈に皮肉って、私たちに現実の認識の甘さを突き付けてくる作品なんだと衝撃を受けました。

しかし、今回再読してみて、もしかして、当初この本を読んで感じた”多様性”理解は、まだまだ未熟なものではないかと感じるようになりました。

あらすじ

おおまなか流れだけ説明すると、『正欲』は、公園で行われた小児性愛者によるパーティーと題された事件の記事から、時間を遡って様々な職業、年齢の人の群像劇が始まります。

その群像劇では、”水”に性的興奮を覚えるという、誰からも理解されない性的嗜好を持っている人たちと周囲の人たちの関わりを描きます。

そして、最終的に記事になった小児性愛者のパーティーの事件は、実は”水”に対して性的興奮を感じる人たちのパーティ(同志のグループ。勇者一行のパーティという意味の方のパーティ)で、水を撮影していたのだということが物語から判明します。

世間の”多様性”に対する皮肉?

この作品を当初読んだ時の感想は、ただただ衝撃でした。

“水”に性的興奮を覚えるという性欲は、私たちの想像する多様性の埒外にあるものです。私たちには、この感覚を想像できないですし、もちろん、理解もできません。

世間では、多様性について理解をしようと声高に叫ばれている中で、私たちの考える”多様性”という脆く薄っぺらな認識を嘲笑ってきます。

「多様性って言いながら一つの方向に俺らを導こうとするなよ。自分は偏った考え方の人とは違って色んな立場の人をバランスよく理解してますみたいな顔してるけど、お前はあくまで”色々理解してます”に偏ったたった一人の人間なんだよ。目に見えるゴミ捨てて綺麗な花飾ってわーい時代のアップデートだって喜んでいる極端な一人なんだよ」

朝井リョウ『正欲』,新潮社,2021年,337ページ

このように突き付けられてしまうともはや多様性とは何かわかりません。LGBTQ、ジェンダーや人種による問題といった私たちが想像する多様性。

しかし、そういった多様性とは人間のほんの一部の特徴にすぎません。
”多様性”を考えるには私たちの想像力はあまりにも貧弱で、限界なのです。

「どうせ説明したところでわかってもらえないことなので。結局起訴されるなら、誰も話そうとしなくて当然だと思います。」 ーどうせ説明したところであなたにはわからないよ。

同,369ページ

この物語で自分は、”多様性”というものの限界をある種”わかった”ように思ってしまいました。よくある言葉で言うと、 自分の多様性という価値観に衝撃を受けたとかそんな感じです。

しかし、再読して、そもそも”多様性”を認めるということはなんなのかと考えたとき、以前読んだ感想が全くの思い上がりなのではないかと感じました。

なぜなら、多様性を認めるというのは、”寛容”の問題であり、”寛容”というのは私たちが受けれいることができないものを受け入れるという行為だからこそ意味があるからです。そもそも、私たちが受け入れる程度の範囲にあることを受け入れるのは”寛容”ではないのです。

“寛容”なのか?

今回の物語の人に対して、読んでいるときに不快感や拒絶感を感じたでしょうか?正直、そこまでは感じなかったではないでしょうか?

それは水に性的興奮を感じるというのが、本来的には他者に対して無害で、何か他人の信条を害することがない、あくまで私たちから縁遠い人たちだからこそ、私たちはある程度、受け入れてわかったように感じてしまうのではないでしょうか。

この想像もつかない設定が、逆に私たちを寛容であるように錯覚させている面があるような気がします。そう考えるとこの物語を読んで、ある種”わかった”気になってしまった自分が強烈な不意打ちを喰らったように感じました。

もし、もっと身近に感じて、かつ、より拒絶感を感じるものが出てきたとき、私たちは今回と同じ態度を取れるのでしょうか。
そういう意味では、理解できない”多様性”というのを論じるのであれば、もっと核心に迫ったものを出して、私たちに寛容でいられるか試すべきだったのではないのか。どうなんだ、朝井リョウ!
(小説としてみんなに読まれるギリギリのラインがこれだったのか。先に行きすぎるとそれはもう犯罪になってしまい多様性という問題から外れてしまうのか。。いや、でも、そもそも同性愛だって犯罪だった時代があるのだから、歴史を考えると、現在、犯罪というだけで、多様性を語る上で論外としていいのか、、、と多様性ってもっと苦悩を持たないといけないのではないか。。。)

この小説を読んで感じたのは、寛容ではなく、他人事による無関心による容認だったのではないだろうかとふと思います。

神学者の森本あんりさんは『不寛容論』という著書で、アメリカ大陸への移民当時の宗教的、政治的対立のなかで、見出される寛容と不寛容の歴史から多様性国家アメリカの起源を見出しました。

この本では、自身の中心にある信仰に関わるものが異なるという状況の中で、相手の信条は全く理解できないし、認めることもできないが、政治的安定性を求める実利的な問題で、容認するという寛容が出てきます。

このように寛容というものは、本来的には、不寛容と真正面から向き合わないといけない問題なのです。現代の日本人の多くからすると、このような自身の信条と真っ向から対立する問題自体が少なく、本気で寛容を考える機会が少ないかもしれません。

寛容は、常に不愉快な事柄を論ずる「不愉快な問題」である。

森本あんり『不寛容論』,新潮社,2020年,172ページ

不寛容なしに寛容はあり得ない。不寛容は、寛容を成立させるための内在的な証拠である。従来の寛容論がいずれも何となく「よい子のお題目」のように聞こえてしまうのは、この点を直視してこなかったからである。

同,288~289ページ

読んでみて、結局この小説はあくまで、自分の生きる本質である欲が周りと違う中での世界の見方、生き方、繋がりというもので読むべきだったのではと感じます。生きていくのに他人に理解される必要はないのですから。

ただ、これで多様性を語るにはちょっと安易ではないかとふと思った次第です。

参考文献

森本あんり『不寛容論』,新潮社,2020年

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