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〈短編小説〉七色 nanairo


 山手線のホームから階段を上り、乗換えの人たちが行き交う広場を左に抜ける。そこには有人切符売り場の窓口が並ぶ、都心部では珍しく、僕にとっては懐かしい光景がある。すぐ隣の自動改札を抜ければ、そこはもう京急線のホームだ。

 学生の頃、品川駅から電車に乗るたびに耳にしていた、最終目的地を告げるアナウンスが流れる。
『三崎口』
 名前しか知らなかった終点駅に、あらためて行ってみようと思い至ったのは、僕が社会人になってから五回目の夏だった。

 八月の湿気を帯びた風と共に、快特電車がホームに入ってきた。窓側の席に落ち着くと、電車は緩やかに走り始めた。二列シートにちょっとした旅気分を感じながら、外の景色に目をやった。線路沿いに立ち並ぶビルの合間から、懐かしい学び舎が見え、あっという間に通り過ぎてゆく。ここが今日のスタートラインだ。

 見ず知らずの場所へ行く。たったそれだけの小さな冒険が、僕の心に光を灯す。初めて見る景色を撮り収めておこうと、スマートフォンを出したところで、会社の後輩からEメールが飛んできた。頭が一瞬で仕事モードに切り替わる。

 添付されたファイルと、メッセージに目を通す。先週リリースしたばかりの顧客管理システムに関するエラー報告だ。次の駅で下車して連絡をする旨を送信し、スマートフォンをポケットに戻した。

 休日に会社から連絡が入ることにも、今ではもうすっかり慣れた。入社したばかりの頃は、エラーとバグの報告にいちいち肝を冷やしたものだが、失敗の数だけ経験は蓄積されていく。近頃では、両肩にかかってくる圧に対して免疫もつき、仕事にやりがいを感じられるようになった。

 レポートとアルバイトに明け暮れた学生時代を思えば、今は自由もある。長い連休には何処にだって行けるし、そのための金もある。

 僕の人生はそう悪くないと思う。むしろ、良い方なのだと思っている。だけど、何かが足りない。満たされない気持ちを埋める何かは、一体どこに行けば見つかるのだろう。

 京急川崎駅で一旦下車して、後輩に連絡を入れる。とりあえずシステムダウンの原因となる機能の一部をストップし、代替手順を他部署に回すように指示をして電話を切った。

 夜に家のPCから軽くチェックして、朝一で出社しよう。
 一度伸びをして、頭の中を空にする。次の快特に乗る前に飲みものでも買おうかと思ったとき、一段飛ばしで階段を駆け上がってくる男が見えた。ホームを蹴るたび目にかかる、長めの前髪を煩そうに片手で押さえる。髪と同じ色をした明るい瞳が一瞬僕を見た。

 ふっと爽やかな香りを残して彼がすぐ目の前を通り越したとき、白い足に引っかかっていたビーチサンダルの片方が、僕の前に置き去りになった。
「あ、ちょっと!」
 思わず呼び止めると、彼は今にもドアが閉まろうとする電車の前で止まり「これ、三崎口まで行きますよね」と、叫びながら振り返った。

 唐突な質問に、電光掲示板を見上げて行き先を再確認する。僕の口から出たのは「いや」という一言だけだったが、彼は息を切らしたまま、そこで立ち止まった。

 ドアは閉まり、赤い電車はガタゴトと僕らの前を通り過ぎる。熱にゆらぐ線路が見えると、急に夏の蒸し暑さが戻ってきた。

「すみません」
 彼は恥ずかしそうに俯いて、片足が裸足のまま歩み寄ってきた。ビーチサンダルを引っかけてから顔を上げる。大学生くらいだろうか。
「待ち合わせに間に合わないかと思ったら、焦っちゃって」
 照れ隠しか、彼は事情を説明し始める。

「次、ちょうど快特が来るよ、三崎口行きの」
「ああ、良かったあ。日が落ちちゃうと、スノーケリングしてもいまいちだから、早く着きたくて」
「スノーケリング? 三崎口でできるの?」僕は思わず訊き返していた。

 確かに海があれば海水浴場の一つや二つはあるだろう。しかし泳ぐことはできても、スノーケリングはさすがに無理があるんじゃないか、と思っていたら「今、『神奈川の海で何を見るんだ』って思ったでしょ」と、僕の心を読んだように彼は笑みを浮かべた。

「実は俺も友達から聞いたとき、同じこと思った。でも毎年夏には、熱帯魚が結構いるみたい。黒潮の海流に乗ってくるらしいですよ」
「へえ、そうなんだ」
「潮溜まりでも見られますよ。よかったら一緒に行きます?」
 いきなり何を言い出すのか。遠慮しようとしたところで、ちょうど快特が来た。

「あ、来た。乗りましょう」
 一本前の鈍行を逃しておきながら、快特に乗らないのも不自然だろう。それに元々行き先は同じだ。僕は促されるまま電車に乗った。車両に入ると彼はあたり前のように、隣に座ってきた。

「あ、そういえばどこまで行くんですか?」
「一応、僕も三崎口まで」
「なんだ、一緒だったんだ。それで、なんで三崎口まで? ……わかった。『みさきまぐろきっぷ』でしょ」
 質問しながら自己完結しているようだったが、彼は無邪気な目を向けながら、僕の答えを待っている。ペースに引き摺られながら、会話は続いていく。

「特に目的があるわけじゃないんだ。学生の頃、通学で毎日この電車に乗っていたのに、終点まで行ったことがないなって、ふと思ったから」
「え、それだけ?」彼は目を丸くする。

 あまりにも面白みのない答えだったかもしれない。嘘でもいいから『マグロが目当て』とでも答えて、話を合わせておけば良かったか、と後悔したところで、
「いい!」彼は急に僕の右手を掴んだ。

「俺ね、そういうあてもない一人旅みたいの、すごく憧れてて」
 電車でただ終点まで行くだけのことを、旅と言っていいのかはわからなかったが、僕は勢いに呑まれて同調していた。……これは、僕の周りにはいない種の人間である。

「ちょうどいいから一緒に海に行きましょう。結構みんな漁港止まりだったりするんだけど、ちょっと先まで足を延ばすとビーチだから。友達が車で迎えにくるから、駅に着いちゃえばそこからはすぐだし。俺、優月っていいます」
 掴んだ僕の手をぶんぶん振りながら、彼は歯を見せて笑った。これはもう一緒に行くことになっているのだろう。

「坂巻です」
 何故こうなったのか自分でもよくわからなかったが、元々これといった目的すらない旅だ。それに、こんな状況をちょっと面白いと思い始めている自分がいた。
 景色は混ざり合いそうな速さで流れている。雲の切れ間から陽が差し込むと、空が明るくなり始めた。

 ポケットの中でスマートフォンが震える。後輩からの報告メールだ。
「仕事?」
 メッセージを読んでいると、優月くんが訊いてきた。
「うん。さっきちょっとトラブルがあったみたいだけど、大丈夫」
「坂巻さんって、SEじゃない?」
「なんでわかった?」

「なんとなく、同業の匂いがしたから。俺はプログラマーだけど、駅で待ち合わせしてるやつ、SEだよ。同じ会社なんだ」
 彼が社会人だったことに驚いたが、共通点を見つけると親近感が湧く。そのあと僕たちは仕事の話を皮切りに、色々な話をした。いつも実年齢よりも若く見られてしまうという、僕と反対の悩みには思わず笑ってしまったが、年齢は一つ下でも、実はまだ社会人二年目だという彼のエピソードが、あまりにも自分の人生とかけ離れていて衝撃を受けた。

 一浪、そして入学して半年ですぐに留年確定。その理由は国際ボランティアだという。サモアで起きた災害ニュースを知った瞬間、日本を発つことを決めたそうだ。

「行ったことのある場所だったんです。だからどうしても、そこに住む人たちが他人とは思えなくて」
 その言葉を聞いて、ちくりと何かが胸に刺さる。
「母親には散々泣かれたし、付き合っていた恋人にも見放されたけど」と恥ずかしそうに話してくれたその物語が、僕にはとても眩しかった。

 トンネルを一つ抜けて暫くすると、景色がビルから緑へと変わる。
 優月くんは僕の話すこと一つひとつを真剣に聞いて、驚いたり、笑ったりした。彼は、自分と似た人間かそうじゃないのかを、探ることに興味はないらしい。三崎口駅に到着するまでは本当にあっという間だった。


 終点の三崎口駅に降り立ったときには、雲は流れて空はすっきりと澄み渡っていた。
 改札を抜けると、優月くんはロータリーに停車していた、黒のジープに向かって走り出した。運転席の窓から顔を出したのは、黒い髪に切れ長な目。見るからに仕事ができそうな雰囲気の青年だった。こちらを向くと会釈してくる。

 簡単な自己紹介だけ済ませて、僕たちはすぐに車で移動を始めた。合流した神長という名の友人は、同じ歳だが会社では優月くんの上司にあたるようだ。今は同じプロジェクトチームのリーダーらしい。
「声をかけられたにせよ、よく優月についてきましたね。不安じゃありませんでした?」住宅と畑が交互に並ぶ道で、ハンドルを切りながら神長くんが訊いてきた。

「でもまあ、僕の目的は三崎口駅に来ることだけだったし、優月くんは犯罪者には見えなかったから」冗談めかすと、バックミラーに映る神長くんの目が微かに笑った。
「人は見た目じゃわからないですね」
「俺を犯罪者みたいに言うなよ、神長」
 助手席で風に当たっていた優月くんが口を尖らせる。
「いや、おまえの話じゃなくて、坂巻さんのことだよ」
「僕?」
 今のは一体どういう意味だろう。

 神長くんは油壺の民営駐車場に車を止め、ハッチバックからポップアップ式のテントを取った。僕は場内にある小さな土産屋で、よく冷えたお茶を三本と一緒に、ビーチサンダルを買い、早速履き替えた。店番をしていた、腰の曲がった女性に見送られながら、僕たちは海を目指す。

 レジャーを終えて戻ってきたばかりの、家族の明るい笑い声。じりじりと肌を焼く陽射しと潮の香り。子供の頃は僕もたしか、海に連れて行ってもらうのを楽しみにしていた。懐かしい記憶がじわりと蘇る。

 神長くんが先頭を歩き、そのあとに僕と優月くんが続く。三人揃ってペットボトルの口を切った。
「二時くらいってさ、なんか一番暑く感じるよね」優月くんは一口お茶を含み、すでに傾き始めている太陽を、恨めしそうに見上げた。

「真昼の熱が、大気や地面に伝わる時間だからな」神長くんは当たり前のようにそう言って、熱さから逃れるように俯く。
「なるほど、なんで二時が暑いのかなんて考えたこともなかった」素直に僕が納得すると「俺も」と、優月くんが笑った。

 海へ向かう近道なのか、神長くんは道路を逸れて林の中に入っていく。
 気持ちの良い道だ、木々が屋根のように覆い被さり、どこまでも続いている。小高い場所から海へと、緩やかに坂を下ってゆく感じなのだろうか、枝葉の隙間からときどき覗く海は想像以上に透明だ。
 暑さを倍増させる蝉の声を、吹き抜ける風がさらっていく。僕は大きく息を吸い込んだ。

「もうすぐビーチだよ」
 優月くんは、熱帯魚を見せたくて仕方がないといったようすで僕の腕を掴み、神長くんの前に出る。
 散策路の脇から伸びる石段を、水着姿の少年が駆け上がってきた。その小さな手には、水の滴るスノーケリングマスクが握られている。ここを下るといよいよ海だ。自然と歩みが速くなる。

 階段を下りきると、緩やかな弧を描く海岸に出る。
 海だ。それだけで舞い上がって、波打ち際まで真っ直ぐ進む。湿った砂に足が沈み込む。波が押し寄せる度に、足跡は掻き消されていく。足元ばかりを見ていると「こっちだよ」と優月くんが手招きした。海岸の左手には、波をそのまま刻んだような、不思議な形状の岩場が見える。

 海水浴客が引き上げ始めようとしている中、僕たちは岩場に向かって突き進む。穴あきチーズのように所々が窪んだ岩盤には大小の潮溜まりができていた。
 子どもたちの集まる一角に近寄って、優月くんが僕を呼んだ。潮溜まりの中をじっと見ていると、次々と生き物が見つかる。一センチほどの小魚の群れを目で追っていると、青い魚が現れた。熱帯魚だ。思わず歓声を上げると、しゃがみこんで魚をじっと見つめていた子供たちが、ぱっと顔を上げた。

「さっきあっちにもいたよ!」
 見ず知らずの男の子が、僕を他の潮溜まりへ誘う。迷わずに立ち上がると、優月くんは何故か笑った。
 僕たちは案内された潮溜まりで、黄色い熱帯魚を見ることができた。本当にたくさんいるのだと、驚くばかりだった。

「さっき見た青いのがソラスズメダイ。ここにいる黄色いのがチョウチョウウオっていうんだよ。チョウチョウウオに似たような形をした別の種類もいるかもよ」
 優月くんの言葉に、海面すれすれに顔を寄せていた少年がぱっと立ち上がり、すぐに他の潮溜まりへと向かう。
「おーい! ありがとう」ワンテンポ遅れて僕が呼びかけると、少年は手を振って応えてくれた。

「なんかいいよね、こういうの」
 それが何かははっきりと言わなかったけど、僕には優月くんの言わんとすることがわかる気がした。
「うん」口元が自然と上がる。胸の中が優しい気持ちで満たされている。
「あ、そういえばテントが」
 設営を手伝わなくてはと振り返ったが、神長くんはさっさとテントを張り終えて、着替えまで済ませている。僕たちは慌てて彼の元へと向かう。 

「神長は海のことも色々詳しいよ。ダイバーなんだ」
「へえ」
 それを聞いて納得した。ラッシュガードを着ていてもわかる、引き締まった身体と日に焼けた肌には、確かに海が良く似合う。
「優月くんも魚の種類とか、詳しいんだね。もしかして」
「違うよ、俺の実家が南伊豆なんだ。だから、海はまあ子どもの頃から身近っていうか。そういえば坂巻さんって、潜ったことある?」
「潜るどころか、海に来るのが小学校以来だよ」

「マジで? 海の中ってすごいんだ。俺たちの住んでる世界のこんなにすぐ近くに、もう一つ全く違う世界があるってわかるよ」
「確かにすごいよな。写真で見たことあるけれど」透明な水底を見下ろして僕は言う。
「入ろうよ」
「え?」
「海!」
 呆然とする僕の顔を見て笑い、優月くんはパンツを膝まで捲り上げて、水に足を浸した。

「せっかくだもの、写真じゃわからないパノラマを感じなきゃ。どんなに高性能なカメラだって、人の目には敵わないんだから」
「いや、でも水着が」
 僕は助けを求めるように、こちらに近づいてきた神長くんに視線を向ける。彼はさも可笑しそうに、くっくと笑いを噛み殺している。
「マスク貸します。そこから顔だけつけてみては?」

 神長くんは僕のデイパックを預かる代わりに、自分のマスクを貸してくれた。顔をつけるだけなら、見下ろすのと変わらないのに。そう思いながらもしぶしぶマスクを被って、ストラップの調節をしてもらう。海面と高さが近い岩場まで下り、軽く身を乗り出してみる。熱帯魚らしきヴィヴィッドカラーが、ちらちらと海の中を行き来している。

 肺にたっぷり空気を溜めて、海面に頭を沈めた。緩やかに立つ波が耳元を覆う。人の話し声も、さざなみの音も、蝉の声も、水の膜に覆われる。外からでも見通せると思っていた熱帯魚の海は、信じられないほどクリアに、僕の前に広がっている。鮮やかな色をした魚の群れが、岩場の隅や海藻の合間にゆらゆらと漂う姿は、地上の全てが喧騒に感じるほど穏やかに見えた。

 写真やテレビ、水族館でガラス越しに目にする海の世界に満足して、全てを知った気になっていたけれど、一体この世界の何を知っていたというのだろう。
 神長くんが海の中に潜って、熱帯魚の隠れている場所を教えてくれた。
 僕は顔を上げて何度も息継ぎをしては、海の世界へと舞い戻り、神長くんの指先を追う。この岩場から離れられないことがもどかしかった。

 どぶんと波が立ち、急に視界が泡に包まれた。驚いて身体を起こしたが、服はすでにずぶ濡れだ。僕のすぐ脇から海に飛び込んだのは、先程の少年とその友人たちだ。
 子どもたちは神長くんに近づいていく。神長くんはこのあたりで見られる魚の名前を教えている。慌ててこちらにやってきた母親たちは「すみません」と言いながらも、子どもたちを神長くんに任せている。

 優月くんがタオルを貸してくれた。僕はマスクを外して顔を拭き、手遅れの状態になってしまった服を、タオルで押さえた。
 テントにスマートフォンを取りに戻り、海に浮かぶ子どもたちと神長くんを撮った。どうしようもなく下手くそな写真だったけれど、この気持ちを思い出すための、鍵の代わりになればいい。

 ふと彼らから視線をずらすと、家族や恋人同士、大勢の人たちの、夏の日差しにも負けない笑顔があった。
 久しぶりに、他人の笑顔に触れたように思う。楽しいから笑う。笑うからもっと楽しくなって、幸せを感じる。そこから幸せは伝染するように広がってゆく。きっと僕が思っている以上に人は周りと繋がっている。足りない何かも、愛おしくて抱きしめたくなる何かも、きっといつも僕のすぐ側にあるものなのだ。ここに来て、とても大切なことを思い出せた気がする。

「どうしたの、坂巻さん」
「優月くんがサモアに行こうと思った気持ちが、ちょっとだけわかった気がしたよ」
 心の底から思ったことを口に出すと、優月くんは今日一番の笑顔を返してくれた。


 三崎港に移動を終えた頃には、辺りは暗くなり始めていた。港近くの駐車場に車を止めて、看板を見ながら店を探しているうちに、空腹で胃袋が唸り始めた。このあたり一帯の多くは、主にマグロを扱った海鮮料理屋だ。僕と優月くんは、マグロが食べられるのならどこでもよかったのだが、神長くんがこだわった。六、七分歩いて、赤身だけではなく、皮や胃袋といった珍しい部位を食べさせてくれる店に入った。

 テーブル席について僕と神長くんは即座に注文を決めたが、なかなか絞りきれない優月くんはメニューを持ったまま店員のところに詰めかけていった。
 その間に、僕と神長くんはお茶で乾杯をした。
「すみませんね、落ち着きのないやつで」神長くんは、明らかにメニュー以外の話をして盛り上がっている優月くんに、呆れたような目を向ける。

「優月くんって、いつもこういうかんじ?」
「常に関心のある方へと進んで行きますね。行動を予測するだけ時間の無駄なので、俺は優月の持ってくる結果に対処するだけですが」
「そうなんだ」懐が深いというよりは、器が大きいというべきか。なんというか彼はすごい人だと思う。

「俺は、坂巻さんみたいな人が、優月についてきたことに驚きましたが」
「最初は、いつの間にか行くことになってたって感じだったけど。でも、こうやって何かに巻き込まれると、一人だったら絶対にできない経験ができて面白いね」
「なるほど。じゃあちょうどいいですね」
「ん?」

「優月って行動力がありそうに見えるでしょうけど、単に衝動的なだけで、休日は一日中寝てるようなやつなんですよね。多分、坂巻さんが適当に行き先を決めて、あとは優月の嗅覚で面白い方に進んでいって、俺が舵取りするとちょうどいい」
 神長くんが淡々と言うのがおかしくて、僕はつい笑ってしまった。
「たしかに、それだったら安心して面白いものが見られそうだ」
 普段はちょっと知り合えないようなタイプの人間と出会える。これも一人旅の醍醐味というやつなのか。

「今度またどこか行きますか」
「是非。そういえばサモアに行った話、優月くんから聞いたんだ。あの辺りも海が綺麗そうな場所だよね」
 サモアという言葉が耳に入ったのか、カウンターで店員と話しこんでいた優月くんが席に戻ってきた。
「ねえ、俺のいない間に、なんか面白そうな話してなかった?」
 三人であらためて湯飲みを合わせて乾杯する。

「坂巻さんがサモア行きたいってさ」
 神長くんがさらりと、とんでもないことを言っているのに、優月くんはごく普通に食らいついてきた。
「え、マジで? いつ行く?」
 流されて冗談で「九月の連休あたりなら」と言ってみると、優月くんはスマートフォンに予定を登録し始めた。
「チケットは俺が取りますよ」
 神長くんがその場でフライトを調べ始めたが、それ以前に僕には一つ大きな問題がある。
「パスポート持ってないんだけど」
 一瞬二人は顔を見合わせ、それから笑った。

 話して、食べて、閉店時間直前に店を出た。看板の灯りも落ちて、外はすっかり暗闇に包まれている。潮風が開放感を運ぶのか、ビール一杯すら飲んでいないのに、爽快な気分だった。
 神長くんの自宅がある横須賀中央まで車に乗せてもらい、そこから僕と優月くんは快特電車に乗った。優月くんが窓側の席を取った。僕は当たり前のように、その隣に座る。

「楽しかったね、坂巻さん。何だか今日はあっという間だったよね。集合したのが遅かったからかな?」
 初めから僕が来ることが、予定に組み込まれていたような言い方だったが、自分でもずっと前から二人の知り合いだったような気がするから不思議だった。

 海の世界をもう少し見てみたかったと思う。だけど果たして今後一人で海に入るかというとそれはわからない。優月くんと別れたら、夢から覚めるように情熱が消えてしまいそうで、別れるのが名残惜しくなった。帰宅した後、僕を待っているのは仕事という現実だ。もちろんそれも嫌じゃない。だけど――
「せっかく夢中になれそうなもの、見つけたのになあ」思わず僕はそう口に出していた。

 優月くんは人好きのする優しい笑顔を僕に向けてきた。
「来週また一緒に行く?」
 冗談なのか、それとも真に受けていいのか。嬉しさを感じながら、素直に返事ができないままでいたら「名案を思いついたよ」と、優月くんは言葉を続けた。

「あのさ、金曜仕事終わったら神長の家泊まりに行こうよ。横須賀なら夜は飲めるしさ、海が近いから朝寝坊できるし。楽しそうじゃない?」
「ええと、さっき納期まであと一週間って言ってなかったっけ」
「いつもの倍頑張るから大丈夫! でも終わらなさそうだったら、テスト手伝ってね」

 僕はよっぽど間抜けな顔をしていたのだろう、優月くんは「冗談だって」と、周りの乗客が振り向くほど笑った。誘いを真に受けていいのかなんて、一瞬でも悩んだことが馬鹿らしくなった。よく考えたら、今日だって見ず知らずの僕を引きずって海に連れて行ったくらいなのだから。

「夏のうちに日本でも、スノーケルとかスキンダイビング練習しないとね。だって九月にはサモア行くしさ」
「それ、本気なんだ?」
「え? だって坂巻さんが言い始めたんだよ」
「……そっか。僕が言ったのか」

 そもそもは神長くんの冗談が事の発端だった気がするが、細かいことはもうどうでもよかった。今日のメンバーでサモアの海に行く。これが確定事項だということが、どうしようもなく嬉しかったから。
「なんで笑ってるの、坂巻さん」
「いや、ちょっとね」
 窓ガラスに、街の明かりと僕らの笑顔が重なった。


 カッターシャツの襟元を緩めて、詰めていた息を吐き出した。ビジネススタイルには不釣合いな僕のデイパックには、着替えの他に買ったばかりのスノーケルセット一式が入っている。

 初めて海の世界を覗いてから五日が経つ。僕はあの感動が忘れられずに、インターネットで世界中の海や熱帯魚を夢中になって調べた。そういえば、三浦半島にいる熱帯魚は、冬を越すことができない死滅回遊魚というものらしい。夏の終わりと共にいなくなってしまうのかと思うと、あの美しい彩りに切なささえ感じる。

 快特電車は緩やかに京急川崎駅のホームに入っていく。見覚えのある顔と窓越しにすれ違う。あの日と同じように一度下車すると、優月くんは僕に向かって大きく手を振ってきた。
「まきちゃーん!」
 目の下が殴られたみたいに青くなっている。明日を何が何でも休日にしようと、相当無理をしたようだ。

 少し遅れてスーツ姿の神長くんが来て、僕に向かって会釈する。たった五日ぶりなのに、久しぶりに感じてしまうのは、二人に会いたいと思っていたからなのだろう。
「坂巻さん。三連休だけでもサモアには行けることがわかりました」開口一番に神長くんが真顔で言う。
「片道たったの二十時間! 羽田発、成田着でもいいよね? まきちゃん」
 二人ともきっと疲れすぎて、頭がおかしくなっているのだろう。そう思っていたら、優月くんから予約画面を突きつけられた。

「とりあえず、電車乗ろうか」僕は笑いをこらえながら、二人の肩に手をかける。
 明日はどんな面白いことが起こるだろう。
 夏の夜風が優しく僕の背中を押す。赤い電車の行く先には、僕らの胸を熱くする、七色の未来が待っている。



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