見出し画像

短編小説『Hurtful』 第7話 「時計が読めなくなった杏ちゃん」

第1話前話
昼食を取り終え、銘々がそれぞれ好きなことをやったり、作業療法に出向いたり、外出をしたりする行動的な時間帯に、杏ちゃんが神妙な面持ちで喫煙所に入って来た。
「さとみー。あのね」

「どした?」

「時計が読めなくなった」

今なんて言ったのだろう。

「なにが?」

「なんか今日起きてしばらくしたらね、なんか、腕時計が読めなくなってた」

杏ちゃんはいつも、話を本題から話せる人だった。

「たぶん、昨日は読めてたとおもうんだけどね」

杏ちゃんが身に着けている腕時計を見ると、長い針と短い針があって、秒針があって、という、一般的な普通の腕時計だった。

「ちょっと外してみて」

私の声のほうが慌てふためいて聞こえた。私は杏ちゃんの腕時計に耳を近づけたり、ひっくり返したりしてみたが、特にこれといった仕掛けも複雑さも見当たらなかった。
要するにこの、長い針と短い針と周りに書かれている数字の、理解の仕方が分からないと言うのである。
私はデイルームの壁に掛かっている白い時計を指差して、あれは読める?と聞いてみた。読めない。と言う。

「何時なのか分からない」

杏ちゃんに何が起こったのか、誰にも分らなかった。

時計が読めなくなってから程なくして、また別の異変が起きた。

「さとみー。自販機でジュース買いたいんだけどね」

杏ちゃんは自分の小銭入れを覗きながらお金をチャリチャリいわせた。

「140円って、どのお金で買えばいいの?」

一体、杏ちゃんの身に何が起こったというのだろう。数字の計算も全く出来なくなっていた。


他にも、病棟全体で痛ましいことが起きていた。

まーちゃんという女性患者が居る。
マサ兄が、何を言ったのかまでは知らないが、まーちゃんにとっては嬉しいことを言ってあげたようで、最近まーちゃんは少し元気になっていた。
よくマサ兄のテーブルのほうまで行くようになり、ベッタリ気味であった。この依存を見咎められ、まーちゃんは皆の知らない時間帯に、ひっそりと二階の病棟へ移された。
誰かが、「二階はヤバいんだよ」と言った。

生活保護受給者に関するバッシングをネットで見て以来、おかしくなって入院してきた雪ちゃんという子は、或る日、自分の四人部屋で、誰も居ない時を見計らって、衣類を使って首を吊ろうとした。それを発見され、私物を全て没収されていた。

暗いことばかり続いている。
でもしょうがない。他の何事もない人達は、それにいちいち動揺せず、自己を優先し、むしろ自己のことだけをおもい遣って生活していくしかない。
だけれども私は、杏ちゃんのことだけはどうしても気がかりだった。
時計と数字の計算以外の点ではいつもと変わらず元気であるから、余計に分からなかった。
とにかく、杏ちゃんの主治医の丘先生が病棟に上がってきて彼女を診察する日まで、大人しくしている他なさそうだった。


その日、デイルームの前を、男性看護師にゆっくりと手を引かれながら風呂場まで連れて行かれる登郷さんの姿を、みんなが見ていた。
もうとっくに風呂の時間が終わった夕方だった。
登郷さんは数日前から、隔離室に入れられてしまっていた。今日は男性の入浴日だ。だからこうして時間をずらして、監視のもと一人で風呂に入り、また隔離室に戻されるのだ。

看護師にそっと手を引かれて歩いてきた登郷さんの目は見開かれていた。
突如、どこか知らない場所へ迷い込んでしまったかのような不安そうな眼差しでデイルームを見渡していた。年齢の割には白髪の多い髪の毛と同様の白っぽい髭が、頬にも目立っている。
登郷さんは誰のこともよく分からない様子で、非常に大人しい人物に成り変わってしまっていた。

登郷さんが隔離室に入ることとなった直接の原因は分からないが、あー、この間の、私のあれも、一介してるんだろうなぁ。ということは想像がついた。
「私のあれ」、というのは先週の土曜の出来事であった。


その日、私の彼氏のタイチが面会に来た。
最後に会ったのは入院の前日だったから、だいたい一週間ぶりの再会だった。
携帯は手元に置けないのでメールや電話はできなかった。代わりに、毎日夜の九時くらいに病棟の公衆電話から短い電話をかけるようにしていた。

しかし、せっかく面会に来てもらったのは嬉しいのだが、病院なんてこれといって面白いものは何もないし、個室もひっそりし過ぎていて刑務所のようで、いつも通り話が弾むわけもなく気持ちは盛り下がるばかりで、彼を連れ立ってデイルームのほうまで行き、ほら、あすこに座ってるのは電話でも話した○○よ。とってもファニーなの。とか、これはこうやって使うのよ、面白いでしょう?なんてな気を遣わなければならず勝手が違うとどうもお互い変な感じで、二人で一緒に喫煙所で煙草を吸うくらいしかやることがないのだが、そうするとまーちゃんが扉をスーっと半分開けてきて私に、

「面会の人が、ここで吸うと、怒られるよ」

なんてことを言ってくる。うるさいよ。とおもったが、まーちゃんは担当医の指示で誰からもの面会を禁止されているのだ。まーちゃんに悪気はないんだよなあ。面会に嫉妬くらいするよね。


行き場のない私達が辿り着いたのはケンタッキーフライドチキンだった。

結局、外出届を出してバスで駅まで行き、丁度良い喧騒の中でアイスコーヒーを飲みながら煙草を吸って気楽に話をした。
タイチは、あとでまた病院まで送ると言ってくれた。まだ時間があったので駅前の百貨店につきあってもらい、先日誕生日だった杏ちゃんにあげるハンカチを選んだ。

面会時間は午後五時までだ。
二人で病棟に戻るとまだ二十分程度あったので、デイルームでなんとなく過ごすことにした。
デイルームの椅子に腰掛けようとすると、タイチに興味を持った丹野さんがこちらへやってきて、
「あらあ」
とか、
「あらまあ」、「こりゃ」、と、照れ笑いをしながら話を始めた。

「うちの娘がねぇ、長女もですけどねぇ、特に次女はねぇ」、

「背がねぇ、こーーーーんなに、高いの」

近くに居た由美子さんと何人かが、

「丹野さん、ダメなんだよ。面会に来てるんだから。邪魔しちゃダメなの」

と言ってくれたので、私達はなんとか救出された。

そうこうしているうちに五時になった。看護師に病棟の扉の鍵を開けてもらうための声掛けをややダラダラと行いながら、のそのそと扉に向かった。

看護師は笑顔で、
「気を付けてお帰りくださいね。今日、この時間になってもまだ暑いですもんねぇ」なんて言って鍵をジャラジャラさせていた。

そこへ、登郷さんがぐんぐんこちらへやって来た。
タイチに向って、

「あのねぇ、いま何時ですか?」

と、いきなり聞いた。
タイチは腕時計を見ると、

「いま、五時五分です」

と、朗らかに答えた。

「そうですか」

登郷さんはせかせかと戻っていった。

なんだなんだ、いまの。私はギョっとしつつも、タイチを二重扉越しに見送った。
そして喫煙所に入ると杏ちゃんが、

「さっき登郷さんがね、めっちゃヤバかったよ」

と言ってきた。他の何人かも頷く。どうヤバかったのか訊くと、登郷さんは椅子をガチャーンとかやりつつ、多少暴れ、烈火の如く「あいつらなんなんだよー!」
などと怒鳴って訳の分からないことを言っていたらしい。

要するに、私達が面会時間を過ぎたことが、或いは過ぎそうなことが忌ま忌ましく、気に入らないらしかった。

「時間過ぎてんだろー!」
ガッチャーン。

けれども、それだけ腹が立っていたはずなのに、「今、何時ですか?」と嫌味たっぷりに聞いたは良いが、「今、五時五分です」、「そうですか」ってあっさり帰るのも、あれじゃない?なんと言うか、芸がないんじゃない?
というか五分くらい、いいじゃない。

そういう私絡みの出来事があった訳なのだが、その程度のことなら登郷さんは隔離室行きまでにはならないはずだ。
どうやら他の、決定的なプラスアルファーな何事かをしでかしてしまった後、その合計点数で登郷さんは隔離室に送られてしまったのだろう。
登郷さんに対して、申し訳なくおもわなかった訳でもない。だって、私達が、たった五分、遅れてしまったのだから。


「あの人、覚えてる?」
後日、病棟の公衆電話からタイチに電話をかけた時、登郷さんの件の一連の流れも報告した。

「あぁ。怒ってるなぁっていうのは、時間聞かれた時に分かってたよ」

「あ、分かってたんだ」

「とうごうさんは、とうごうしっちょうしょう」

なんてブラックジョークを言う。笑える。
いや笑えない。
暢気である。

このようにして、病棟ではいろんな出来事が積み重なっていた。
まーちゃんが二階に移されたり、雪ちゃんが未遂をやったり、登郷さんは隔離され、いつにも増して色々な人の不在を感じる日々であった。

鳴宮さんももうここには居なかった。
後で知ったことだが、鳴宮さんの貰い煙草に関するクレームの類が、何人もの患者から看護師の耳に入っていたらしく、鳴宮さんはいつの間にか「治療に専念するため」との名目で、別の病棟に移動させられてしまっていた。
それも、この頃であった。


第8話はこちら

よろしければサポートをお願いします。頂いたサポートで字引を買いたいと思います。ちょっと素敵な絵具も買わせていただきます。 よろしくお願いします。