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不機嫌が通貨になった世界で考えること。

 内田樹が「下流思考」の中で家庭内の通貨は「不機嫌」だと書いている。
 いかに自分は会社で学校で理不尽な目に遭って疲れているか、という主張として不機嫌でいることが有用となる。その結果、家庭の中で自分こそがもっとも家族に貢献していると態度で示すことができる。
 というのが簡単な要約になる。

 この不機嫌の通貨は今や社会全体に浸透して、如何に不機嫌で損をしているかを伝えることで如何に自分たちが社会に貢献しているか(あるいは、損害を被っているか)を示すゲームになっているように見える。
 少なくとも僕は。

 ということで、僕は基本的にX(旧Twitter)で不機嫌な感情と共に社会に物申すタイプの言説には、どんな内容であれ警戒してしまう。
 これは会社でも同様で、自分が如何に仕事をしているかは不機嫌や疲れのパフォーマンスをすることで表現する人がいる。自分は会社に雇われたから仕方なく出社してますし、働いているんですから、もっと私(僕)が機嫌よくいれる場所にしてください。
 そんな風に振る舞っているように見えた時、僕はやっぱり(実際は違ったとしても)警戒する。

 自分の快、不快という感情で他人をコントロールしようとする人間に僕は品を感じない。けれど、もちろん大人なので、苦手と思うだけで対応はするし、何なら話も聞くし、関係性があるならば飲みに誘ったりもする。X(旧Twitter)においても、言い方には眉をひそめるものであっても有意義な提言をしているかと思って読む。

 などと書くと、じゃあお前は常に機嫌が良いんだろうなと内なる自分が言ってくる。当然、僕も不機嫌になることはあるし、精神的に安定した人間だとは言い難い。
 ただ、不機嫌という態度で他人をコントロールすることはしない。妻と生活をしていく中でも、何かをお願いする時やルールを作る時は色々整理してから話すようにしている。

 そのため、僕は何か気にかかったことがあっても、その場では言わない。というか、言えない。作家の平野啓一郎がインタビューで言っていたうろ覚えの記憶だが、人はちゃんと聞く姿勢になってくれれば話を聞いてくれる、みたいなことを語っていた。
 当たり前のことのように聞こえるけれど、往々にして話し合いが上手く行っていない人たちは相手がちゃんと話を聞く姿勢になっているか、という確認が甘いように僕には見える。また、自分の感情や理屈を優先しすぎている感も否めない。
 相手が受け止める準備ができていない時にマシンガンのように自分だけ言いたいことを言っても相手に正しくは伝わらない。

 さて、話を戻す。現在僕の職場はこの誰が最も被害を被って理不尽になっているか、という椅子取りゲームが開催されている。僕はこの手のゲームに参加しないので、彼らの不快を取り除く側に回されている。
 みんな世界の中心は自分なんだと改めて思う。そんな日々の中で、理不尽の通貨について考えていて、一つの結論にたどり着いた。

 不機嫌を通貨として振り回す人は(少なくとも僕の職場の人は)他人と思ったようにコミュニケーションが取れていない。この自分が思ったコミュニケーションができないから、不機嫌で思い通りに他人を動かそうとしている(ように僕には見えた)。
 これは逆に言えば、コミュニケーション能力を高めれば不機嫌にならずに済むという話なのではないか、と思った。自分が思っていること、伝えたいことを正確に伝える能力を身につければ、不機嫌になるというまどろっこしいやり方をせずに済むんじゃないだろうか。

 つまり、先ほども書いたけれど、「相手が受け止める準備ができていない時にマシンガンのように自分だけ言いたいことを言わない」とか、そういう当たり前のことを身につける。
 いや、まぁそんな真っ当な選択肢を取れるなら、そもそも他人を不機嫌でコントロールしようとしていないのかも知れない。
 ただ、他人にこの人は自分の思い通りにならなかったら不機嫌になって場をコントロールする人とて接し続けられるのも不毛なのではないか、と思わないでもない次第です。はい。

 

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