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日記 2020年4月 一人ぼっちで寒くて、暗くて、誰もいない森の中で。

 4月26日(日)

 ツイッターのトレンドにナインティナインの岡村隆史の名前があった。記事を読むとラジオで「新型コロナウイルスの影響で仕事もなくなり、女性が貧困に陥り、性を商品化して売らなければならないことを「コロナが収束したら絶対面白いことある」と表現」したらしい。
 オードリーの若林正恭がラジオで「時代にチャンネルを合わせろ」とよく春日に言っているけれど、それ以前の問題が岡村隆史にはある気がする。
 思いつくのは内田樹の本の内容だった。
「どうして人を殺してはいけないのですか?」と問う中学生は「自分が殺される側におかれる可能性」を勘定に入れていない、というもの。
 岡村隆史は自分が仕事がなくなり、貧困に陥る可能性を勘定に入れていない。そして、ラジオのリスナーにもそのような貧困に陥った人間がいると考慮していない。
 僕は仕事を失ってはいないけれど、毎日の通勤電車に乗る時は少し緊張している。
 日曜日の夜、職場からの帰り道にサイレンを鳴らしていないパトカーと数台すれ違う。これにも緊張する。
 息苦しい重い空気を引きずるような日々だ。
 とは言え、僕は岡村隆史のラジオを聞いていない。
 怒れる立場にある訳ではない。
 当事者ではないグレーな場所に僕はいる。

 4月27日(月)

 平日になった途端、電車の乗車率が増えるのには毎回ぎょっとする。
 職場へ行っても相変わらず仕事がない。その上、席が離れているので同期や後輩と気軽に喋ることもできない。
 物理的な距離もあって、僕は口を開く数が減り、いざ何か喋ろうとしても頭に何も浮かばなくなってきた。良くないなぁと思いつつ、小説に関して書きたいことがふつふつと湧いてくるのが分かった。
 仕事が終わって部屋に戻り、カクヨムで毎週水曜日に更新しているエッセイを書かないといけないのに、小説を書く。

『 この世界に神様がいるとすれば、それはテレビの中にいた。
 ある時期のテレビは現実から離れ、世界のむこう側としてあった。こちら側にいる人間が神様の仲間入りしたくて、何人もの人がブラウン管テレビの裏側にまわったそうだ。
 むこう側とこちら側の、言い換えるなら非現実と現実の中間がブラウン管のテレビの裏側にはあった。
 けれど、時が進んだ今、テレビは薄く平べったい画面になってしまったし、テレビの向こう側も地続きの現実だと、誰もが知っている。
 むこう側には神様なんていなかった。
 言葉にすれば簡単だ。
 しかし、ある時期にむこう側の世界に魅了され、ブラウン管テレビの裏側にまわった人たちは、神様がいると思っていた。
 その信仰は本物だった。
 信じれば、神様は存在していた。
 物心ついた頃に見たテレビはすでに薄型へと切り替わっていた僕にも神様はいた。
 それは姉だった。
 僕が中学一年の時に亡くなった、十五歳で高校生になったばかりの姉。
 川で溺れた子どもを助けようとして、亡くなった姉。
 僕にとって姉こそが神様だった。
 姉がむこう側へ行ったと聞かされた時、僕はそれを上手く信じられなかった。この世界のどこかには、むこう側へ行く為の扉があるんじゃないか?
 それは姉の後を追って死んでしまいたいという意味ではなかった。
 ただ、僕は姉に会いたかった。それだけだった。
 姉を探して彷徨っていた頃の僕はまさにブラウン管テレビの裏側にいて、非現実と現実の中間を歩いていた。
 そんな僕をこちら側、現実へと引き戻してくれたのはMR2という車だった。MR2は僕を轢いた。
 とはいえ、かすった程度で、地面に転んだくらいの傷だった。
 それでも入院を余儀なくされたのは僕自身が精神的に曖昧だったからだ。
 病院のベッドの上で、僕は姉が確実にむこう側へ行って、もう会うことができないのだと知った。
 テレビは画面の向こう側も地続きの現実だったけれど、姉の行ってしまった、むこう側は決して地続きではなかった。 』

 カクヨムの短編とエッセイにコメントをいただいていたので、返信したら、もう寝ないといけない時間だった。
 事切れたように眠った。最近、すごく疲れやすい気がする。

 4月28日(火)

 疲れているのか、慣れないのか分からないけれど、今日も職場の人たちと上手く会話をすることができない。
 というより、僕は何を喋れば良いのかを見失っている。
 どうしたものか、と考えていると後輩が「明日、俺が作曲した曲が発売されるんです。初めて、自分が音楽やっている時の名前がクレジットされるんです」とのこと。
 それはめちゃくちゃ良い話じゃん。
 おめでとう、と言って、作曲した曲名を教えてもらう。
 エゴサすんの? と聞いたところ、明日しますと答えたあと「なんか、今調べたらラジオで流れたらしくて、ツイッターに情報でてました」とのこと。
 へぇ。
 というか、今我々は仕事中なのでは? と思ったけれど、良かったじゃんと言う。
 帰り道、やっぱり上手く喋れなかったなぁと考えつつ、伊集院光のラジオを聞いて、僕は今フリートークとして話せるネタが一切ない状態だと気づく。
 僕は僕の話を面白おかしく喋れるようにしておくべきなんだと、改めて考える。
 そこで気づいたのだが、僕は小説やエッセイを書いていることを職場の人に言っていない。数年前からなんとなく言わないと決めたのだけれど、最近僕が考えていることは小説とエッセイのことしかないので、フリートークで語れることがないのは当然だった。
 けれど、小説やエッセイのことを職場の人と話したいとも思わない。ジレンマだ。
 部屋に帰って水曜日に更新するエッセイを書く。
 今回のエッセイで毎週更新していたのを、一端やめて不定期更新に変える。二年間、毎週エッセイを書いていたんだと思うと、ずいぶん続けたなぁと声がでた。
 一応の区切りなので、まとめのような話にしようと考え、3.11の出来事が契機になって書かれた池澤夏樹の「双頭の舟」に関して高橋源一郎と対談した内容を引用しつつ、書く。

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 話の流れ的に引用できなかった部分があったのでコチラに。

 池澤 「なかったことにしよう」という便利な言葉があるけれど、しつこくしがみついて、それは「なかったことに出来ない。あったし、今もあるのだ」と言い続けなければいけない。
 
 今、新型コロナウィルス関係で色んなことが起っているけれど、それが収まった後に「(都合の悪いことを)なかったことにしよう」という便利な言葉に飲み込まれたくはない。
 僕たちが体験し、今感じていることは、一年後も十年後も「なかったことに出来ないし、時間が経ってもあるのだ」と言い続けなければいけない部分もあるのだと思う。
 それは正直しんどいことではあるけれど。

 4月29日(水)

 休日だった。
 朝、九時過ぎに起きて朝食を食べて、昨日書いたエッセイのチェックをしてカクヨムに予約投稿する。


 その後、洗濯して、掃除をして、近所のスーパーへ買い物へ行く。夜の二十時にスーパーが閉まるようになったので、買い溜めをしようと思ったけれど、お米を買わないといけなかった為、大量に買うのは断念してカレーの具材を買った。
 ゴールデンウィークが始まれば、また買い物へ行けるだろうと楽観的な判断だった。
 部屋に帰ってきて、洗濯できた服を干して、カレーを作って昼寝をした。
 休日の昼寝が、今のところの生活で一番気持ちよくて心地いいものだった。
 夕方に目覚める。カレーを温めて、劇場版の「フリクリ オルタナ」と「フリクリ プログレ」を見る。オルタナは絡まったイヤホン、プログレは外せないヘッドフォンが印象的だった。あとは、やりたいことは分かるけれど、ただOVA版の「フリクリ」らしさをなぞっているだけ、という印象を持った。

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 二つのフリクリを見ている間にカクヨム内の小説やエッセイにコメントを下さる方が複数いて、大変ありがたい。
 その中でも「西日の中でワルツを踊れ」という小説のコメントで「泣き声が聞こえてくるほど、リアルでした。怖いんだけど、なぜか美しい場面です。一番好きなシーンです」と言っていただく。
 本当に嬉しい。
「西日の中でワルツを踊れ」の後半に殺人を犯した人間が語るシーンがあり、そこでのコメントだった。


 コメントへの感謝の旨の返信をする。一人の方が連続でコメントを書いて下さったのもあって、八つのコメントに返信をした。
 有難い。
 その後、カクヨム内の近況ノートでエッセイを今週から不定期連載にする報告をした。
 最近のトピックスを幾つか書いて行く中で、メディアワークス文庫の新刊「父親を名乗るおっさん2人と私が暮らした3ヶ月について」という作品が面白そうだと書く。
 著者は瀬那和章という方で存じ上げなかったので、本屋が開いたら確認してみたいと思う。

 4月30日(木)

 朝、シャワーを浴びた時にシャンプーとリンスをし忘れた。
 毎日、シャンプーをすると禿げやすいというネット情報を読んだことがあったので、まぁ良いかと思って仕事へ向かったのだが、髪がまとまらなくて不快だった。
 ついでに身体が疲れている気がして、昼過ぎから胃腸炎のような症状まで出てくる。
 踏んだり蹴ったりだなぁと思いつつ、こまめに水を飲む。
 原因はおそらく昨日まで週一で更新していたカクヨムのエッセイで、二年間続けた緊張感がとけたんだろうなぁと思う。
 長編小説を書く度に体調を崩していたのを思い出す。
 不憫な身体だなぁ。
 ジムとかで身体を鍛えるべきなのかなぁ。
 と考えていた帰宅途中にスマホを開くと、カクヨムでしばらく休むとおっしゃっていた方から「noteを読んで、ちゃんとお伝えしなければと思って」とコメントをいただく。
 昨日、カクヨムの近況ノートという場で、noteをはじめた旨の内容を書いていて、それを読んで下さったみたいだった。
 カクヨムをしばらくお休みすると、ツイッターでDMをいただき、その後にツイッターのアカウントを消されていたので、個人的な連絡をいただけるとは思っていなくてビックリした。
 同時に近況ノートにnoteをはじめたと書いたら読んで下さることは予想できたので、我ながら迂闊なことをしてしまったと反省した。
 その時点で胃腸炎の症状は不思議と消えていた。
 理由や事情についてはインターネットのあれこれを使用して窺った。
 小説やエッセイを書いていると、こんなに嬉しい言葉に出会えるんだなぁ、とじんっとした気持ちになった。

 村上春樹の「ノルウェイの森」の中で直子がビートルズの『ノルウェイの森』を聞くと「自分が深い森の中で迷っているような気になる」と言っている。
「一人ぼっちで寒くて、そして暗くって、誰も助けに来てくれなくて」とも。
 僕は、小説やエッセイを書いていると深い森の中を彷徨い歩いているような錯覚に陥ることがある。
 その森の奥深くに進めば進むほど、小説やエッセイの深みも増していくから、良いもの、満足するものを書こうとする度に、寒くて暗くて、誰も助けに来てくれない場所へと進まなくてはいけなくなってくる。
 今回、カクヨムをお休みをされていた方はそんな森の中で知り合って、小さな電球を木の枝なんかに吊るして灯し、一緒にお茶に付き合ってくださるような方だったと実感した。
 本当に御守りのような人だ。
 そういう人と出会えたことは本当に幸運だったと思う。


 世間のニュース的には、緊急事態宣言が一ヶ月延長されるとあった。
 僕の中途半端な仕事内容も継続されるのかなと思うと、少し気が重たいような、自由な時間が与えられているような曖昧な気持ちになる。
 緊急事態宣言になってから、僕の職場はお菓子を食べるのがオッケーになった。毎日ハロウィンみたいにチョコレートや飴をもらう。
 一番、感動したのはハッピーターンのちょっと高いやつ。
 あれ本当に美味しい。
 今度、お返しを買っていかなければと思いつつ、緊急事態宣言によって、徐々に太っていく気もしている。

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さとくら
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