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【対談】人生を狂わす実写化映画の地図 2010-2020 「2010年を語る」中編。

前回はこちらです。

【2010年 実写化映画】郷倉四季が気になった作品。

『郷倉』

 ちなみに、シーサイドモーテルをyoutubeで調べてみると、
映画『シーサイドモーテル』男だらけの顔だしコメンタリー
 という動画でてきて、メンツが山田孝之玉山鉄二古田太池田鉄洋で、酒を飲みながらコメンタリーをするような内容でした。

 そういう企画から見るにターゲット層は決して十代や学生ではなかったようですね。
 では、まとめたいと思いますが、倉木さんの2010年のベスト作品は何になりますでしょうか?

『倉木』

 シーサイドモーテルがベスト作品かな。あくまで現時点では、です。

 てなわけで、こっちからも質問させてや。
 質問というか、僕への質問内容をそっくりそのまま答えてほしい。
 解答をきく中で、見たくなってベスト作品が変わるやもしれん。

 あと、オフレコでワーストきめたいなぁ。

『郷倉』

 はい、なんでも答えますよ。

『倉木』

 じゃあ、語ってください。
 司会が絶望的なまでに投げやりw

『郷倉』

 ワーストの話がでましたので、その話をしたいと思います。
 と言っても好き嫌いとは別で、この対談では語るべきことが少ない作品、という意味でのワーストになります。

 なんて前口上で言い訳している僕、ダサいなぁ。
 まぁいいか。

 個人的なワーストは「BECK」になります。
 もちろん、褒めるところがない作品ではないし、佐藤健が主演しているので、「るろうに剣心」の流れを説明する上では重要な作品だとも考えました。

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 ただ、どうしても「BECK」のラストシーンが引っ掛かり、ワーストとさせていただきました。見たことのある人は分かると思うのですが、ラストで佐藤健が大勢の観客の前で歌うシーンがあって、そこで声を入れずに雰囲気だけで、なんか凄いっぽい歌声が響いているらしい、という演出をしました。

 2021年、現在から振り返れば「ボヘミアン・ラプソディ(2018年)」という圧倒的なライブシーンによって、感動を生みだした映画があります。
 あの感動的なライブシーンを見たくて、何度も映画館を訪れた方もいました。もちろん、クイーンの楽曲が素晴しく、物語もクイーンの伝記的な内容です。
 歴史的な凄味がそこに潜んでいるのは確かです。

 しかし、それでもライブシーンで声を削る、という演出は肩透かしを食らってしまう印象が強かったです。
 これは同年の「ソラニン」にも少々言える点ではあるのですが、この時期の漫画原作の実写映画は総じて原作ファンを怒らせない為の作品作りをしている印象があります。
 おどおどしている、というか、必要以上に失敗を恐れてしまっている感じです。

 いやまぁ、映画って僕が考える以上に大きなお金が動いているので、原作ファンを怒らせず、失敗しない為に慎重になってしまうのも分かると言えば、分かるんですけれども。

『倉木』

 少しおどおどしてる印象って、わかるで!
 なんか、ターゲットを絞ってなくてふわふわしてる。

『郷倉』

 そうなんですよね。
 ただ、このおどおどした態度によって、成功した作品もあって、それが「君に届け」だと思っています。

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 とはいえ、「君に届け」の重要性は、2021年から振り返れば、なにを置いても主演が三浦春馬で風早くんという爽やかで、学年で男女問わず人気者を演じている部分だと思います。
 まずは、そこから話をさせてください。

 あえて言及することでもないかも知れませんが、2020年に三浦春馬は亡くなりました。
 三浦春馬はとても優れた俳優であり、「君に届け」でも彼の素晴しい点は存分に味わうことが可能です。
 風早くんは人気者ですが、決して王子様のような完璧性を持った少年ではありません。等身大の少年が人気者であるだけです。その為、彼は少年らしい失敗や後悔をします。

「君に届け」は少女漫画が原作で、女の子向けに作られていることは間違いありませんが、デートで男の子が興味はないけど「君に届け」を見た時に、密かに心に刺さるような作りがさりげなくされている作品でもあります。

 そうした男の子の心を動かすキャラクターになっているのは、三浦春馬の情けなさと人気者ゆえのイケメン的な行動力のバランスを絶妙に演じきっているからかと思われます。
 同時に、娘に原作が好きだから行こう誘われて、しぶしぶ行った父親も刺さるような設定が「君に届け」には施されています。

 というのも、実写版の「君に届け」には原作にはなかった設定として、爽子(ヒロイン)のお父さんが「市民交響楽団のシンバル奏者を務めている」ことになっていて、映画はそのお父さんが演奏会の直前に爽子が生まれたと知らされたところから始まります。

 後半で、爽子がお父さんと風早くんのどちらかを選ばないといけない、という展開になり、そこでお父さんが爽子の背中を押したりもしています。親離れ、と言うよりは、父親の子離れがさりげなく描かれていて、その時の爽子のお父さん役、勝村政信の演技は素晴しいです。

 というような形で、「君に届け」は女の子だけではなく、少女漫画は読まない層にも見て何かを持って帰ってもらえるように工夫された映画でした。
 その結果、弱くなってしまった点もありますが、おどおどした態度を逆手に取ったような部分もあって、個人的に好感が持てます。

『倉木』

 君に届けって、何年の映画?

『郷倉』

 2010年です。

『倉木』

 まぁ、若干みたくはなってきたなぁ。君に届けは。

 そもそも、少女漫画原作って、内容よりも女優に目がいくんよな。
 これは失礼ながらも、当時の漫画原作全般にいえるんやけど、内容を期待していないから、出演者でみるかどうかを判断してしまう。

 僕の場合、桐谷美玲が出てるから見ようってレンタルした漫画原作映画がいくつかある。
 僕が女として育ってたら、ジャニーズが出てるから見ようってなったんかもしれん。

 ふと考えると、漫画原作×美男美女って形の作品も多いんかもね。
 映画の質が下がったとしても、とっかかりやすい形ではあるから。

 そういう入り口からみていって、説明してもらった君に届けのような作品ならば、見る価値が絶対あるもんね。

『郷倉』

「君に届け」にご興味を持ってもらった上で、大変恐縮ですが、ここから悪い面について書き、「大奥〈男女逆転〉」にも触れて行ければと思います。

 倉木さんが自分を女性だった場合の話をしてくださいましたが、もし、僕が女の性で生まれていて「君に届け」が好きで、実写版の映画を見に行ったのなら、酷評していたと思います。

 理由は幾つかあるのですが、大前提として実写映画は「君に届け」の原作を好きな人向けには作られていないんです。
 原作の「君に届け」が多くの女性読者に響き、共感された点は北海道の片田舎の高校の教室で孤立した爽子が友達を作っていき、徐々にクラスメイトの一員としてなって行く過程でした。

 実写映画はそれをまったく描いていない訳ではありませんが、省略された部分があり、とくに爽子と友達になる矢野あやね吉田千鶴と徐々に交流を深めていく流れや、ライバル役の胡桃沢梅との微妙な関係は、「君に届け」の原作を読んで楽しんでいた十代の女の子から見れば、おざなりに見えたことでしょう。
 そして、それは仕方がなかったように思います。

 というのも、実写映画の「君に届け」が上映された2010年の一年前にアニメ版の「君に届け」がテレビで放送されており、この出来は原作を読んでいる層も大満足なものになっていました。
 音、演出、作画、全てが高水準であり「君に届け」を布教するのなら、実写映画版ではなく、アニメ版を勧める、と思った原作好きは少なからずいたのではないか、と予想します。

 僕は「君に届け」の原作ファンである為に、今回このような評価になるのですが、一歩引いて改めて、実写映画を見ると原作やアニメとの差異を図り、あくまで風早くんと爽子のラブストーリーに徹している、という点で見る価値がある作品なのは間違いありません。
 最後に実写映画版のキャッチコピーを紹介させてください。

簡単になんて伝えられない。本当に、本当に大切な気持ちだから。」「本当に大切な想いは、ゆっくりと伝えればいい。

【2010年 実写化映画】女の子だから、男の子だから、を押し付ける映画。

『倉木』

 原作の面白いところを削ったら、原作ファンは嫌うよなぁ。

 映画は尺との戦いでもあるので、物書きが参考にできる部分がそこにもあるね。

 たとえば、どっかの新人賞向けに作品を書こうとする。プロット段階で応募規定枚数をこえるのがわかったり、書ききってからわかったりする。
 その段階で、ストーリーラインの筋を通しつつ、テーマをぶれさせず削る方法が、漫画原作の映画には隠れているのかもしれない。

 もっとも、2010年頃までは反面教師にすべき作品のほうが多そうやけどね。

『郷倉』

 今回、漫画原作の実写映画を立て続けに見ていて思ったのですが、漫画の実写映画って誰をターゲットにして作っているのか、という部分が結構大事に思います。

 昔、倉木さんと僕が通っていた学校でもあった授業で、新聞の記事を読んで、四行くらいにまとめる、っていうのがあったのを覚えています。
 それとまったく同じとは言いませんが、長い物語やエピソードを如何に抽出するか、というのが漫画の実写映画には必要な気がします。

 最近、年表を作る方法論や歴史を如何に語るか、という解説動画みたいなものを見ていて、そこで重要なことは「何を語るかではなくて、何を語らないか」なんだそうです。

 例えば、漫画の歴史を語ろうとする時に、必ず入るだろうビッグネームが年表に入っていない場合、そのビッグネームを外すことで見えてくる漫画の歴史というものを語ろうとしているんだ、という意味を汲み取ることができます。
 だから、「君に届け」は女の子同士の友情やライバル関係に深く踏み込まず、あくまで女の子と男の子のラブストーリーをメインにした作品だと理解することができます。

 なぜ、女の子同士の友情やライバル関係を深く描かなかったのか?
 という問いは愚問で、大前提として、それを描こうとしていない作品なんですよね。
 僕はそういう取捨選択を評価します。

『倉木』

 本日、引っ越しが終わりました。

 ネットが繋がっていないので、レンタルビデオを借りてきたんやけど、かぐやさま借りようとして、やめたところでした。

 コンフィデンスマンJPは、くそおもろいけど、カイジファイナルが、うんこで引っ越しの片付けがはかどってらぁ。

『郷倉』

 お引越し、おめでとうございます!
 奥様のツイッターで、そろそろ引っ越しって言っているなぁ、と思っておりました。笑

 コンフィデンスマンは皆、面白いって言いますよね!
 先週、カイジ2を見て、ギャンブルものと言うより人情ものに寄せていて、うーんとはなっていました。

 お引越し後で、バタバタしている最中だと思いますが、つらつらと僕の2010年の好きな映画について語らせていただきます。

 2010年の僕の推しの映画「大奥〈男女逆転〉」について触れたいと思いますが、少しだけ「君に届け」を含む少女漫画原作の実写映画の話をさせてください。
 少女漫画原作の実写映画のヒロインの両親は時折「女の子なんだから」という台詞を口にします。
 女の子なんだから、××をしちゃだめ。
 女の子なんだから、××したいよね。

 これらは実際の娘を持った親は常々口にする台詞なのかも知れませんが、あえて実写映画でその手の台詞を採用している点には「模範的な女の子の姿」を描こうとしているようにも見えます。
 実際、実写映画版の「君に届け」の爽子は模範的な優等生な生徒であり、親から見ても理想的な娘でもありました。

 女の子であれば、こうでなければならないですよ。
 と暗に押し付けてしまっているような印象があります。
 そして、その女の子は、こうでなければならない、という押し付けは「女の子」にだけ発動するものではありません。

男の子であれば、こうでなければならないですよ
 そう暗に押し付けるような物語もあります。
 そして、それが「大奥〈男女逆転〉」です。原作は、「きのう何食べた?」のよしながふみで、副題の〈男女逆転〉とあるように、あるSF設定が定められています。

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 ウィキペディアの内容を引用すると以下になります。

 江戸時代の日本で、赤面疱瘡(あかづらほうそう)という若い男性だけがかかる架空の疫病によって男性の数が激減したため、社会の運営が女性を中心としたものとなってゆく……という設定で、男女の逆転した江戸時代の社会を大奥を中心に描いている。

 主演は二宮和也です。
 演じている水野祐之進は「武士道を極める一本気な青年」になり、「武士の家だが若い男性が少なくなった現代ではすっかり困窮してしまい、両親と姉のため、そしてお信との叶わぬ恋を断ち切るために大奥に入る」人物です。

 貧乏だけれど武士の魂は忘れず、それを貫くため大奥に蔓延する空気を変えていく、という朝ドラ的な展開が中盤では描かれます。
 本当に理想の男の子とは、こういうことを言うんだな、と頷かせてくれるキャラクターとなっています。
 とくに幼馴染のお信堀北真希)を一途に思っている部分なんて最高です。

 もっと言えば、ネタバレが含みますが、ラストで水野(二宮和也)が徳川吉宗柴咲コウ)と夜を共にする時、一つのお願いをします。
 それが、徳川吉宗を幼馴染のお信と呼びながら、夜の行為をしても良いか? というものでした。

 徳川吉宗は徳川八代目将軍で、最初に夜の行為をした男は、将軍を傷つけた(傷ものにした、みたいな表現だったかな?)ということで、罪人として処刑されることが決まっていました。
 つまり、水野は吉宗と行為に及んだ後、死ぬのだと分かっていて、一つのお願いとして吉宗をお信と呼ぶことをお願いします。この時、水野は大奥に入っても、お信のことを忘れられず、一途に思い続けていたんだ、ということが分かります。

 お信は水野がそこまで自分のことを想ってくれている、なんて知ることはありません。この構図は見事なまでに少女漫画的です。ちょっと美しすぎるくらいです。

 そう言えば、堀北真希は「野ブタ。をプロデュース」で演じた役も少女漫画の主人公的な立ち位置でしたね。

 倉木さんは堀北真希がお好きだったと記憶していましたが、どういう部分がお好きなのかは、聞かずに来てしまったような気がします。
 よろしければ、今度教えてください。

『倉木』

 堀北真希に関しては、きちんと意見をまとめてから、いずれどこかで語ります。もっとも、彼女自身が出演している漫画原作映画はこれから先あるんかいな? なかったら、同じ匂いを感じて好きになった女優の浜辺美波と共に話す感じになるかな。
 まとまってない状態でひとこと話すならば、透明なのか黒なのかわからない女優が好きなんですよ。
 堀北真希も浜辺美波も、宣伝で出てきた番組では透明のように感じた。
 透明だからこそ、色んな役を演じ分けられる。だが、そういう風に感じるのは僕の勘違いで、なにものにも染まらない黒のような役者なのかもしれないとも感じるわけで。それがわかるまで見届けたい、応援したいって気持ちがある。

 うーん、やっぱり考えがまとまってねぇな。
 ちなみに、平手友梨奈も透明なのか黒なのかってわからない女優になれるポテンシャルはあるはずなのに。キャスティングがよくないなぁ。意外となんでも出来る気がするよ。さんかく窓の外側は夜で、一部ではまり役みたいに言われているのに気づかぬまま、舞台挨拶みたいなところで、自分と共通点がない役だったという発言をしてるからなぁ。


 さてさて、どうでもいいかもしれんけど「カイジ ファイナルゲーム」見終わった。
 回を重ねるごとに面白くなくなり、同じジャンルとしたら、2010年のライアーゲーム以下やな。ゲームのルールに、穴があってもなくても、つまらんゲームって結論は覆りようがないで。

【2010年 実写化映画】生々しい現実を描くことはエンターテイメントになるのか。

『郷倉』

 カイジってビッグタイトルですし、藤原竜也がはまり役で、ぱっと見は失敗のしようのない作品な気がするんですけど。
「カイジ ファイナルゲーム」の評価は上映当初から低かった印象です。
 何がいけなかったのか……
 また、質問やツッコミがあれば、後からまとめてしていただくとして、続きの話を投下します。

 僕は「大奥〈男女逆転〉」を模範的な男の子(あるいは、理想的な男の子)を描いた物語だと位置づけました。
 しかし、この映画の副題は〈男女逆転〉であり、大奥の本来の物語は水野祐之進(二宮和也)が女性であり、徳川吉宗(柴咲コウ)が男性であったはずなんです。

 この男女の役割の逆転によって、男性と女性の違いを浮き彫りにさせようとした作品が「大奥〈男女逆転〉」だったようにも見れます。
 その為、2010年に僕がもっとも優れていると思う作品は「大奥〈男女逆転〉」になります。

 ただ、模範的な、あるいは理想的な男の子を描いていた、という言説によって、際立てられる作品があります。
 模範的な男の子、女の子の物語のほぼ全ての逆をやった物語、それが「ボーイズ・オン・ザ・ラン」だったんだと僕は思っているんです。

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「ボーイズ・オン・ザ・ラン」を初めて見た時、倉木さんも近くにいました。
 覚えていますか?
 僕らが同じ教室で授業を受けていた頃のことです。ある先生が、「最近、見た映画でめちゃくちゃ面白い作品があったから、今日はこれを流す。授業じゃない。ただ、俺が好きだから見せるんだ」みたいことを言って、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」を流したんですよね。
 つまり、その時に出席していたクラスメイトは全員、その映画を見たんですよね。

 あの映画を二十歳になっていない子たちもいる教室の中で流そうと思った、あの先生が僕は好きで仕方がありません。
 そんな「ボーイズ・オン・ザ・ラン」のあらすじをウィキペディアで調べると以下のように出てきました。

 妄想ばかりの三十路目前である超等身大ダメ男・田西敏行・27歳は玩具を取り扱う会社に勤務している平凡な青年。職場の飲み会で憧れの後輩・植村ちはると初めて話をし、二人の仲は徐々に進展していくが、残酷で不条理な現実の前に翻弄される。

 僕が今回、注目したいのは「残酷で不条理な現実」という点です。

 当時、倉木さんと共通の友人Yが「トイレに向かって主人公がオナニーするシーンで、トイレットペーパーでちんこを包んではやらんくないですか?」と言っていました。
 どういうツッコミなんだ? って思ったんですが、倉木さんは「映画の演出上、ああいう見せ方しかなかったんじゃない?」と言っていて、(おそらく)二十歳にもまだなっていなかった僕(郷倉)は、凄い話をしているぜ、って内心で呟いたのを今でも覚えています。

 また、ヒロインに関して倉木さんが「付き合った男が悪かっただけで、あの子は純粋な良い子だと思うよ」と言っていたのも印象に残っています。

 ちなみに、ウィキペディアにて著者は「ボーイズ・オン・ザ・ラン」は実話を元に描いたとインタビューで答えているようです。
 では、この残酷で理不尽な現実とはなんでしょうか?

 それは「好きな女子社員に告白できず、誤解に基づいて破局し、寝取られ、避妊手術に立ち会い、恋敵とケンカして負けるという展開」です。
 しかも、恋敵と喧嘩に向かう最中で入ったトイレで、恋敵の同僚と思われる男が、主人公の好きな女の子にフェラチオをしてもらった、というような立ち話を聞かされる、という地獄な展開。

 更に恋敵とケンカして負けた後、ヒロインが主人公に近付いてきての第一声が「○×くん(恋敵の名前)は無事?」という問いであり、主人公が恋敵の同僚にまでフェラチオをしたなら、自分にもしてくれ、と言う訳の分からないお願いに「うん、頑張る」と言われてしまい、そういうことじゃねーんだよ、とヒロインを突き飛ばして一人で走っていく、というのが「ボーイズ・オン・ザ・ラン」な訳です。

 ここには「愛を信じて頑張っていれば、必ず報われる」というような漫画的、物語的なご都合主義は一切なく、模範的(理想的)な男の子も、模範的(理想的)な女の子も存在しない、ただの生々しい現実があるだけです。

 映画とはエンターテイメントであり、人を楽しませるコンテンツだと言われています。
「ボーイズ・オン・ザ・ラン」は要素だけ見れば、決して人を楽しませられるものではありません。男の子は当然のようにトイレでオナニーをしますし、女の子は好きな男のためなら知らない男にフェラチオをします。
 見るからの悪役に挑んでも当然のように負けますし、挑んだことを誰も評価してくれません。

 けれど、これが面白い映画だよ、とわざわざ教室で上映する先生がいました。
 素晴しい先生です。僕は心から尊敬しています。

 ただ生々しい現実を描くことがエンターテイメントになることがある、そう高らかに宣言するような傑作「ボーイズ・オン・ザ・ラン」を僕は2021年から振り返って重要な作品として推したいと思います。

『倉木』

 ボーイズ・オン・ザ・ランは名作やし、大好きやし、推してもいいと思うからこそ、僕なりの考えを語らせてもらいます。

 ただ生々しい現実を描くことがエンターテイメントになることがある。そういうのもあるのかもしれないけれど、ことボーイズ・オン・ザ・ランに関していえば、生々しい現実を描いたと「みせかけた」エンタメ作品だと、僕は思っています。

 というのも、説明してもらったようなあらすじの流れがあったとして、どうしてケンカや暴力でどうこうするねんって思うんよね。そこに生々しさがない。もっとも、その生々しさを排除したからうまれる流れは、エンタメ以外のなにものでもありません。サラリーマンアッパーは真似したくなる技やし。

 ケンカする流れをもっと自然にするならば、恋敵の日常に暴力があるべきだった。
 教室でボーイズ・オン・ザ・ランを見たときに先生にも言った感想やけど、恋敵はもっとクズであってほしかった。と話した記憶がある。

 クズ=暴力や喧嘩が相手の土俵であってほしかったんやろうな。
 それこそ大人なら別の解決法があるかもしれんのに、相手の土俵まであえて落ちて戦う。相手の得意なところで勝るのは盛り上がる展開だからね。

 似たような物語として思い出した映画は、フライ・ダディ・フライです。
 ふわふわした、まぁまぁな現実を送っていたオッサンが、あることをキッカケにして、不良に喧嘩を挑む。不良の土俵がそこだから、喧嘩という解決法が自然。ちなみに、一方的に武器を使う喧嘩は自然な流れだとしてもエンタメじゃないので、作中では許されない。

 喧嘩というものは、オッサンにとっては、いまよりも、下ともいえる場所になる。そこで走り回ることによって、オッサンは十分な助走をとって、物語がはじまったところよりも高く翔ぶ。

 ボーイズ・オン・ザ・ランは最後のシーンで走り出す。フライ・ダディ・フライのオッサンみたいに、高く翔んではいないものの、「そんなんじゃねぇんだよ」と、走り出した姿は、まさにエンタメの象徴ともいえる行動ではないでしょうか。

 ボーイズ・オン・ザ・ランへの批判というか、不満点を全部、吐き出した気分やで。名作で大好きだから、これぐらいしか否定的な部分がないんやろうね。
 この年の他の漫画原作への不満はこんなもんじゃねぇ。

『郷倉』

 なるほど。
 確かに僕の主張である「生々しい現実を描くことがエンタメになる」が芯に貫かれているのであれば、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」のラストは走り出してはいけないんですね。

 ただただ生々しい現実を描くのなら、その場でへたり込んで終わるべきでしょう。
 また、原作漫画の「ボーイズ・オン・ザ・ラン」は映画本編の内容後に二部のようなものがはじまって、主人公の田西敏行は海外へ行き、本場の格闘技を学ぶ、というコテコテのエンターテイメント展開を見せます。

「ボーイズ・オン・ザ・ラン」の映画のラスト一歩手前までは僕の主張の「生々しい現実」だったとしても、走り出して向こう側(本場の格闘技を学ぶ)へと渡ってしまえば、エンタメになる。
 であれば、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」は現実と虚構(エンタメ)を渡る、その瞬間を描いた作品として認識した方が良いのかも知れません。

 ちなみに、ウィキペディアでエンターテイメントを調べると以下のようにでてきます。

"entertainment"という言葉の原義としては、特に演者の技能を鑑賞することを主体とした見せ物、出し物、余興などを指す語で、スポーツ・舞台演劇・演奏会・公演などを指す。

 ウィキペディアの主なエンターテイメントの中には映画も含まれています。
 森山未来が言っていたと記憶していますが、舞台の上に、その辺に酔っ払っているオッサンを立たせたら、それはもう作品(エンタメ)になるそうです。

 僕が「ボーイズ・オン・ザ・ラン」を生々しい現実を描く作品であると評する根底にあるのは、原作が実話を元に描かれている、とインタビューにあったからでした。
 しかし、その実話を漫画に描き移す行為そのものが現実をエンタメ化させなかった、とは言い切れない。

 と言うよりも、どんな実話であっても、森山未来が言う舞台の上に立たせてしまえば作品になってしまうのだから、「ボーイズ・オン・ザ・ラン」の元になった実話は漫画化された時点で、エンターテイメントだった訳ですね。

 であれば、エンタメ的にエンタメを否定する構図が「ボーイズ・オン・ザ・ラン」にはある、という形で、最後に一つ語らせてください。

 倉木さんが言及していたサラリーマンアッパーなる技があって、それが映画のパッケージングにもなっています。
 そんな超エンタメ的な必殺技があって、それを使えば俺は勝てるんだ、って思っている主人公が普通に負けるのが「ボーイズ・オン・ザ・ラン」なんです。

 主人公、田西は自分が模範的(理想的)な存在、「愛を信じて頑張っていれば、必ず報われる」と信じている痛い存在なんです。
 彼は、自分を物語の主人公だと思っている。

 だから、好きな女の子を孕ませて捨てた男に真正面から喧嘩を売って、ギャラリーを集めて、サラリーマンアッパーをかまそうとします。
 繰り返しますが、田西のそんな滑った行動は報われず、恋敵にあっさりと負けます。

「ボーイズ・オン・ザ・ラン」のあらすじにもありましたが、「妄想ばかりの三十路目前である超等身大ダメ男」が田西なんですよね。
 恋敵に負け、好きな女の子にもフラれて、ようやく、本当にようやく自分は物語の主人公じゃないんだ、と思い知ることができた、それが「ボーイズ・オン・ザ・ラン」なんだと思うんです。

 そして、そんな挫折を飲み込んで走り出した瞬間に、皮肉にも田西は物語の主人公になれたんだとすれば、これは結構面白い構造になっているなぁと思います。

 個人的にこうして考えていくと、次の年で語る「モテキ」の主人公、藤本幸世と通じる部分があります。田西は何も救えないが、それでも立ち上がったからこそヒーローとなり、藤本幸世は完璧なエンタメパワー(ミュージカル的演出)で世界の中心は俺だ。
 俺が主人公だ、と物語世界を巻き込んでいきます。

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 やっていることは一緒なんですが、「モテキ」は「ボーイズ・オン・ザ・ラン」とは違った終わり方を見せます。この辺は、またその際に語らせていただければと思います。

【2010年 実写化映画】まとめ。2010年当時の郷倉と倉木。

(※次の回を、対談でまとめるか、お互いにエッセイを書くか相談してました)

『倉木』

 次も対談にしよう。反応が遅れてすまん。休みの日に、嫁の両親がきたりしてた。

『郷倉』

 こちらも遅れて申し訳ありません。
 奥様のご両親に、新しい家を披露したんですかね?
 それだけで短編が一本書けそうなシチュエーションな気がします。

 次の対談ですが、どう「見るべき一本を決める」かってことですよね?
 2021年から振り返って重要な作品かな?

 まず、今回こうして対談してみて、倉木さんはどうだったのか。
 ということを尋ねたいんですが、その前にですね。
 2021年から振り返る前に、僕たちから見て2010年ってどういう年だったっけ? ということを軽く触れられたらと思います。

 僕は自分の記憶が正しければ19歳で、倉木さんと同じ学校、教室に通っていて、二人で駄弁ったり、鍋したり、「スクライド」を朝まで一気見したのとか、この頃だったんじゃないか? と思うんですが。

 倉木さんは2010年だとお幾つですか?

『倉木』

 24歳です。十月で25。地味に、犬飼書いた(※本を出した)年なんやなぁ。

 スクライドも、当時でほぼ十年前の作品(2001年の作品?)。

 スクライドばりに一気観するような映画を選ばねばなるまい。

 ちなみに、倉木推し作品は、当時の自分に観といたほうがいい映画を選ぶことにする。

『郷倉』

 あ、2010年が犬飼の年になるんですね。
 僕も二週目のエッセイでは「拝啓19歳の郷倉四季へ」というタイトルで、書こうと考えていました。

『倉木』

 推し作品は対談しても変化することなくて、シーサイドモーテルかな。

 短編を集めて長編にする方法論が、わかりやすく学べる映画。だから、当時の自分には、絶対にススメたい。
 もっと言えば「はつこいクレイジー」(カクヨム掲載作品)のプロットを作る前に、もう一度「シーサイドモーテル」を観ておくべきだったと後悔しているぐらい。「大停電の夜に」だけを参考にしたのは失敗だった。

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 前に話した内容と重なるけれど、シーサイドモーテルの小粋なところは、登場人物には唐突な出来事でも、視聴者は他の話が伏線になってるから、驚きと同時に伏線回収されるというつくりだと思う。
 そして、他の話を知らない登場人物だからこそのドラマってのは熱いものがある。
 さきほども話題にあがったスクライドで、カズマ君島が編集された映像のせいで悪者扱いされてるシーンがあるんやけど。あのとき、視聴者だけは、お前らは悪くないって知ってる。あの感じをつくりだす方法が、シーサイドモーテルにはあるんよね。

 なにより、シーサイドモーテルの雰囲気は、邦画というよりも洋画っぽいってのも好きな点やな。だからこそ、邦画は好きだけど、洋画はそんなに好きじゃないよ、という人にこそ観てほしい作品でもあります。だって「シーサイドモーテル」を面白いと思ったら、洋画で気に入る作品も多いはずですからね。ゴロゴロあるよ。

『郷倉』

 視聴者だけが知っている、という構造は良いですよね。
 以前、僕は倉木さんに東浩紀の「ゲーム的リアリズムの誕生」という本をオススメしていた時期があって、そこで倉木さんがおっしゃる視聴者だけが他の人物たちの伏線を知っているからこそ、他の話を知らない登場人物のドラマに感動できる構造について詳しく説明されていました。

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 その際に参考として引用されているのが美少女ゲームなのですが、倉木さんの今回の意見を聞くと、その視点は映画にも反映できる考え方だと思います。
 メタ物語とも「ゲーム的リアリズムの誕生」では語られています。

 そういう意味ではタランティーノの「パルプ・フィクション」も、そういうメタ的な視点を持つことで楽しむことができる映画になっていると思いますが、今回の「シーサイドモーテル」を見て面白いと思った視聴者にあえて次に勧めるとすれば、倉木さんは何を選びますか?

 邦画とか漫画原作とかを脇に寄せて考えると、なんでしょうか?

『倉木』

 ユージュアル・サスペクツかな。

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『郷倉』

 1995年の映画なんですね。
 すみません、勉強不足で申し訳ないんですが、どういう映画か教えていただいてもよろしいですか?

『倉木』

 記憶をたよりに語るので間違えてるかもしれんけど。

 とある事件が起きて、唯一無傷で生き残った男が尋問される話。尋問される男の回想話で、事件を起こした犯人グループが、どのように集まり、どうして死んでいったかを話していく。その中で、顔すらわからない伝説のマフィアの存在が示唆されたりして……とにかく、最後のどんでん返しが見事でね。

 回想という不確かなものが99%を占める中で、尋問を終えた直後の男の動向だけは1%だとしても、紛れもない真実だけが描かれている。視聴者だけが、その真実を知り、どんでん返しになるというつくりは、シーサイドモーテルに通じる。群像劇で当人たちでは知り得ない情報を視聴者だけが知れるという究極形が、ユージュアル・サスペクツかもしれない。やっぱ、映画は洋画のほうが名作多いよ。

(※数日間の沈黙)

『郷倉』

 ここ数日、まったく機能していなくて、申し訳ないです。

 ユージュアル・サスペクツめちゃくちゃ面白そうですね。
 回想、つまりは語りという不確かなもので映画が進行していく、と。

 僕は今年(2020年)に読んだ小説はほとんど阿部和重舞城王太郎なんですが、二人とも語りの作家なんですよね。
 そして、阿部和重は映画評論を小説にした「アメリカの夜」でデビューしているので、語りとしての映画というのは一つ、今の僕にはとくに興味深いテーマとなっています。

 そういう点で考えると、僕が19歳の頃の郷倉四季に勧めるのなら、「シーサイドモーテル」かな、という気はします。
 ただ、当時の僕が2010年の漫画の実写映画から良かった作品を選べと言われれば、「ソラニン」「BECK」になると思います。

 この二作には分かり易い見せ場があって、そういう分かり易いものを作りたいと僕は思っていました。
 それこそ色んなことはあったけど、実現したライブとか、人を感動させた歌とか、そういうカタルシスの開放。

 記号的ではありますが、読者(視聴者)がもっとも望むものでもあります。

 その読者(視聴者)が望むものが何かを正確に把握することは結構重要で、その後に倉木さんが今回提示したような、シーサイドモーテルやユージュアル・サスペクツといった、視聴者を驚かせたり、視聴者だけが分かるギミックが来るのではないか、と思います。

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。