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繰り返すことで世界はズレていく 金原ひとみ「デクリネゾン」について。

 村上春樹の「日々移動する腎臓のかたちをした石」の冒頭に父親の言葉として以下の台詞があります。

「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない。それより多くないし、少なくもない」

 その台詞を父親は「淡々とした口調で、しかしきっぱりそう言った。地球は一年かけて太陽のまわりを一周する、と言うみたいに」と言う。
 この「三人の女」の話が「日々移動する腎臓のかたちをした石」の主人公にとって呪いのようになり、女性との関係を深められなくなってしまいます。

 本当に「意味を持つ女は三人しかいない」のか?
 と問いを立てることにはあまり意味はありません。父親の言葉として受け止めた、主人公の息子が呪いのような影響を与えている以上、「意味を持つ女は三人しか」いなくなっていると言えます。

 ちなみに、この呪いに対する回答は「日々移動する腎臓のかたちをした石」でも成されていて、これも見事なのですが、あえて別の角度から一つの回答をさせていただきます。

地球は一年かけて太陽のまわりを一周する、と言うみたいに」父親は「三人の女」の話をする訳ですが、地球は太陽のまわりを、1年=365.2422日で一周するんです。ぴったり365日ではない為に、4年に一度一年を366日のうるう年が設定されています。
 つまり、同じことを繰り返しているのに、ズレることがあるんです。

 さて、今回僕が書きたいのは金原ひとみの「デクリネゾン」なんです。
 こちらは「HB ホーム社文芸図書WEBサイト」で(ツイッターなどを確認する限り)2020年2月20日から始まった連載小説で、2021年11月25日に最終回を迎えています。

第1話 生牡蠣とどん底」の冒頭には、ルクレーティウスの言葉が引用されています。
 内容は以下です。

「であるから、私は繰り返し、繰り返しいうが、原子は少々斜に進路を逸れるに違いない。」(『物の本質について』ルクレーティウス著、樋口勝彦訳、岩波書店)

原子は少々斜に進路を逸れる」ことについて、本編では最終回の第19話で「そう言えば、原子って曲がるんだって。むしろ、原子は曲がると考えないと説明がつかないような事象がこの世にはたくさんあるんだって」と言及されています。

 原子は曲がるし、地球は太陽のまわりを、1年=365.2422日で一周する。
 この繰り返しの中でのズレが呪いとしか言いようがないものと対峙する際の一つの救いになる、というのが「デクリネゾン」の主題の一つだったと僕は考えています。

 今回のエッセイでは、そんな「デクリネゾン」の中の呪いと、意味ある三人の出会いとは何かを紐解ければと思います。
 まず、冒頭を見てみましょう。

 回想と言う形で、友人のひかりがホームパーティで主人公、天野志絵が持ってきたキッシュの長方形に切られた人参に対し、「正方形の植物ってないやん? 生き物もやけど。やから正方形のものには食指が動かないんやろうね。」と言います。
 ひかりはそんなキッシュを食べて「何これめっちゃ美味いねんけど、とすごい勢いで口に詰め込んでい」きます。

 そんなひかりを前にして志絵が思うのは、「本当に変わったなと改めて彼女の結婚、出産後の変化に感心していた。」というものでした。
 最後まで読んで、この冒頭を読み直すと、正方形の不自然な人参が入ったキッシュは主人公の志絵そのものだと分かります。

 志絵は小説家で、バツ2の子持ち。1話の時点で、大学生の蒼葉と付き合っています。
 そんな志絵が抱えているものは「ずっと幸せになりたいと思っていたのに、私の行動はそれとは別の方向に向かった。まるで私の意思とは関係なしに弾かれたように、別の方向に。」というもので、ひかりの変化から照らし合わせると、結婚も出産も志絵という人間を十分に変化しきるに至らなかったと分かります。
 まるで、不自然な形の生き物、それが天野志絵なんです。

 そんな志絵が常に怯えているのは、幸せを実感するほどに「意思とは関係なしに弾かれたように、別の方向に」向かってしまうことです。
 その結果、「デクリネゾン」の中では三人の男との別れが描かれています。そして、その全てがなかなかの修羅場です(毎回、志絵は不倫しているので仕方ないんですけど)。

日々移動する腎臓のかたちをした石」の「意味を持つ女は三人しかいない」になぞると、「デグリネゾン」の一話から付き合っている蒼葉は四人目の無意味な男と言うことになり、その虚しさが描かれるのか、と読み進める中で身構えてしまいます。

 この辺のバランス感覚は本当に絶妙で、「デグリネゾン」は途中まで大学生の彼氏、蒼葉くんは志絵にとって意味があるのか、無意味なのかの判断は本当に難しいんです。
 その絶妙な感覚も「デクリネゾン」の魅力の一つなのですが、どちらにしても「本当に意味を持つ『男』は三人しかいない」という描かれ方はされています。
日々移動する腎臓のかたちをした石」を下敷きに書かれた小説が、「デクリネゾン」だと言うつもりはないんですけど、意味を持つ三人の人間という「哲学的(なのだろう、たぶん)」はあらゆるものに有効だと言えそうです。

 三人で言うと、小説冒頭で登場したひかりを含んだ、女性三人で食事をするシーンが「デクリネゾン」では繰り返し描かれます。
 デクリネゾン自体がフランス語における「様々な調理方法でひとつの食材を生かすことを意味」し、各タイトル(「第2話 小さく肥えた羊」「第3話 レモパワコロナバーガー」etc.)にも料理を連想する単語が忍ばされていることから、今作は食事シーンが非常に重要になってきます。

 この三人の女性、志絵、ひかり、和香は小説家で、会話の主な内容は小説や編集者や業界の噂話、途中からコロナの話と縦横無尽に語られていきます。
 ひかりは先ほど紹介したように、結婚と出産後から変化した女性で「旦那の影響でJリーグの大ファンになり、育児の手が空く時はユニフォームを着てあちこちの試合に駆けつけ応援しているという彼女は、歳を経るごとに関西弁がきつくなっている」ような女性です。
 そして、和香は「仕事4家庭2恋愛4といった塩梅」で「婚外恋愛にのめり込みしっかりと激しい不倫をするが離婚という道は絶対に選ばない」女性です。

 意図的なのか分かりませんが、志絵を中心に考えると、志絵が結婚、出産で変化し、旦那の影響を受けられたならひかりになるだろうことが注意深く読むと分かります。
 であれば、志絵が婚外恋愛を徹底的に隠しきって日常を送れるなら、和香になるのでしょう。

 ひかり、和香を志絵のあり得たかも知れない可能性の女性として読むと、「デクリネゾン」はより面白い読み方ができてきます。
 そして、なぜそのような読み方が可能かと言うと、作中で志絵が編集者から書くよう依頼される小説に関係があります。

 自分にあり得た世界線を書いてみるのはどうですか?
 
 (中略)
 
「離婚していなかったら例えばもう一人、二人子供がいたかもしれないし、今とは全然違う小説を書いていたかもしれないし、不倫を繰り返していたかもしれないし、あるいは旦那さんとうまくいっていたかもしれない。普通の人には見通せない世界を具現化させられるのが、小説家の特殊なところじゃないですか。天野さんが何を捨てて、何を手に入れたのかはっきり見えてくるだろうし、太田が話していた新しい家族の形、というテーマも取り入れて書いたら面白くなるんじゃないですかね」

 これは担当編集の中津川さんの台詞で(そして、中津川さんもまた良いキャラなんです)、この中にあるように志絵は編集部から「新しい家族」というテーマを与えられています。
 それ故に、ひかりと和香は志絵のあり得たかも知れない女性、家族の形として描かれています。

 つまり、「デクリネゾン」という連載小説それ自体、志絵が作中に書いた小説だと考えて読むことが可能なんです。

 金原ひとみがそのように想定して書かれたかどうかは分かりません。あくまで僕はそのように読んだ、という解釈をしました。
 まとめますと、「デクリネゾン」は三人の男との話であり、三人の女性が家族をどう生きるか、という物語でした。

 そして、最後に母と娘の物語であったことを指摘して、今回のエッセイを終えたいと思います。
 斉藤環が「豊譲なる「ヤンキー文学」」の中で、キャロリーヌ・エリアシェフの言葉を引用して、母娘の密着関係を「プラトニックの近親相姦」と呼ぶと紹介しています。

娘は母親を映す鏡であり、自己愛投影の対象であり、相互的関係ではなくアイデンティティの混同をまねきやすい

 とし「思想や感情のすべてをお互いに打ち明け、洋服を貸し合う傾向が生まれる。なぜなら母と娘の身体は共通で、ふたりの間のあらゆる境界と差異は消えてしまっている」のだそうです。
 この「洋服を貸し合う」ような「母と娘の身体」を共通させ、「アイデンティティの混同」が生まれるのは母娘の親密な関係において成立すると斉藤環は書くが、「デクリネゾン」の志絵は娘の理子と決して「プラトニックの近親相姦」に陥らないよう振る舞います。
 それは志絵と理子が親密でない、と言う意味ではありません。

 志絵はとくに死を意識した時、最後に会いたいのは理子だと感じるほどに娘を深く愛しています。けれど、決して「洋服を貸し合」ったりはしません。
 一度、理子から服を貸してと言うシーンはあったと記憶していますが、全体的に理子自身も志絵からある時期から距離を取ろうとしています。

 この距離を取るということが、親密さの解消にも思えますが、互いに互いを大切に思っていない訳ではないと思わせられる部分においても、「デクリネゾン」は新しい家族小説として成立しています。


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