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【小説】西日の中でワルツを踊れ⑳ 強く願おうと思う。呪われるくらいに、強く。

前回

 待て、待て、待て、待て――。

 ぼくが川田元幸だとすれば。
 紗雪を否定し、川島疾風の彼女で、中谷勇次の姉の優子を地獄の庭に誘い込んだのは、ぼくだと言うことになる。

 どうして、そんなことをした?
 知らねぇよ。
 あぁ、くそ。なんで、よりによって川田元幸なんだよ?
 くそ、くっそ!
 じゃあ、なにか?
 ぼくは紗雪に想われていながら、それに応えられなかったクソ野郎か?
 更に、そんなクソ野郎だってことも忘れて、愚かにも彼女の為に何をすればいい、と思いっきり真剣に考えちまってたのかよ?

 なんだよ、それ? 
 ぼくはピエロか?
 どんだけ間抜けなんだよ? 

 そんなぼくを見て、みんな腹の中では笑ってたのかよ?
 クズがまともになろうとしている様を指差して?

 ……、そりゃあ、さぞ笑えただろーな。
 だいたい、どーしてこんなことになったんだ?
 あぁ、電話だ。
 記憶を失った、ぼくに紗雪が電話をかけてきたんだ。
 そして、その時にぼくは、携帯の画面に表示されたメールの件名や本文の冒頭から知った「西野ナツキ」という名前を名乗った。

 ぼくは西野ナツキの携帯を握らされて、病院の前に捨てられていた。どうして、ぼくは西野ナツキの携帯なんてものを持っていたんだろう?
 いや、待て。
 それ以前に本当に紗雪がぼくを腹の中で笑っていたとする。
 だとしたら、どうして彼女はぼくの記憶が戻る為の協力をしてくれたんだ?

 優しさ?
 けれど、本当に優しいのなら、記憶が戻る為の協力なんて遠回しなことをせず、ぼくが本当は川田元幸だと言ってくれれば良かったはずだ。
 どうして紗雪はぼくを西野ナツキと呼び続けたんだ?

 ぼくに記憶を取り戻して欲しくなかったのなら、片岡潤之助と会わせたのもおかしい。
 紗雪にとって、ぼくが記憶を失ったままでいた方が都合が良かったのなら、病院の一室に隔離して極力外へ出さない方が都合良いはずだ。

 しかし、そうはしなかった。
 なら、そこには片岡潤之助の意思が絡んでいると考えるべきかも知れない。その意思とはなんだろう?
 鶴子の土下座動画が大事なのだとしても、手が込み過ぎている。だいたい、紗雪の行動をそこまで支配する片岡潤之助のルールはなんだ?

 ん?
 ルール? そういえば、紗雪もルールを持っていた。
 彼女のルールは死者の力に寄るものだった。
 他者を通して、死者を見て、会って……。一対一、名前、憑く、声……、名前?

 紗雪の力のキーワードには名前が必要だった。
 それこそが死者と生者を繋ぐ、形あるものだった。
 なら、紗雪の中で名前は絶対的なもののはずだ。
 はじめて紗雪と話をした時、混乱し冷静でなかった、あの時、ぼくは彼女に西野ナツキと名乗った。 

 記憶を失い痛みだけが体を支配していた、あの時、ぼくがすがったものは携帯の画面にあった西野ナツキという名前だった。
 今なら、そう断言できる。
 記憶を失い、広大な海のど真ん中に一人浮かんだような気持ちの中で、それでも動き出そうと思ったきっかけは、紗雪という他人に向かって自分の名前を名乗ることだった。

 山本義男が言った、フランソワーズ・コワレが『サガン』というキャラクターになったように、ぼくは記憶を失い、自分の名前を携帯画面の情報から判断した時から『西野ナツキ』というキャラクターになっていた。
 そして、そのキャラクターになることこそが、記憶を失っていても冷静に物ごとを考え続けられた理由だった。

 紗雪がぼくを川田元幸だと呼べなかったのは、死者のルールによるものかも知れない。そう考えると、ぼくの記憶を取り戻す為の協力をしてくれたこと、片岡潤之助と会わせたことに納得ができる。
 もちろん、これはぼくの勝手な想像だし、勝手な解釈だ。
 けれど、その勝手な解釈のおかげで思考がクリアになった。
 未だに分からないことは多々ある。ぼく自身が川田元幸だという事実を飲み込めたとも言い難い。

 それでも――。

「なぁ田宮くん。本当に川島疾風は死んだの?」
 山本の言葉が浮かぶ。
 人間的自分と社会的自分。ぼくが背負うべきは社会的な川田元幸だ。
 彼が成した罪は、ぼくの罪だ。
 それをちゃんと知るところから始める他ない。

「あぁ? 突然、黙ったと思ったら、なんだよ? さっきも言っただろ?」
「本当に?」
 紗雪の力で見た時、川島疾風は生きていると判断された。
 田宮と紗雪のどちらを信じるか?
 と問われれば、この期に及んでも、ぼくは紗雪だった。

「当然だろ? アイツの両手を俺は切断した。両足は面倒になって他の奴にやらせたけどな。人間の肉っつーのは、どーしてあーも丈夫なんだろーな」
 両手足を切断すれば、当然だが人は死ぬ。
 田宮の話が本当であるなら、確かに川島疾風は死んでいることになる。
 そして、その理由の一端は川田元幸、ぼくにある。

「あぁ? まーた、黙りやがって。おい、どーしたよ?」
「いや、何でもないよ。ただ朱美さんに顔向けできないな、と思っただけで」
「朱美?」
「田宮くんには関係ない人だよ。それより、一つ聞きたいんだけどさ」
 と言いつつ、ぼくはポケットに忍ばせていた紗雪から借りたボイスレコーダーをオンにした。
「ちょっと前に脅した旅館のこと覚えてる? キンモク荘って名前のところ」
「キン、モク、荘? ん、あぁ、女将を裸に剥いて土下座させたヤツだな。お前が参加してねぇ頃のヤツじゃねーか。どうしたよ? 一緒にやりたかったのかよ?」
「いや、そーいうわけじゃないんだけどさ。その映像をカメラに収めていたじゃん? それって田宮くん、まだ持ってる?」
「持ってねぇよ。そのカメラで中谷優子をハメ撮りしようとしたから、川島疾風に車ごと突き落とされてぶっ壊れちまった。勿体ねぇ、マジで勿体ねぇよ」

 田宮は何の疑いもなく、べらべらとぼくの質問に答えてくれる。それも川田元幸のおかげだと思うと吐き気もするが、本題の確認に集中する。
「バックアップは取ってないの?」
「取ってねぇよ。だから、勿体ねぇよなって話だよ」
「それは確かに。じゃあ、これから中谷勇次をぶちのめしたら、最新のカメラを買っておくよ」
「マジか? おい、言ったかんな?」

 まるで中学生のような反応だ。これで二十歳は超えている風貌だと言うのだから、救えない。
「もちろん」
 とぼくがにっこりと笑った時、赤信号で車が止まった。
 ふと顔をあげると、山本がミラー越しに目を合わせてきた。そこには明確な合図があった。
 なんだ?
 と思って、外を見ると、金属バットを持った男が車のフロントガラスをぶん殴った。そして、同時に運転席の窓が映画のワンシーンみたいに割られる。

 つまり、それは金属バットよりも破壊力のある何か、だ。

 割られた窓から手が伸びて、鍵を開け、運転手の山本が外へと引きずり出される。
 代わりに乗り込んできたのは金属バットを持った少年、守田裕だった。バットの先端を後部座席のぼくらに向けて、「騒ぐな」と短く言った。

 更に、運転席側の後部座席の窓が割られる。
 割ったのは中谷勇次だ。
 恐ろしいことに彼は拳一つで車の窓を割っていた。平然とした動きで空いた窓から鍵を解除し、ドアを開ける。田宮が情けない声をあげた。
「一人、邪魔が居んな」
 車内を見た勇次が言い、守田が頷く。

「そーだな。そこのお兄さん、自分の手で鍵を開けて、外に出てもらって良いですか?」
 ぼくを誰か理解した上での言葉。
 だが、おそらく彼らはぼくが抵抗すれば、容赦なく暴力に訴えるだろう。
「悪りぃな」
 勇次が言った。「シップーの兄貴の居場所を知ってる、このサルにしか今は用がねぇんだ」

 何か言おうと思っていた。
 けれど、勇次の目を見たら、言葉はなくなった。
 彼らには彼らの信念と覚悟がある。
 ぼくの言葉でそれを汚す訳にはいかなかった。
 川島疾風が彼らにとって、どれほど大きな存在だったのか、それは中谷勇次と守田裕にしか分からないことだ。
 ぼくは鍵を施錠して、ドアを開け外に出た。
 最後に窓ガラス越しに田宮由紀夫と視線が交わった。

 カメラ頼むぜ、と声なく言ったような気がした。
 車が発進する。
 どうやら田宮にも何かしら勝算のようなものがあるようだった。
 車のガラスを平気で割るだけの力を持つ中谷勇次に田宮がどのように挑むのか、ぼくは分からない。
 が、万が一にも田宮が普通の生活に戻るのなら、その時はぼくが彼に地獄を見せよう、と去っていく車を見送りながら決めた。

「いやぁ、最近の子供は元気があって良いね」
 山本はわざとらしい動作で、体を伸ばした。
 道路のど真ん中に立っている訳にはいかず、ぼくは歩道の方へと進む。
 山本も同じ歩幅で、ぼくに近付いてくる。
「いいんですか?」
 ポケットの中でオンにしていたボイスレコーダーをオフにして、ぼくは言った。

「なにが?」
「田宮くんを残したまま車、持って行かれましたよ? 彼のお父さんかチャンさんに、酷い目に遭わされるんじゃないですか?」
「あぁ、それね」山本は何でもないことのように頷く。「大丈夫、田宮組は近いうちに無くなるから」
「どういうことですか?」
「ここからは抗争になるからね。私のような人間の相手をしてられなくなるってことだよ」

 簡単には聞き流せない単語だった。
「待ってください。抗争? どうして、ですか?」
「川島疾風が田宮由紀夫を撃ったから?」
 と言って、山本は何故か笑った。
「分かりません。どういうことですか?」
「説明をするのは良いんだが、私もこれから用事があるんだ。だから、そっちへ向かいながら話そう。良いね? ナツキくん」

 名前を呼ばれた。
 ただそれだけのことで体内の温度が下がるのが分かった。
「山本さん、ぼくが西野ナツキじゃないと、知っていたんですか?」
「知ってたよ」
 あっさりと山本は認めた。

 叫びだしそうな激しい何かが、ぼくの中を通り過ぎた。
 震える体を押さえつけて固い声で言った。
「どうし、て、教えてくれなかったんですか?」
「ん? 君が西野ナツキと名乗っている方が都合良かったんじゃないかな?」

 言って山本が歩きだすので、ぼくもそれに続く。
「誰が?」
「これから、行く先で分かるよ」
 独り言のように言って携帯を取り出し、短い操作をしポケットにしまった。

「さて、どこから説明するかな。ナツキくんは知らないことが多いからね。……まぁ良いか。まず、川島疾風が運び屋をやっていた岩城組と田宮由紀夫の父の田宮組は上の組織が対立し合っているんだよ」
「上の組織?」
「言ってしまえば、元締めが違うんだよ。岩城組の上は巖田屋会。田宮組の上が無双組。まぁ、そうだな。巖田屋会が長年地元密着の商店街で、無双組は全国幅広く商売をやっているスーパーマーケットって感じだな。で、その抗争が四年前かな? にもあってね、その結果、岩田屋町にやくざは事務所を構えないっていう条約ができた訳だ」

 ややこしいな、と眉を寄せる。
 巖田屋会が商店街で川島疾風が属していた。
 無双組に属する田宮組は全国チェーンのスーパーマーケットで、その田宮組の息子が田宮由紀夫。
 とりあえず、それだけは分かった。

「しかし、その不可侵領域とされる山で、川島疾風は田宮由紀夫を撃ってしまった。疾風は愛する人を守るつもりだったのだろうけど、周囲の大人はそんなことはお構いなしだった。それについて話し合う会談が行われた本日、中谷勇次と守田裕の介入によって滅茶苦茶になった」
 目の奥が痛んだ。それは――。

 山本は尚も続ける。
「そして、彼らは火種の元である、田宮由紀夫を拉致って現在はドライブ中。田宮くんが無事に戻ってこようと、戻らなくとも中谷勇次と守田裕が川島疾風の為に動いたと分かれば、田宮組は黙っていられないだろう。それを巖田屋会が狙っていたかは知るよしもないが、まぁ抗争だろうね」
「中谷勇次と守田裕のせいで、抗争になると?」
「そうとも言えるかも知れないな」
 抗争?
 彼らのせいで、多くの人間が死ぬかも知れない?

 ぼくは走り去ってしまった車を追うように、道路の方に視線を向けた。
 どうにかして追い付けないだろうか。
 おそらく彼らは川島疾風の居場所を田宮から聞き出すつもりのはずだ。それが終わった後、ちゃんと田宮をもと居た場所へ帰せば、というぼくの思考を止めたのは山本だった。

「きっかけなんて何でも良かったんだよ。偶然、川島疾風が事件を起こし、そこに中谷勇次と守田裕が絡んできた。それを利用して抗争にしようとしている連中がいる、これはそういう話だよ」
「けれど、周囲の人間の努力次第で抗争にならない道もあった」
 と、ぼくは思いたかった。

 山本は平然と続ける。
「まぁ、もしもの話をしても仕方がないね。私が知っているのは、私が把握できる事情だけだからね。事実、抗争になる。そういう動きが今の巖田屋会と無双組にはある」
「その結果、田宮組がなくなると?」
「単純な力関係を見るとね」
「どの組織が勝つんですか?」
「さぁね。だいたい、ナツキくんがそれを知ってどうするんだい?」

 自然と足が止まった。
 守田裕と中谷勇次の顔が浮かんで消えた。
「抗争の火種に利用された彼らはどうなるんですか?」
 山本も立ち止まって、詰まらなそうな表情を浮かべた。
「そりゃあ、タダじゃ済まないだろうね」
「どうして……」
 と言いかけて、僕は口を噤む。

 どうして、それを知っていて車を奪う彼らを止めなかったのか?
 しかし、それができる状態じゃなかった。それは一緒にいたぼく自身も分かっている。彼らを止めるのなら、もっと前。
 守田裕がやくざの会談へ行くのを止めるべきだった――。

 違う。
 ぼくはぼくの考えを否定する。
 最初からぼくは止めようとしていなかったし、中谷勇次も守田裕も止まろうとしていなかった。
 腐っても田宮由紀夫はやくざの息子なのだ。
 そんな人間を車ごと奪うなんて、普通の神経ではできない。

 どうしようもなかった。
 だから、あの二人は――
「良いよね」と山本が言った。「自分が知り合った人間全員を助けられたら。でも、それは夢だよ」

 その響きは固く、冷たいものだった。
「なら、山本さん。今、貴方は誰を助けようとしているんですか?」
「言わなかったかい? 私は西野ナツキくん、君の味方だよ」
「今は?」
「そう」

 なんだ、その考え方? 
「じゃあ、例えば守田裕を助ける立場にいたとするなら、彼を田宮由紀夫と共に見送ったりはしなかったんですか?」
「どうだろうなぁ。けど、そうだな。その場合は田宮由紀夫と同じ車に乗るなんてことはしなかっただろうな」
「その場合はぼくも見捨てていた、と?」
「まぁ、場合によってはね」
 であるなら、今ぼくはここにいなかっただろう。
 田宮由紀夫から情報を聞き出せなかったし、ぼくの本当の名も知れなかった。
 ぼくは守田裕と中谷勇次の犠牲の上で、ここにいる。

 分かっている。
 ぼくは今、ものすごく甘っちょろいことを考えている。
 自分が好ましいと思った人間全員に幸せになってほしい、と。守田裕と中谷勇次が無事であってほしい、と。
 全てをやりきって、その上で、幸せになってほしい。
 それは山本の言うように夢なのかも知れない。

 それでも。
「夢は呪いのようなものなんでしょうか?」
 自然とこぼれた問いに、山本が僅かに目を見開いて
「さぁね。それは呪いだと思うくらい強く夢に向かった人間にしか分からない」
 と言った。

 強く願おうと思う。呪われるくらいに、強く。

つづく


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