見出し画像

【童話】ももこのゆくへ

1.ももこ、いなくなる。


ももこがいなくなった。

うちの、ももこが

お母さんに、まず言った。それから、弟にも、それからお父さんにも。けれど最後に警察に言おうと私が受話器を取った時、お父さんがその手を引っ張って言った。

「ぬいぐるみごときで警察が動くわけないだろ」
だけどももこは、私の大事なともだちだった。
なんで、ももこが消えたのに私はだまって見ていなきゃいけない?こんな世界を一人で。

「あなたが電話をかけるのはこっちよ」
母さんは私の手をとって、「遺失物係」と書かれたメモを手渡した。
「なにこれ」
わかるでしょ。と言って、母さんは台所に戻っていった。
私はそのメモに書かれた番号に電話をした。
「はいー」と言って、明るい声が届いて来た。
私がももこの説明をしている間、その電話の相手は「はいーはいー」と、妙なイントネーションで答えていた。
そうですか、いないですか、わかりました。ありがとうございます。といって私が受話器を置く頃、もう時刻は夕方5時になっていた。
ももこ。これから私たちは、一緒にご飯を食べて、眠るんだったのに。
「まったく26にもなって」と父さんが新聞を開きながら言った。
私はそんなことは言われ慣れていたので、無視して階段を昇った。
私にとってももこは、唯一のともだちだったのだ。
まさこを除いて。

まさこは唯一の人間のともだちだった。ももこは、ピンク色のぬいぐるみだったが、まさこはおかっぱの学生だった。私たちは、高校生の頃、同じ部活に入っていた。
それは、きれい部というところだった。全国ひろしといえども、このきれい部は、私たちが通う、この高校にしかない部活だった。私たちは、自分がきれいと思えば、たとえ他人が身の毛もよだつようなものだとしても、写真をとったり触ったり、眺めたりして、遊んでいた。いや、遊んでいるのではない。ちゃんと部活していた。
どうやったらこんなつやが出せるんだろう。そう言って、まさこは、雨上がりの道路に落ちていた太いミミズを手にとって、目に近づけながら言った。
あんまり触ったらかわいそうだよね。そう言って、まさこは草むらの上にそのミミズをそっと置いた。
きれいだね。と私はそのミミズの写真を撮りながら言った。けれど触った方がもっとそのきれいさが、わかると思った。
 そんなきれい部だったが、卒業とともに、まさこはちょっと遠くで一人暮らしを始めた。それからは連絡をとっていない。私は電話が嫌いだし、メールもできなかったから、しょうがなかった。手紙という手もあったが、郵便局へ行くのも嫌だし、切手を持つと手がべたべたするので、できるだけ切手を触りたくなかった。

それでも今、私はまさこを頼るしかなかった。まさこは誰も知らないようなこと、私がする特殊な質問にも、最初から、何の問題もなかったように答えてくれる。そんなところが、すきだった。
まさこの電話番号を調べてみる。私は電話をかける前と、呼び出し音が鳴っているときの緊張を、切手を触ったとたんに噴き出る手汗と、それに伴うべたべたと引き換えに謹んでお受けした。
 ベルが鳴った。あ、やめれば良かったと、私は飛び降りた瞬間に感じるであろう感情を抱いた。
そう、そうだ、まさこも電話が嫌いだったかも。
がちゃと音がして、まさこが出た。八年ぶりだった。
「どうした」
もしもしも言わないで、まさこが言った。
あ、懐かしい、この声、と思いながら、虚ろに私は答えた。

「ももこがいなくなった」
「それは大変だ」
それだけで、私の大変さをわかってくれるのか、まさこよ。
「わたし、電話かけて聞いてみたけど、だめだった」
「電話では教えてくれない」
確信に満ちた声で、まさこはいった。この声の中で、私は青春をすごしてきたのだ。
「どこか知ってるの?ももこの居場所を教えてくれるところ」
「はい。」
まさこは時々、ため口の途中でも「はい」という癖があった。
「教えて。私どんなところでも行くから」
「でも、出られないんじゃなかったっけ?家」
そうなのだった。私は、高校を卒業してから、一回も外へ出られなくなってしまったのである。どうしてそうなったのか、私にもわからない。玄関を出ようとすると、何かとてつもなく悪いことが起こるような気がして、一切外へ出られなくなってしまったのだった。だけど、なんでそれをまさこが知っているんだろう。卒業してから一回も会ってないのに。
なんで知ってるの?と聞くと、「風のくしゃみ」とまさこは言った。
風のくしゃみ?うわさじゃないんならいいや。と私は思った。
「ももこを探すためなら、出る」と私は言った。言った後で、自分の発言にびっくりした。
ほんとに出れるのかよ。と



2.まさこのいったところ


私は必死になっていた。これで手がかりがみつからなければ、私とももこはもう一生会うことはできない。そう思った。まさこにわからなかったら、あと誰を頼ることができるだろう。
「どこに行けばいいんだろう」
「まず、アジサイの咲いているところに行って、その花の間を廊下を走る時のように、少し罪悪感を持って覗きます。そうすると、今度はどこに行けばいいか見えてくるでしょう」まるで占い師のようだ、まさこは。と私は思った。「まさこは知らないの。そこからどこへ行ったらいいか」
「うん、知らない」そう、まさこははっきり言った。そして、がちゃんと電話が切れた。
やっぱり、まさこも電話が嫌いだったのだ。
必要な時以外は、電話しないようにしよう。と私は思った。けれど必要な時には、これからは電話しよう。とも思った。まさこの声が、胸ポケットの中にしまわれたように、あたたかかった。
アジサイを探しに行くか。
けれど、アジサイはいつ咲くのだろう。なんとなく6月というイメージがあった。
けれど今は4月だった。
私はそれから2カ月待った。その間、私がどんなに辛い思いをしたろうと思うかもしれないが、そんなことはない。私にとって2カ月間とは、本当に一瞬のうちに過ぎてしまう時間なのだから。それならば、その間、ももこがいなくても寂しくないのではないか、とも思ったが、実際、そうだったのである。私はももこがいない寂しさを一つも感じなかった。ただずっと、何かが痛かっただけだった。
あっという間に2カ月が経っていた。雨が降っている。激しくもなく、弱くもなく。ちょうど傘に当たる音が聞こえるくらいには降っていた。
今日かな、探しに行くのは。そう思った。
玄関に行ってみた。私の靴はそこにはないと思っていたのに、高校の卒業式に履いていったローファーが、そのままの形でそこにあった。
母の仕業だと私は思った。靴の周りだけ、少しほこりがたまっている。めんどくさがりの母が、玄関を掃くときに、靴を持ち上げてその下を掃かなかったのだろう。つまりその靴の下には、8年分のほこりがたまっていた。
私はそのローファーを履いた。そして、かけてあった青い水玉の傘を手に取った。
そして玄関の戸を押しあけた。


けれど扉は、開かなかった。
せっかく勇気を出したのに。
いくら外へ出る決心をしても、物理的に戸が開かないのならばしょうがない。
と、私はあっさりリビングへ戻った。
まあ、まあ、そう焦らずに、これでも飲んでいきなさい。
と、暖かいカフェオレを出してくれたのは、おばあちゃん子だった弟の順だった。
おばあちゃんは、去年の夏頃死んだ。それからは順も、家から一歩も出られなくなったのだった。私たちは、だから今、外の世界とは別の空間にいるみたいだった。だから扉が開かないのかな。と、私は順に言った。
「そんなことないよ」と順は言った。
「おばあちゃんは、言ってたよ。君子が外に出る時は、みずうきわで泳ぎ出る。ってさ」
「ってさ。っていったって、何言ってんだか分んないよ」
おばあちゃんは、ちょっとわからない単語を時々使うひとだった。それが詩的な表現なのか、それとも私が知らないだけで、そういう単語が実在するのか、私にはわからなかった。なにしろ祖母は107歳まで生きていた人だから。そう。だから、私どころか、もう古い辞典にしか載っていないような死語も、普通に使っていた可能性もあった。
それでも順は、そんなおばあちゃんのことばを大事に持って生きていたから、将来は、生き字引的な人になるのかもしれない。
「あんた、みずうきわって何か知ってるの?」
「知らないけど、想像はできる」
「じゃあ、どんなもの?」
と私はカフェオレを飲みながら答えた。
温かいカフェオレが、心に染み渡った。
「日本一売れ行きがいいコンビニに夏だけ売っている浮き輪のこと」
「そのコンビニでしか買えないわけ?」
「そう」
そんなので私は泳ぎに出るのか。まだ6月なのに。と私は思ったが、口に出さなかった。彼なりの解釈も、私は嫌いではなかった。ただ的外れではあったかもしれないが。
真実はもう永遠にわからない。と私は思った。祖母はもう生きてはいないのだから。
カフェオレを飲み終わったので、私は台所にコップを持っていった。
私は今度こそ、旅立っていくことにした。
玄関に行くと、自然にドアが開いていた。
今度こそ、泳ぎ出せそうな気がした。みずうきわで。


3.としろうくん


私は今度は白い傘を持って玄関を出た。
傘を開くのは8年ぶりだった。どうやって開くのか、わからないかと思ったけれど、すんなりと開けた。それこそが、私が外に出て最初に行った第一歩だった。
玄関の前の階段を下りる。ローファーのすき間から、雨が流れ込んできた。
それでも私は裸足だったので、それを気持ち悪いと思わなかった。
もう、全部濡れても良いと思っていたからだった。これが、濡れたくないと思っていたら、きっと気持ち悪かっただろう。
私は二、三歩歩いてみた。すると、後ろの方で声がした。
「君子」
「何?」と、私はとっさに後ろを振り向いた。

「やっと脱皮したか」
「蛇みたいに言わないでくれる」
やっと脱皮したかと言ったのは、隣の家に住むとしろう君だった。としろうくんは新聞配達をしているので、いつも私の家に早朝4時にやってくる。私はその時間、まだ起きていることが多いので、としろうくんがスクーターの音をたてて遠くまで行ってしまうまで、いつも部屋の中で息を殺して寝たふりをしていた。けれど部屋の電気はいつもついていたのだから、きっと起きていることはばればれだったと思う。それでもとしろうくんは、何も言わずに、毎朝4時に家へやって来ては新聞を差し込み、またスクーターで次の家へ行ってしまうのだった。
私は、遠ざかっていくスクーターの音が聞こえると、いつも急激に眠気に襲われた。その音は、私にとって、まさに、逆目覚ましの役割をしていたのだった。
そんなとしろうくんと、約8年ぶりに話した。とっさのことだったので、うまい返しができたもんだと私は思った。
「どこ行くんだ」とまた声をかけられたけれど、今度はとっさのことではなかったので、答えられなかった。私はとしろう君がさしているオレンジ色の傘に、ぼんやりする目の焦点を合わせた。
ようやく、「う。うん」とだけ言って、私は逃げるように走り去ってしまった。信号のところまで来て振り返ると、としろうくんは私に無視されたことなどもう忘れてしまったかのように、向こうの方に歩いて行った。私はすこし、めまいを覚えた。いつものように、眠気が襲って来たのかと思ったが、それとはちょっと違っていて、親戚のようなものだった。
とにかく、第一関門は突破した。と私は思った。
「さて、次は、どこへ行こうかな」
アジサイを、とにかく探さなければならない。
けれどアジサイがどこに咲くのか見当もつかなかった。家の周りにはない気がする。
私はバス停に向かった。
そして、来たバスにとりあえず乗ってみた。ここまでの私は、怖いもの知らずだった。なぜならポケットに、一万円が入っていたからだ。
この一万円は、去年のお正月におばあちゃんにもらった一万円札だった。それが最後のお年玉だった。
おばあちゃん、ありがとう。これがあるおかげで、君子はバスに乗れます。
そして、私は一番前の席に座った。いつの間にか、バスの電工掲示板は、動く画面になっていた。前を向いていると、流れ行く文字たちが自然に目に入ってくるので、私は疲れてしまった。途中で目を閉じようとしたが、本来の目的を思い出した。私はアジサイを探していたのだ。ももこを見つけるために。
私は窓に目を向けた。いつのまにか、雨は止んでいる。私はおでこをガラスにピッとつけて、道路脇の緑に目を凝らした。けれども雑草しか見当たらない。やがてバスは住宅街に入っていった。
すると、道路に面した植え込みに、何か紫色の物が見えた。
「あった」
私はその瞬間、とまるボタンを押した。我ながらすごい反射神経だった。昔から、これだけは誰よりも早く押すことができた。目的地の場所が車内に流れた瞬間に、私はもうボタンに手を伸ばし、押しているのだった。
 ピンポンとなって、私は降りようとした。そして、そこで致命的なミスを犯したことに気づいた。
バスでは一万円札は使えないのだった。
同じお金なのに、一万円札は差別されている。出すときに、すみませんと言ってレジに出す人もいる。なぜ一万円は一番高くて偉いはずなのに、申し訳なさそうに出さなければいけないのか。それは子どもの私にとって不思議なことだった。今わかった。一万円札は、バスでは使えないのだ。
小銭はない。何しろ私は一万円札しかもっていないのだ。丸腰なのにおしゃれして、戦場に来たようなものだ。私はおたおたしながら、運転手に申し出た。
「す、すみません。一万円しかもってなくて」
「え?どうするの?おつり出ないよ」
「ど、どうするって…」私はもうポケットから出した一万円札を手に震えるしかなかった。
後ろにはお客さんが詰まっている。
「早くすれよー」
「何やってんだよ」
「次の電車に遅れちゃう」
「いいから通せよ」
実際に言われたわけではない。けれど、イライラした空気が、振動となって私に伝わって来た。私は涙目になって、こう思った。おばあちゃん、ごめんなさい。一万円札では、君子はバスに乗れません。
その時だった。不意に後ろから、小銭が来た。
「いいですよ、私出してあげるから」
それは、天からの助けだった。後ろのおばあさんが、眼鏡をしていた。そして、私の分までお金を払ってくれた。



4.アジサイとは


「あ、ありがとうございます」と私はおたおたと言って、逃げるようにバスから飛び出した。こんな時、どうしたら良いのだろう。連絡先を聞くとか、すればいいのだろうか?
私はドキドキしながら、おばあさんが降りて来るのを待った。
「何にも気にしなくていいから」おばあさんは降りてくるなり私の腕をポンとたたき、その流れのまま、すうっと道路を渡って行ってしまった。
私はその間、「や、でも」などと、ことばにもならないような音声を吐きながら、汗していた。
バスがおばあさんと共に消え去ってしまっても、私の手は震えたままだった。気づくと、私の手の中には、役立たずの一万円札がまだ握られていた。
「こんなもの」と、私はその一万円札を道路にたたきつけ、踏みつけてやりたくなった。けれどもそれを何かが押しとどめた。
 私は一息つきたかった。アジサイと向かい合うためにも。
アジサイがある方向はわかっていたが、なぜか私は、まだそちら側は見ないようにした。一旦落ち着こう。
アジサイのある植え込みは、ブロックでできていて、腰をおろせる高さになっていた。私はなるべく花の方を見ないようにして、ゆっくり近づき、そこにふぅと座った。
猫背の私は向こう側の歩道を歩いている小学生にも満たない人生経験で、今この場所に座っていた。どんどん自分の背中が丸くなって、このまま土の中に埋め込まれてしまいそうだった。けれどもそれは、そんなことはまさこがゆるさない。と私は思った。まさこはそんな私をいち早くみつけて、写真を撮り、きれい部に持っていくだろう。
 ここで、炭酸飲料でも飲みたいなぁと私は思った。自分からふいに出た欲望に、私は驚いた。けれど、ここでも役立たずの一万円札は、自販機では使えなかった。しかたない。と、私は炭酸飲料を我慢した。
そして、振り向いた。アジサイの方向を。
ん?と私はアジサイを二度見した。バスから見た時は、確かにアジサイだった。それなのに。目の前にあったのは、アジサイではないみたいだった。アジサイと言えば、あの、おなじみの4枚一セットの、特徴的ながくだ。けれども目の前にあるのは、1枚1セットの、つまり、アジサイらしき色をした、アジサイらしき形をしたがくの、単なる集合体であった。
そして、風が吹くと、ふーっと全体が揺れるのだった。
「これは……、アジサイなのか?」
私は自分のアジサイの概念に自信が持てなくなってしまった。バスから見た時は確かにアジサイだと思ったのに。あきらめて帰ろうか、と私はバス停に向かって歩き出した。



5.おばあさんの声


「もう、あきらめてしまうのかい」と、私の後頭部で声がした。それはクリスマスの時期になると聞こえてくる讃美歌の幻聴のようなはかなさだったので、私は最初気にもとめなかった。けれどその声には聞き覚えがあった。さっき、さっきだ。この声を聞いたのは。さっきあんなにも天使の声に聞こえたバス賃を払ってくれたおばあさん。その声なのに私は無視をしようとしてしまった。しまった!と私は振り向いた。アジサイのようなものが、ふあーっとまた風に揺れた。おばあさんはいなかった。
私はまたクラっとした。

しばらく目を閉じた後、私は静かに静かに、そのアジサイのようなものに近づいた。
中から声が聞こえる。
その声はとても小さかった。

「ゆるりとおいで、おいでませ、なるべく早く、おいでませ
それこそぎょうざがこげぬうち」

不思議なメロディーだと私は思った。なんだか楽しそう。
そう思ってしまった私は、あっ、とまさこの注意を思い出した。
そうだった。
ここは、少し罪悪感を持って覗かねばならなかったのだ。
私は気をひきしめた。どんなことがあろうとも、楽しいなんて思っちゃいけない。そんなこと、思う資格もないし。
そう思うと、今まで自分がどんなことをしてきたのか、そしてどう生きて来たのか、それ自体が罪なのではないかと思うほどの強い、強い罪悪感が、胸の奥に広まってきた。私はひゅるり、とアジサイのようなものが揺れたのを感じた。その瞬間、私は紫の花のすき間に落ちていった。



6.失敗の理由


「ちょっと手前で落ちちゃったね」と、また天使の声が聞こえた。

私は自分の体が、さかさまになっているのを感じた。目はまだボヤっとしていて見えない。というか、ここが暗すぎて見えないのだった。

「あの、さっき助けてもらった……」まだうまくことばが出てこない。
「あなた、ここに入る時の方法、守ったかい?」
「はい。まもりました」

「それだったらここにはいないはずなんだけどね」
「え、じゃあ、ここではももこのことわからないんですか?」
「ももこ」ということばが自分の口から耳に届いて、私はちょっとほっとした。ももこ。そう、ももこを探すためにここまで来たのだ。

「あんたさ、何を考えてた?」
「それは……言いたくありません」
「それなら言わなくていいけどさ、きっと、ものすごく重いことを考えてたんじゃない?」
「そうかもしれません」
「そこはさ、かるーく考えて、さささっと走って渡らなきゃいけなかったのさ。だけどあんた重すぎて落ちちゃったんだね」
「どこからですか?」
「廊下だよ」
わたしはまさこのことばをまた思い出した。「廊下を走る時のように」ここも、守らなければならなかったのだ。
「じゃ、じゃあ、もう上がれないんですか?」
「どうだろうねぇ」
「え、そうなんですか?どうしよう」
私は絶望的な気持ちになった。
「大丈夫。道をみつければいいだけだから。その前に、そこから降りておいでよ」
「どうやって降りるんですか?」
「そこにある、ハンドルを回せばいいんだよ」
「ハンドル?」
そういったとたん、自分の目の前に、車のハンドルのようなものが見えた。運転したことはなかったけれど、なんとなく私はそれを一回転させてみた。そのハンドルの動きと逆向きに、ぐるんっと自分の体がお腹を中心に一回転した。
そして、私は地面に落ちた。落ちたと言ってもそれほどの衝撃ではない。自分でジャンプして、そのあと着地するみたいな感覚だった。せいぜい20cm位だ。そんな低いところにいたのだろうか。
着地すると同時に、目の前に、あのおばあさんが現れた。さっきまで声だけだったから、なんだか安心した。
「あ、あの、どうしたらいいんですか?」
「それは、自分で見つけるしかないね。私はここの住人じゃないから。」
「え、そうなんですか?」
「そうだよ。観光に来ているだけだからね」
「どうやって帰るんですか?」
「一緒に帰ろうとしてるね。だめだよ。あんたはやることがあるだろう。私と違って」
「そうですけど、でも一人なんて」
「一人がそんなに怖い?今までも、一人でやってきたじゃない?」
そうだ。基本、私は一人だった。
「そして今も一人。そんな感じで、大丈夫」

どんな感じだろうと思ったけれど、私はとにかくそのおばあさんと別れた。おばあさんは、暗闇の中に溶け込んでいった。
とにかくおばあさんと同じ方向には行けないというのはわかったので、私はおばあさんと反対方向に行くことにした。こんな不安な時に、ももこがいればよかった。そしたらももこを抱いて、不安な道へ踏み出せるのに。
私は手を胸のまえにかざして、まるでももこを抱いてるときのような形にした。そしてエアーももこを抱いたまま、暗闇への一歩を踏み出した。



7.気持ちがずれる


「そんな気持ちのまま、どこいくの」と、ふいに声をかけられ、私はあやうくエアーももこを落としそうになった。
ふりむくと、そこには、帽子を逆にかぶった細い男の子が立っていた。
その子は首が細くて、今にも頭の重さで折れてしまいそうだった。
「そんな気持ちって、あなたにわかるの?」
「うん、わかるよ。」と言って、その男の子は目をパシパシと瞬きした。
「じぶんでもよくわからないのに」

「あなたは、こう思ってる。こっちにも行けないし、あっちにも行けないって。」
「そうかも」
「そんな気持ちだと、いつまでも、どこにも行けないよ。ここにいてもいいけどね。」
「そう、じゃあ、しばらくここにいようかな」
「そう、じゃあ、僕と遊ぼう」
「いいよ」
男の子は帽子をひらっと外すと、それをポンと放り投げた。すると帽子は空中で一杯の水に変わった。
「この一杯の水を、どっちが先に飲み切るかどうか」
「え?どういうこと?そんなの私が不利に決まってる」
「どうしてそう言い切れる?」
「だって水は今、あなたの手の中にある。」
「それはどうかな。」
「え?」
私は自分の手元を見てみた。いつのまにか、持っていたエアーももこは、一杯の水に変わっていた。
「わっ」
「そんなに驚くことはないよ。ストローいる?」
「い、いらない」
「そう、じゃあ、スタート」
私は慌てて水を口に持ってきて、それを飲もうとした。こんな一杯の水くらい、すぐに飲み干せると思っていたのに、なんだかそれは今まで飲んできた液体のどれよりも飲みにくかった。不味いというのでもないし、とろみがついているのでもないのに、なぜか、飲みにくいのだった。一生懸命飲もうとしても、のどの奥でつまってしまう。私はどんどん息が苦しくなってきた。一旦やめようと、水を口から離すと、その隣で、男の子が余裕しゃくしゃくで、ストローでそれをおいしそうに飲んでいた。まもなく、ストローに空気が入る音が聞こえた。
「はい、ぼくの勝ちー」
「え、ずるい。」
「どうしてさ」
「ストローの方が飲みやすいって知らなかった」
「一応聞いたじゃない」
「まあ、そうだけど」
「じゃあ、僕の願い事聞いてくれるよね?」
「え、そんな約束してたっけ?」
「そういう約束なのです。ここは」
そう言って、その男の子は、後ろの壁を指さした。薄い茶色の土壁で、そこにはポスターが貼っており、「負けた者は勝ったもののいう事をきくこと」と書かれていた。
そんなものいつから貼ってあったんだろう。その前に、こんなところに壁なんてあったっけ。
「な、なにをすればいいの」なにか怖いことだったらどうしよう。
私は手に汗をかいていた。
「それは、これでーす!」
そう言って男の子は、どこからか毛糸を取り出した。
「これで、僕のマフラーを編んでください」
「え?」
思わぬかわいいお願いに拍子抜けした。マフラーなら小学生の頃に編んだことがあるので、なんとかできそうだ。
「それでいいの」
「うん。首が寒くしょうがないのさ~」
「そんなの他の誰かに編んでもらえばいいのに」
「知ってる?僕は編めないし、ここに来る人って言ったら、自分のこと不器用だと思ってる人ばかりで」
「私だってそうだけど」
「けれどあなたは編めるでしょう」
「まぁ、編めるけど」
「じゃあ、早いとこ編んでよ。もう今でも寒いんだからさ」
こんな6月に?と思ったけれど、それは言わないでおいてあげた。あまりにもその男の子の首が細かったから、防寒というよりは、補強の意味で、すぐにでもマフラーを巻いてあげたいと思ったからだった。



8.編みあがる


私はさっそく毛糸を手に取った。編めると思っていたけれど、最後に編んでから、もう何年も経っていた。本当に編めるだろうか。
編み始めると、すぐに思い出した。手が覚えてくれていたみたいだ。
編んでいるうちに、どんどんスピードが上がっていった。自分の手じゃないみたいだ。
こんな風に生きていた時もあったなぁと私は思った。無意識に、手を動かし、無意識に息をして、それを苦しいとも思わないで。
あっというまにマフラーが編みあがった。「はい、できたよ~」
けれども声は聞こえなかった。あるのはさっきの石の壁だけだった。ポスターがはがれかけている。その下の石壁に、浮彫ができていた。さっきの男の子の浮彫だった。実物大で、男の子は座禅を組んでいるときのように座って、目をつぶっている。正確にいうと、首から下、鎖骨のあたりから浮き彫りになっていて、頭は前に突き出て、壁から離れていた。
私は迷わず、その首にできあがったばかりのマフラーをかけてあげた。

さてと。行くか。と私は踵をかえし、まだ見えぬ道へと入って行った。なぜか道が見えないのに、私には確信があった。そこに第3の道があると。



9.看板試験


ありがとう、ありがとう
と、後ろの方で聞こえた気がした。けれど私はどういたしましてと言わなかった。それを聞かないふりをして、まっすぐ歩いて行った。
どのくらいかわからないが歩いていると、橋が見えて来た。手前に看板がある。
「この橋とても危険。受からないように」と書かれている。
受かる?何に受かるんだろう。と私は思った。試験でもあるのだろうか。
けれど受からないなら簡単だ。全部間違った方を言えばいいだけなんだから
私は一歩踏み出した。橋がぎしぃと音をたてた。
「問題です」
いきなり橋がしゃべり出した。
「へっ」予想していたのにもかかわらず、私は変な声をだして驚いてしまった。まさか橋がしゃべるとは思わなかった。
「一月一日、何があるでしょうか」
「おしょうが……」と言いかけて、これは正解してはいけないんだと思い出した。
「ええと、こいのぼりです」
「はい、正解!」
「えっ」と私は思った。
「では第2問。今、何問目?」
2問目と言ったら正解になってしまう。「3問目!」
「正解!」
また正解してしまった。むしろ、正しい答えを言わない方が、正解になってしまうのだろうか。それなら逆に、この試験に受からないためには、正しい答えを言った方がいいのだろうか。
「では、最終問題です!道の色は?」
ここで、本当にわからない問題が来てしまった。
「みち?道って、どこの道?」するとさっき編んだマフラーの色が、頭の中に浮かんできた。何しろさっきまでその色をずっと編みながら見ていたからだ。
「紫!」
「ぶぶー!不正解!」
ほっ良かった。
不正解なあなたは、合格です!!
え?受かってしまった?
私は訳が分からなくなってしまった。
そしていきなり、足元にあった橋がぐらぐらと揺れ始めた。その揺れはどんどん激しくなり、ついに私は宙に放りだされてしまった。


10.落ちなかった


宙に浮いた私の体は、かなり高いところまで飛び上がった。そして、柔らかい道にトサッと落ちた。そこは薄紫の綺麗なサテンのリボンの上だった。それが風にゆれて、ふわふわとなびいている。その上に私はいた。私はその巨大なリボンにつかまりながら、おそるおそるリボンの端から下の方を覗いた。ずうっと下の方に、さっきまでいた危険な橋がまだ揺れているのが見えた。
ふうと私はとりあえず息をついた。
とりあえず、落ちなくて良かった。と私は思った。

サテンのリボンは絶えずなびいている。この道を進むのは大変そうだった。けれど風に吹かれているのは気持ちよく、ちょっと疲れた私は、この巨大なリボンの真ん中に体をうずめて少し眠ることにした。横になってみると、思ったとおり、気持ちよかった。ハンモックって乗ったことないけれど、こんな感じかな。と私は思いながら、軽い眠りについた。

どの位眠ったのだろうか。私は目が覚めた。目が覚めたらどこか違う場所にいるかと思ったが、眠りに入るまでと同じ、薄紫の巨大なリボンの上だった。
そうか、自分で歩いて行かなきゃならないんだ。
そう悟った私は、立ち上がろうとした。けれど風になびくリボンの上は、足が沈むし、揺れるし、歩くどころか立ち上がることもできなかった。私は立ち膝のまま、すこしずつ前へ移動していった。
やがてリボンの先に、飛び込み台のような板が見えた。
リボンはその板の先から出ていた。私がその板に到着したとたん、さっきまで吹いていた向かい風がピタっと止んだ。そして、振り向くと、今まで風になびいていた巨大リボンが、しゅうんと下に落ちていくのが見えた。
私は急に足が震えて来た。さっきまであそこで寝ていた自分がおそろしい。私はなるだけ後ろも横も見ないようにして、前に進んだ。
こんなに足が震えるのに、先に進むのは止めなかった。
なぜかって、もう道は下にしぼんでしまったから。


私がたどり着いた木の板は、とても古めかしかった。もう何十年も前からあって、だからといってお寺の廊下のようにピカピカに磨きあげられているわけでもなく、雑巾で拭いたら真っ黒になるだろうな。という感じの質感だった。そして、その木の板の中心には、白い丸のペイントが定期的に描かれていた。けれどもその白い丸も、何十年もの間、靴底との摩擦があったのか、かなりはげかけていた。
その白い丸の間隔を見ていると、急に何か懐かしい感覚がよみがえってきた。
私、この板見たことあるわ。
「あ、これ、廊下だ」
それは、私が通っていた小学校の廊下だった。その小学校は、私が卒業した何年か後に校舎の老朽化により、取り壊されていた。
もう、ない、あの学校の校舎。
そう気づいたとたん、今まではただの板だったものの両端に、ぐいーんとエメラルドグリーンの壁が生えてきた。
それも懐かしい、小学校の壁だった。
私は壁のどこかに隙間がないか探した。そこから、壁の外側がのぞけるのだ。
「あ、あった」
そうっと覗いてみると、そこは中庭だった。大好きな中庭!
私は中庭が大好きだった。中庭には池があって、その真ん中に小さな島があった。
そして石造の白鳥が、私を見ていた。あの不思議な空間に、二度と私は戻れないと思っていた。けれど、今、この廊下は、その中庭に続いているのだった。
私は廊下を思わず走った。少しの罪悪感を持って……。


中庭への扉を開いた瞬間、私はあの薄紫のアジサイのようなものが、また、ふぁさっと揺れる音を聞いた。


11.金魚のフン


ジュ―っという音とともに、とてもいい香りがしてきた。それとともに、私はぐーっとお腹が鳴った。「なんのにおいだろう」
私が行ったことのあるレストランでは、こんな匂いの食べ物はなかったはずだ。私の家でも食べたことない。一回も。と私は思った。私は最近、本当にお腹がすくことがなくなっていた。それはお腹がすく前に、いつも食事の時間になっていたからだった。家にいる時も、学校にいる時も、それはやって来た。私はもう食べたくないと思っていた。もう食べなくてもいいのなら、一生それでもいいのなら、それでもいいと思っていた。けれど今、なんとなく、この匂いにつられて、一歩、また一歩と歩きだしている自分がいた。
「さあー、どうぞ。ご試食です」そう言って、一匹のネズミの着ぐるみが、つまようじの先に刺したものを私の目の前に差し出した。
「あぶないなぁ」私はそう言ったものの、さっきのいい匂いがそのつまようじの先から発せられているのがわかっていたので、そそくさとつまようじを受け取った。
「いただきます」
「はい、どうぞー」
ぱくっと入れた口の中で、暖かいものが口の中に広がるのが分かった。そして、「おいしー」ということばが、自然に出た。そのことばが新鮮すぎて、私はびっくりした。
「これ、なんですか」
「きいてびっくり見てびっくり、これは金魚のフンなんです」
「げぇっ」
「ご安心ください。名前が金魚のフンというだけで、本当は金魚のフンなんかじゃありませんから」
「どうしてそんなネーミングにしたんですか?趣味悪い」
「それはですね、この食べ物が、食べる人の味覚に、ずっとついていくからなんです」
「どういうことですか?食べる人によって、味が変わるということ?」
「はい、そうでございます。よくおわかりですね。さすが、ここまで来られただけある」
「私のことずっと見てたんですか?」
「いいえ、そうではありませんけれども、あなた、自分で選んでここに来ました」
「選んで?」
「はい。看板の指示も無視して、ここまで来ました。それだけのことはある。そう言いたいのです」
「やっぱり。私のこと見てたんだ」
「いいえ、いいえ、めっそうもございませんよ。私はただ、あなたが落ちていくのを見てしまっただけですよ。それも偶然にね。けれどもあなたはここにいる。落ちたはずなのに。と、いうことはですよ。あなたはあの看板を無視して、ここにいるというわけです。」
「あの看板って、あの橋の前にあった看板ですか?」
それに対してネズミは、こくりとうなずいただけだった。着ぐるみだから顔は変わらないはずなのに、なぜかそれはドヤ顔に見えた。
「別に無視したつもりはなかったんだけど」
「ところで、この金魚のフンはおいくらですか?」
「一万円です」
「一万円?高くないですか」
「だってこれはその人の味覚にずっとついていくんですよ。そして賞味期限は90年。もしもあなたが年をとって味覚が変わっても。もしもピーマンを好きになって、ゴーヤも好きになって、コーヒーも好きになっても」
「全部苦いものですね」
「もし、そんな風に味覚が変わって行っても、それにぴたりとくっついて、離れない!いつもあなたが思う一番おいしいと感じる味をご提供できるわけです」
「そうなの。けど、ちょっとそれに一万円払うのはなぁ」
「あれ、お持ちですか?一万円」なんだかネズミは私が一万円を持っていることを見透かしているように、にやりとしながら(そう見えただけ)聞いてきた。
「持ってるけど……」私はポケットにあるおばあちゃんからもらった一万円をポケットにいれたままくしゃっとにぎった。手に汗をかいてきた。
あの味をもう一度味わいたい。そう思った。けれど
「やっぱりやめときます。なんか、もっといいことに使いたいから」
「そうですか。それならご自由に」
ネズミは急に冷たい態度になった。
ぐう、とお腹はなったが、私は一万円を手放さなくて良かった。と思った。


12.次の里


ブッブーと、ネズミから離れてあてもなく歩いている私を通り越して、バスが少し先の方で停まった。
「あ、待ってくださーい」つい口にした私だったが、自分が一万円しかもっていないことに気づいた。
「あ、やっぱりやめます」
ブッブーとバスは行ってしまった。
そのバス停には、標識も時刻表もなかった。
いつ次のバスがやってくるんだろう。と私は思った。次のバスが来る前に、両替かそれとも何か安いものを買って小銭を作っておかなければ。
私はあたりを見渡した。けれどもそこは白く霧がかかっていて、何も見えなかった。
どうしたらいいんだろう。そもそも、自分がなぜこのバスに乗りたいのかわからない。乗ったところで、どこで降りたらいいのかもわからないのに。けれども私はバスに乗ってしまいたかった。

ブッブーと、すぐに次のバスが来た。けれど、まだお金は崩していない。私はバス停から一歩あとずさった。

それなのに、バスは私の目の前で停まった。
「乗らないんですか?」運転手がこちらを見て話しかけて来た。
「あ、あの私一万円札しか持っていないんで」
すると運転手は「いいんですよ。そんなことは気にしなくって」と言った。
そんなこと言っても、どうしたらいいんだろう。
「さあ、早く乗ってください。臨時便は今だけですから」
これは臨時便なのだろうか。だとしたら、なぜ臨時便など出るのだろうか。さっきのバスだって、別に混んでいなかったのに。
けれども私は「今だけ」ということばに焦りを感じ、そのバスにさっと乗り込んでしまった。
けれどもそれが間違いだとわかったのは、乗ったバスの中に、さっきのネズミの着ぐるみが乗っていたからだった。
「はぁい、お客さん」
「あ、さっきはどうも」
「わたし、仕事帰りなんですよ」
「そうなんですか?」
「はい。あなたが来るのを待っていて、あなたが来終ったので、帰れるんですよ。いいでしょう?」
随分失礼な言いようだと思ったが、「はい、いいですね」と私は答えていた。
「どうしたんです?青い顔して」と、よく見えているのかいないのか分からない目で、ネズミがこちらを見た。
「あの、私一万円札しか持ってなくて。もしかして、両替してもらえます?」
私も失礼だと思いながらも、このネズミにならなんだか失礼していい気がして、試しに言ってみた。
「もちのろんですよ~!!!」と、なぜかネズミは急に上機嫌になって、いそいそと着ぐるみの衣装のポケットから、でかい財布を取り出した。そんなとこに入れて大丈夫なのだろうかと私は思ったが、私もさっそくポケットから一万円札を取り出した。
ネズミは、財布の中から、じゃらじゃらと小銭を出し始めた。
そして、私の掌に一枚一枚置いていった。
どんどん積もってくる小銭を前に、私は心配になってきた。手からあふれそうだ。
「これ、多すぎて計算できないですよ」
「そんなことないですよ。数えてから出してますから」
絶対に適当に出したと思っていたのに、確認してみると、ぴったりと一万円分あった。私は隣のバスのシートに広げて数えた小銭を、自分のポケットにじゃらじゃらと入れた。ポケットが非常に重くなった。
そして一万円をネズミに渡した。おばあちゃんからもらった一万円札を渡すのは、少し惜しい気もしたが、バスから降りるためには仕方ない。
そして少し落ち着くと、窓の外を見た。窓の外はいつの間にか雨が降っていた。
「あ、傘」と私は思った。いつの間にか、手の中にあった白い傘がなくなっていた。私は記憶をたどった。いつから持っていなかったんだろう。

一台目のバスの中に、忘れて来たんだ。と、私は、かなり序盤で傘を忘れていたことに気づいた。

ざーっと窓に雨が当たる音がしている。

やけに雨の音がはっきり聞こえる。というか、周りが静かすぎるのだ。あるはずの音が聞こえない。なんだろう。

そうだ。バスのエンジン音が全く聞こえない。それどころか、バスの振動すら感じない。

相変わらず、窓の外は靄がかかっている。


「あの、もしかして、このバス、停まってますか?」と、後ろの席のネズミに聞いた。

「グー」
ネズミはもう寝ていた。

私は行き先を見ようと、バスの電光掲示板を見た。ここのバスは、動かないタイプだった。
けれど行き先が書いてあると思った場所には、ただ光るオレンジの文字で
「ここまで」と書いてあるだけだった。


きっと停まっているんだ。と私は思った。どうせどこで降りたらいいのかわからないのだから、ここで降りても同じだろう。
私はバスの前方に歩いて行った。
そして、運賃箱にお金を入れようと思ったが。そこで私は自分がいくら払えば良いのかわからないことに気づいた。整理券も取っていない。しかも、どこで乗ったのかもはっきりしない。私は焦り始めた。なんで今まで気づかなかったんだろう。ネズミに気を取られすぎていた。と私は果てしなく後悔した。


運転手さんに「あの、すみません。どこから乗ったのかわからないんですが」と言いながら、私はポケットの中にある、あらゆる小銭を探った。
「一万円です」と運転手はさらりと言った。
「え?」
今まで路線バスでこんな高い金額など聞いたことがない。そのくせ、既視感がものすごくあった。
「あのう、高すぎませんか?」
「そんなことありませんよ。どうぞ、こちらに入れてください」そこはお札を入れる所だった。
「あ、あの小銭しか持ってないんですが」
「あ、小銭でもよろしいですよ~」また運転手はさらりと前を向きながら言った。
「わ、わかりました。」
私は急いでポケットの中にある小銭をすべて運賃箱に放り込んだ。
こんなことなら、両替なんてするんじゃなかった。

「はい、ありがとうございます」

私はバスを降りて、大きく息を吸った。
ざーっと雨が、無一文になってしまった私を打っていた。

バス停の標識には、「次の里」と書いてあった。



13.とことこ屋さん


私は絶望の淵にいた。こんなことなら、バスに乗らないで、あのネズミから食べ物を買った方がまだましだったかもしれない。こんなに近くに移動するのに、私は全財産を使い果たしてしまった。私はあてどもなく歩いた。
どうしよう。どうしよう。もうお腹が減って来た。
「あら、あなた、良い髪してるわね」
後ろから、おばさんが話しかけてきた。
「ちょっと雨宿りしていきなさいよ」
おばさんはある建物から半身を出して話しかけていた。その建物の看板には、
「とことこ屋」と書いてあった。
私はもうがっくりときてしまっていたので、そのおばさんが一筋の光に見えた。おばさんは明るそうだった。私はその明るさに引き寄せられていった。

からんと店に入ると、良い匂いがしてきた。
お腹がぐーっとなった。
「あら、お腹すいてるの。これ、食べなさい」と言って、おばさんはクッキーを出してくれた。
「ありがとうございます」
私はクッキーを一口食べた。ものすごいおいしくて、ほほが痛くなった。

「あなた、ここで働かない?」
突然の申し出に、私はクッキーを吹き出しそうになった。
「なんでですか?」
「良い髪してるから」
「そうですか?」
私の髪はずっと切っていなかったので、とてつもなく長くなっていた。
「どんな仕事ですか」
「えーっとね。人の髪を採取して、その成分を調べるの。成分を調べると、その人がどんなことを考えているのか、わかるのよ」
「へー、そんなの聞いたことありませんでした。」
「じゃあ、よろしくね」
「はい」
なんだかあっというまに私はここで働くことに決まってしまった。履歴書もなにも出していないが、これでいいのだろうか。

「じゃ、これとこれを絞ってね」
おばさんは、髪の毛のまとまりを私に手渡した。
「はい」
その髪の毛は濡れていたので、私は桶の上で髪の毛の水分をしぼった。
「この髪の毛たちは、どこから採取したんですか?」
「それはね、採りに行くのよ。明日連れて行ってあげる」
そう言っておばさんは、他の髪の毛のまとまりを何かの液体に浸していた。

髪の毛の水分を絞る仕事を、私は延々と繰り返した。だんだん腰が痛くなってきた。
「今日の仕事は、これで終わりよ」
私はほっとした。

「あなた、家がないんでしょ。このお店に泊まっていっても良いわよ」
「ありがとうございます」

おばさんは自分の家に帰って行った。私はお店のソファーに横になった。クッキーしかまともに食べていないので、まだお腹が減っていた。けれどもしょうがない。私は目をつぶった。
しかし、ぐーっとお腹がなって、眠れなかった。
私は起き上がった。
すると、目の前に赤い電話が現れた。おばあちゃんの部屋にあったような昔風の電話で、かわいい布で、受話器の持ち手を巻いている。
ちょっと借りてもいいだろうか。
まさこに電話したい。
私はダイヤルを回した。けれども、その番号は間違っていた。
なぜわかったかというと、その電話がおばさんにつながったからだった。
「もしもし、どうしたの?」
「あ、あの、友達に電話したいんですけど、いいですか?あとで電話代お支払するので」そう言ったあと、私はどれだけ電話代がかかるのだろうと思った。さっきのバス賃のことがあるのだ。
「いいわよ~。電話代はいらないから」
「えっ、でも、もしかしたら1万円とかかかるかもしれません……。」
「あっはははははだ〜いじょうぶ大丈夫。かけたいなら、かけなさい」

あまりにも意外な笑い声に、私はびっくりしてしまった。もしかしたら、ここは、物価がものすごく高いのかもしれない。
「そうですか。すみません。あ、あと、お腹がすいて眠れないんですけど、何か食べるものありますか」
自分から食べ物をねだる自分を新鮮に感じながら、私はそう言った。さすがに、図々しいだろうか。手にピリピリっと電流が走ったようになり、汗をかいた。布が受話器に巻いてあって良かった。けれども、おばさんはけろっとしてこう言った。
「あら、言ってなかったっけ?台所にスープがあるのよ。食べて」
「あ、ありがとうございます」
はー、良かった。と思った瞬間、ぐーっとまたお腹がなった。
がちゃりと電話を切ったあと、私はすぐ台所に向かった。
お店の奥の小さな台所に、赤いお鍋がおいてあった。私はそれを温めた。
蓋を開けると、きのこのスープだった。ほんわかした湯気が、私の食欲と眠気を誘った。思ったとおりにそのスープは体に染み渡り、私はそのまま、まさこに電話をするのも忘れて眠ってしまった。


14.活動


朝になり、おばさんに起こされ私は目をさました。
「さあ、朝ごはんよ」
そう言っておばさんは、フランスパンを焼いてくれた。昨日の残りのスープと共に、私は味わった。
「昨日はお友達に電話できた?」
「あ、いえ、忘れて、寝てしまいました」
「あら、そう。それはよかったね」
何がよかったのか分からなかったが、私はおばさんについて家を出ていった。

しかし、なかなか目的地には着かなかった。どこまで歩くのだろう。ローファーの足元は限界に来ていた。けれども、運動靴で来れば良かったとまでは、思わなかった。
段々私の歩みが遅くなって、おばさんに追いつけなくなって来た頃、ようやく畑らしきものが見えて来た。

「ここよ」
おばさんは、持って来た大きなリュックを開くと、そこから、虫網のようなものを2本取り出した。かなり長いのに、リュックのどこに入っていたんだろうと私は思った。
「さ、これを持って、待機よ」
「あ、はい」
これが昨日言っていた、髪の毛の採取なのだろうか。
私はじっと待った。立っていると、また足が痛くなってきた。
私はたまに背伸びをしたり、足踏みをしたりして、足を動かした。
しかしおばさんは微動だにしない。きっと慣れているんだ。
そんなおばさんを見ていると、その視線の先に、大きな木があることに気づいた。そしてその瞬間、その木の向こうから、人がやって来るのが見えた。
「きたっ!」おばさんは、虫網をぎゅっとにぎった。
木の向こうから現れた人は、とても長い髪をしていた。私と同じみたいだ。
そして、木の前に立った。そして、木に向かって何かをしゃべった後、背中を向けて立った。
何をしているんだろう。始終私は、その木と、その木の前に立っている人と、おばさんに向けてそう思っていた。けれど、ようやくその謎がとけた。
木の枝がついーっと動いて、その先にははさみが握られていて、木の前に立っている人の髪の毛を、チョキチョキと切り始めたのだ。目を見張る私の横で、おばさんはしきりに網を振っていた。
風が吹いて、流れてくる髪の毛を、おばさんは網でキャッチしているのだった。
「ほら、あんたもやんなさい」
「はい」
私も木に気を取られながら、網を振った。けれど、私の網にはあまり髪の毛が入らなかった。
髪が長かった人は、とても髪が短くなった。
「最後に、大きいの来るわよ」おばさんは、まだ気を緩めていなかった。
私も真似をして、網をぎゅっと握りしめた。
その時、びゅうっと音がして、一瞬強風が吹いた。私は足をふんばるのが精いっぱいだったが、その時飛んで来た髪の毛の塊をしっかりと網でキャッチしたおばさんを、横目でキャッチすることができた。
木を見ると、前に立っていた人はいなくなっていた。
「さ、帰るよ」とおばさんは言い、私の網を回収すると、またどうやったのか分からないがリュックにつめて、さっそうと歩きだした。
「あの、いっぱい下に落ちてるのは拾わなくてもいいんですか?」と私は聞いてみた。
「ああ、いいんだよ。それはもう、死んじゃってるから」とおばさんは言った。
帰り道は上機嫌なおばさんが終始鼻歌を歌っていたので、行く時よりも早く着いた感じがした。おばさんが歌う鼻歌は、聞いたことのないメロディーで、それなのになぜか懐かしくて、私は生まれた村を思い出した。


15.卒業の手前


家に帰ってソファーに座ると、どっと疲れが押し寄せて来た。
「あんた、初めてだから疲れたろ。もう休んでいいよ」
「ありがとうございます」
「これ、食べてね」と言って、朝、家から持って来たスープを鍋に入れてくれた。
おばさんは作業場で、髪を束ねる作業をしているようだった。
その音を聞きながら、私はスープを飲んだ。今度は、トマトスープだった。
私はそのままソファーで寝てしまった。そしてまた、まさこに電話するのを忘れてしまった。

朝起きると、もうおばさんは来ていた。随分と寝過ごしてしまったようだ。
「さ、早くごはん食べて、手伝って!」
「はい!」
私は、またおばさんが持って来てくれたコッペパンを食べ、顔を洗ってから作業場に行った。
「これは、昨日採った髪の毛だよ。昨日束にしておいたから、この桶の中に入れておくれ」
「はい」
私は言われたとおりに、桶の中に束を入れていった。この桶は、初日に私がこの中から束を取って、髪の毛を絞った桶だった。
「できました」
ふーっと私は息をついたが、桶に束を入れるだけだったので、実際はそんなに疲れていなかった。
「これを、しばらくつけておくんだよ」
「そうなんですね」
「じゃ、今日は、こないだ絞ってもらった髪の毛の声を聞くかい?」
「髪の毛の声?」
私は初日におばさんが髪の毛の成分について言っていたことを思い出した。そういえば、成分を調べれば、その人がどんなことを考えているのかわかるとかって言っていた。
「どうやってやるんですか?」
「こっち来て」
おばさんは、作業部屋の奥にある、カーテンを指さした。そのカーテンの奥に窓があると思っていた。たしかに窓はあるのだが、その窓の向こうにも、一つ部屋があった。私は窓枠を乗り越えて、その部屋に入っていった。その部屋は明るくて、私は最初、目を細めていなければならなかった。私の後に続いて、おばさんも髪の毛の束を何本か持って入ってきた。
部屋の真ん中には、大きな耳が居座っていた。
「なんですか?これは」
「これは、巨人の耳よ」
「本当の人のですか?」
私は、巨人がいるということにも驚いたが、それを持ってきたおばさんに恐れをなした。どうやってここまで持ってきたんだろう。
「もちろん、これは借りてるだけだけどね。巨人はやさしいから、いつだって貸してくれる。自分が眠ってる時間だけだけどね」
「で、でも、眠ってる時間だけってことは、毎日返さなきゃならないんですか?」
またも私は、巨人の存在よりも細かいことが気になってしまった。
「そんなことないのよーおほほ」と、おばさんは笑った。
「巨人の人生は、私たちよりずーっと長いの。だから、巨人の一日も、私たちよりずーっと長いのよ」
「そうなんですね。よかったです」
「じゃ、はじめて行くわね~」
おばさんは、髪の束を一つ手に取り、巨人の耳の中に入れた。そして、こうつぶやいた。
「どうですか、聞こえますか?」すごく業務的な聞き方だ。と私は思った。
すると、壁の奥のホワイトボード(そんなものがあったことに、私はその時初めて気づいた。なぜなら壁も真っ白だったからだ)に、すらすらと何か文字が書かれた。
「はい、じゃあ、これを、かみに書き写してちょうだい」
「紙ってどこにあるんですか?」
私はきょろきょろとあたりを見回した。
「紙、じゃなくて、髪よ。あなたの持ってるか・み・の・け」と、おばさんはかわいく言った。
「え?」
髪の毛にどうやって書くのだろう。それより、何日もお風呂に入ってない。と、私は思った。その心配が聞こえたかのように、おばさんはこう言った。
「大丈夫よ。シャンプーしても、髪の記憶はそう簡単に消えないの。むしろ、トリートメントまですれば、記憶が鮮明なまま閉じ込められるのよ」
そんな髪のダメージに染み込む栄養のように、髪に記憶を書き込めるのだろうか。でも私は、やってみようと思った。
「まず、その文字をじっと見て。そして、記憶するの」
私はホワイトボードをじっと見た。けれど残念ながら、そこに書かれている文字は、みたことのないものだった。
「あの、これ私読めません」
「大丈夫よ。そのままその形を記憶すればいいだけだから」
けれど、どんなにがんばっても、意味不明な形をすべて覚えることは至難の業だった。
「覚えられないんですけど」私は泣きそうになった。
「覚えられないなら、それをもっとじーっと見て。そして、残像を残すのよ」
私は言われた通りに、覚えることをあきらめ、ただ目に焼き付けようとした。すると、目をつぶっても、その残像が頭に残るようになった。
「できました」
「そうしたら、それを今度は髪の毛に送るの」
「ど、どうやってですか?」
「んーーーーーって!」
「え?どういうことですか?」
「頭から、髪の毛に神経を集中させるのよ。こればっかりは感覚だから、教えられないわ。自分でつかむしかない」
私は、目をつぶったまま、自分の脳みそから頭皮、それから髪の毛の先に集中をしていった。今の記憶が、髪の先まで行き渡るように。

「できた?」
おばさんのその声で、私は一瞬はっとなった。どうやら集中していたらしい。
「なんだか、できた……ような気がします」
「よし、じゃあ、次行くわよ」
おばさんはそう言って、次の束を手にとった。
こうして、私はすべての束を記憶し、髪の毛まで行き渡らせたのだった。
終わった瞬間、私は集中力を使い果たし、帰りは窓枠を超えることができなかった。おばさんは、ちょっとここで休んでから戻ろうといって、その場にしゃがんだ。
私も、壁にもたれて座り込んだ。
「最後にね。声を解析してくれた耳に、お礼の歌を歌う時があるんだ」
おばさんはそう言って、また懐かしい調べを歌い出した。今度は歌詞もついていた。ことばの意味はわからなかったけれど。
目をつぶってその歌声を聞いているうちに、私の疲れもだんだん癒えて来た。
おばさんが歌い終わったので、私は作業場に戻って来た。今度は窓枠も足をあげて超えられた。
「今日は、お風呂入って寝なね」
おばさんは、作業場と反対側にあったお風呂場を教えてくれた。
私はそこで念入りにシャンプーとトリートメントをして、すぐに寝てしまった。



16.木に伝える


目を覚ますと、おばさんがいた。私の目の中をのぞいていた。
「よくがんばったね。今日で仕事は終わりだよ」
「今日で終わりですか?」
「そう。だから、あんたは、もう髪を切ってもらっていいよ」
「髪を切る?」
「そう。一生懸命働いてくれたから、あんたに髪を切る権利をあげるよ」
「髪を切る権利?」
「そう」
「それが、お給料ってことですか?」
「ま、そういうことかな」
どうしようと思った。てっきり、お金がもらえると思っていた自分が恥ずかしくなった。そうだ。あんな仕事で、寝床も、ごはんも提供してもらって、さらにお金がもらえるわけない。
「ここの町はね、お金を使わないんだ」
「え?」意外なことばに、私は驚いた。
「ここに来る前に、ネズミかバスに全部むしりとられただろう?」
私は、バス賃としてなけなしの一万円を取られてしまったことを思い出した。
「はい」
「それはね、ここに来るための条件でもあり、あのバスが、この町にくる唯一の交通手段なんだ」
「あ、そうだったんですね。じゃあ、もしネズミにお金を払ってたら、バスに乗れなかったんじゃ」
「あのバスは、もともと無料だよ。だってこの町の町営だからね」
そうか、じゃあ、あのネズミも公務員だったんだ。と私は思った。

「あ、髪を切る権利はあげたけど、切りたくなかったら別に切らなくてもいいからね~。」
私は自分の髪の毛を見てみた。別に伸ばしたくて伸ばしたわけじゃなかった。知らないうちに、伸びていただけ。
「私、髪切りたいです」
「そうかい。じゃあ、昨日の木のところへ行って、切ってもらっておいで」
「どうやって切ってもらえばいいんですか」
「私は、髪を切る権利を持っています。って木に言えばいいんだよ」
「言うだけでいいんですか?何か証明書のようなものは」
「ははは、そんなのいらないよ」
「で、でも、もしかしたら、髪を切る権利を持ってないのに、持ってるって嘘つく人もいるかもしれません」
「けど、それでもし嘘をついて髪を切ってもらったとしても、本当の意味で髪を切ったことにはならないからね。だから誰もそんなことしようとしないよ。」
「そうなんですか」

私は朝ごはんを食べると、おばさんにお礼を言って、一人で家を出た。昨日の道のりはなんとなく覚えていたので、しばらくすると、あの木のところに出た。
私は木の前に立った。
「あの、私は、髪を切る権利を持っています」
「それで?」
なんか思ってたより冷たい。と私は思った。
「あの、髪を切ってください」
「あいよ」
と言って、木は細い枝をにゅーっと伸ばした。私はじっと前を見ていた。そこに、鏡はなかった。だから自分がどんな風になっているのか想像するしかなかった。木は無駄のない動きで、私の髪をどんどん切っていった。
ばさばさと、私の髪の毛がどんどん私の横に落ちて行った。その内のいくつかは、左から右に流れる柔らかい風に乗って、飛んでいった。そしてついに、木の枝の動きが止まった。
「はい、終わったよ。目つぶって」
私は目をつぶった。
その瞬間、ものすごい勢いで、風の塊が飛んで来た。ぶわっと体があおられ、私の体は宙に浮いた。私はちらっと目を開けた。その瞬間、遠くで、虫網を持って、私の髪の毛をキャッチしているおばさんが見えた。



17.ともすれば


ぼとんっと私は湖に落ちた。ちょうど良いところに湖があってよかった。もしこれがなかったら、私はどうなっていただろう。けれど、幸中の不幸で、私は泳げなかった。
必死で足をばたつかせてもがいていたが、どんどん体は沈むばかりだった。
息がどんどん苦しくなってきた。
恐怖が、私を包み込んでいった。

その時、湖の外から、大きな手が伸びてきた。私はそれに必死につかまった。
がばぁと私の体は湖の外に出た。私はしばらく息ができなかった。
ようやく息が落ち着いてきたころ、目の前を見ると、さっきの大きな手の持ち主がこちらを心配そうに見ていた。
「あの、ありがとうございます」
私はその大きな人に言った。私はその人がやさしい人だとわかっていた。
なぜなら、片耳がなかったから。
「あの、とことこ屋さんに、耳を貸してあげてる人ですよね」
巨人は、はてなという顔をした。私は、ああ、と思って近寄って行き、残っている方の耳の近くでこう言った。
「あの、とことこ屋さんに耳を貸してますか?」
巨人は「うん」と言って、にこにこ笑った。
「ありがとうございます。助けてもらって」と私はもう一度言った。
巨人は恥ずかしそうに笑った。
「あの、ここに、鏡とかないですか?」私は、自分が髪を切ってどうなったか知りたかった。
巨人は、湖を指さした。
私は湖に近づくのがもう怖くなっていた。その様子を見て感じ取ったのか、巨人は湖のところまで歩いて行った。そして、両手で水をすくうと、私のところまで持ってきてくれた。
「ありがとう」私はそう言って、水の中を覗き込んだ。
巨人の手の中で水面はしばらく揺れていたが、巨人がぴたっと動かないでくれたので、だんだん水の揺らめきが落ち着き、私の顔が見えて来た。
そこには、ボブの見たこともない私がいた。
「だれだろう、これ」
「あなた」と巨人は言い、手の中の水をぐっと自分で飲んだ。
「私、こんな風になったんですね。自分じゃないみたい」と私は言った。
「あなた」と巨人はもう一回言って、私のことを指さした。

巨人はそのまま行ってしまおうとしたので、私は聞いてみた。
「耳を返してもらわなくていいの?」
「今から、また寝る」と、巨人は言い、森の奥へと消えて行ってしまった。
もしかして、私が湖に落ちた音を聞いて、わざわざ起きてきてくれたのだろうか。
「ありがとう」ともう一度、私は大きな声で言った。



18.暗闇の城


巨人のやさしさが胸にしみたころ、私は自分がまだびしょぬれであることに気づいた。
どこかで服を乾かさなくては。
どこかに、家はないだろうか。と思い、辺りを見回すと、静かにたたずむ大きな家があった。
なぜ静かだとわかったかというと、家の周りにどんよりとした空気が流れていたからだった。
私はそのどんよりに何故かひかれていた。
今までいたおばさんの家の周辺は、なんだかいつも靄がかかっていたのに、湖があった場所はやけに日が照ってまぶしくて、私はまいってしまっていた。
さすがの巨人のやさしさも、日光からは私を守ってくれなかった。
私はその家の玄関に向かった。階段を昇ると、呼び鈴のようなものがあった。私はボタンを押してみる。すると、声がかかった。
「ざんねーん!そこは、玄関のベルではありません」
その声は、家の中というより、私の後頭部から聞こえて来た気がした。私は冷や汗が出て来た。後ろを振り向きたかったけれど、怖くて振り向けなかった。

「正解は、ここだよっ!」
そう言って、何かコードにつながれたボタンが、するすると上の方から、私の目の前に降りて来た。私はわっとあとずさった。そして、ゆっくりと上を見た。窓から、コードだけが垂れ下がっている。
「これが、本物の玄関のベルです」
結局このボタンがすぐに出てくるのなら、さっきのが玄関のベルでもいいじゃないのか。と私は思った。
「押して押して」
不気味な声なのに、口調がかわいい。私は、おびえながらも、そのボタンを押した。
びーーーーーーーっと音がなった。
そして、扉がぎぎーっとゆっくり開いた。

中は、程よい明るさだった。私はほっとして、中に入った。
「おじゃましまーす」聞こえるか聞こえないかのギリギリの声で私は言った。
そして、靴を脱いだ。
その時、
「靴は脱がなくてもよいです」と、さっきの声がまた言った。
「あ、はい」そう言ってわたしは、靴のまま上がって行った。
この瞬間もどこかから見られているのかと思って、私はあたりをみまわし、びくびくしながら歩いた。しかし、誰の影もみつけることはできなかった。試しに、私は声を出してみることにした。
「あ……あの、服を貸してほしいんですけど。さっき湖に落ちてしまって」
すると、すぐに返答があった。
「そのまま、まっすぐすすんでください。そして、みみみみみみみみいみ」
「え?みみみみみみみいみってなんですか」
そこで、ぶちっと何かが切れる音がして、それっきり、声は聞こえなくなってしまった。

どうしたんだろう。とにかく、まっすぐ行けばいいんだな。と私は思った。目の前には、大きな階段があった。私は、その階段を昇って行った。その時だった。



ふうっとため息をつくように、全ての明るさが消えてしまったのだった。 


私はまず、動作を止めた。心臓がドクドクと動いている。まず、そこに座ることから始めた。
階段の中段あたりに自分はいるはずだ。
私は自分に、「落ち着け、落ち着け」と言っていた。
しばらくしたら電気がつくかもしれない。それまでじっとしていよう。
しかし、しばらくすると、ひゅーっと部屋の温度が下がってくるのが感じられた。
こんな時は、濡れている服がどんどん冷たく感じて来る。
「はっくしょい」と、私はくしゃみをした。
その音の大きさに、自分でもびっくりした。そしてなぜか、勇気も湧いて来た。
ちょっと、手探りで進んでみようか。
私は、床をさわりながら、ゆっくりと階段を昇って行った。
そこから7段進んだとき、階段が急になくなった。二階に到着したらしい。廊下になっているようで、左と右にも行けたが、私は「まっすぐすすんでください」ということばを信じることにした。
まっすぐ私は四つん這いの状態で、進んでいった。手で触ると何もないはずなのに、目の前に何かがいそうで、私は何回も立ちどまった。
きっと想像の4倍くらいかかって、私はようやく扉のようなものにたどり着いた。
手でドアノブを探す。
けれども、それは見つからなかった。
手を右から左へ、左から右へ。すると、
「くすぐったいんですけどー」と、声がした。
とても近いところから声が聞こえてきた。
びくっと私は、そのドアから飛びのいた。

私は、そこからうずくまって動けなかった。心臓が、相変わらずドクドク言っている。
「誰か、そこにいるんですか?」
私は思い切って聞いてみた。
けれどいくら待っても、返事は返ってこなかった。
私は、また進んでみた。けれど、なんだか違和感があった。
さっきと同じ方向に進んでいるはずだった。なのに、さっきから、いくら進んでも、さっきの扉にぶちあたらないのであった。

私は思わず振り向いた。そこに何も見えないのを知っていながら。
けれども音が聞こえた。きぃ、ばたん。
それはとても怖い音だった。
私は急いで、元来た道を戻った。そして、今度はぶち当たったのだ。あの扉に。
そして、やはりドアノブは、みつけられなかった。
閉じ込められたと感じた瞬間、私は顔が青くなるのを感じた。実際には真っ暗で、何も見えなかったけれど。



19.着替え


私は、そこから動けなかった。閉じ込められたと知った瞬間、急に酸素が薄くなり、息がうまくできなくなった。ここから逃げ出したいのに、ここから逃げ出せない。そう思うだけで、もう発狂しそうであった。
体が自然と震えて来た。それは、寒さのためでもあり、恐怖のためでもあった。
いつまでこうしていればいいのだろう。
私は、とにかく、この状況を耐えるために何かをしなければと思った。このままでは今すぐにでも、呼吸困難になりそうだ。

私は、数を数えてみることにした。
「いーち、にー、さーん」
けれどもそれも怖くなってきた。数字のおしりの部分が、カタカタと闇へ吸い込まれていく。私はいつまで数を数えるんだろう。もしかして、永遠に数えていなければいけないんだろうか。そう思った瞬間、また、呼吸が浅くなった。
何をすれば、この恐怖に耐えていけるのだろう。
そうだ。終わりがないものを数えるからいけないんだ。循環するものを唱えればいい。
私は、日曜日から土曜日までを英語で言ってみた。
Sunday、Monday、……Saturday、Sunday、Monday……
これは、さっきよりも効果があった。けれどもちょっとでも気を抜けば、私は息がつまりそうだった。

ひたすら、このくりかえしだった。
どのくらいそうしていただろう。
寒さのために、私の体の震えは、より大きくなっていた。こんな時は、少しでも動いて体温を挙げなければならない。私はまた扉に背を向け、前へと進んでいった。
すると、すぐに、指が何かにガンッとあたり、突き指をしそうになった。そこに、何かがあるという事に、私は初めて気づいた。
おそるおそる再び伸ばした手に触れたのは、何かつるつるしたものだった。
最初は、また扉があるのかと思った。なぜなら、それはドアノブのような形をしていたからだ。しかし、それを回してみようとしたが、手はするっと滑っただけだった。
私は今度はそれを押してみた。
なにも起こらない。
もう、最後の手段だった。
私はそっとドアノブをひっぱってみた。
すると、ドアノブがするすると手前に動くのが分かった。
この感触はなんだろう。ドアノブではない。けども、知っている。と私は思った。
「たんすだ」
私は手探りで、今開けたたんすの中を探った。
思ったとおり、そこには布の手触りがあった。それを触った瞬間、私は少し、息をつくことができた。
私はそれを持ち、ひっぱりあげてみる。この重み。この長さからして、ワンピースのようだ。
なんだっていい。乾いていれば。私は、「すいません、借ります」と割れる声で言い、それを引っ張り出すと、今着ているびちゃびちゃの服を脱いで、その服を被った。頭を入れる場所を何回か間違ったが、なんとか着ることができた。
こんな時、真っ暗闇は便利だ。と私は思った。誰にも見られないから。

着替えることは着替えたが、まだ寒かった。他に服がないかと、私はたんすの他の段もみてみることにした。さっきの段の下にも、引き出しがあった。
それを開けると、さっきの服よりも、もっと安心をくれる重みとやわらかさに出会った。
毛布が一枚入っていたのだ。
私は、その毛布にくるまった。
「あったか~い」
私は毛布の端を、ぎゅっと握った。
「ももこみたい」と私はつぶやいた。
けれどもその声は、暗闇に吸い込まれていった。

さっきより落ち着いたものの、まだ震えはとまらない。

「ももこ、ももこ、ここに、ももこがいればよかったのに」

あ、そうだ。こんな時こそ、エアーももこだ。
私は真っ暗で、そんな必要もなかったけれど、目を閉じ、想像した。ももこがここにいる。
そして、ももこは、今私に話しかけている。
「ね、あそびに行こう。どこにいく?」
私は答える。
「どこにも行かない。だって、外は危険だよ」
「そうなの。じゃあ、ここであそびましょ」
「いいよ。何する?」
「じゃあ、ももこごっこ」
「いいよ。」
「ももこごっこのやりかた、わかる?」
「ううん。わからない」
「ももこのいう事を、まねするといいよ」
「わかった」
「じゃあ、いくね」

「るるるるるるるるるるるるるる」
「るるるるるるるるるるるるるる」
「はい、もしもし」
「はい、もしもし」
「ももこですか?」
「ももこですか?」
「はい、そうです」
「はい、そうです」
「じゃあ、ここからはアドリブで」
「アドリブ?」
「君子ですか?」
私はちょっととまどった。自分の想像の中のももこのはずなのに、自分が思いもしなかったことを言ってくる。
「う、うん。ももこなの?ほんとに」
「うん。そうよ。ももこよ。」
「ももこ、どこにいるの?どこから電話しているの?」
「うん?ここがどこかって?」
「うん。そう。ずっと探してたんだから。ももこがいなくて、私は知らないとこまでも来た」
「そうなの。ありがとう。私を探してくれて。けど、ここは君子も知っているところよ。君子も来たことがあるとこ」
「え、そうなの?それなら、私がここまで来たことは、無駄だったってこと?」
「そんなことないよ。すべてに意味があるよ」
「そうなの?」
「たまに無駄なこともあるけど」
「あるんだ」
「でも、無駄なことは、人をほっとさせるよ。だから、無駄じゃないんだ」
「そうなんだ。ねえ、ももこ、どこにいるの、ほんとに。早く会いたいよ。どうして出て来てくれないの?私がここにいるの知っている?」
「知っていないよ。私は君子がどこにいるのか、知っていないけど、君子は私がどこにいるか、知っているよ。だから、追いかけて来れるよ。じゃあね」
ガチャ
いきなり電話は切れてしまった。
それでも、私がももこの行方を知っているというのは驚きだった。
そしてももこは、私が行ったことがある所にいると言っていた。
私の行動圏はとても狭い。それなら、そこから探っていくこともできそうだ。

私が今までの人生で行ったことがある所。
3歳の時に行った、テーマパーク。私が好きなキャラクターがいるテーマパークだった。そこに家族と行った。その時はまだ、順は生まれていなかったから、私は一人っ子だった。親の愛を一心に受けて、自分はお姫様だと思っていた。
お父さんが、ぬいぐるみを買ってくれた。ピンク色で、とてもかわいい。私はそのぬいぐるみを気に入って、お父さんにねだった。けれどお母さんが反対した。
「なんか気味悪いわ」
けれど私がどうしても欲しかったので、お父さんはこっそり買ってくれた。私はももこをスカートの中に隠し、テーマパークにいる間中、ももこを守ることに必死で、なんのアトラクションも心に入らなかった。
それから23年。お父さんは、覚えているだろうか。
自分が買ったことを。
きっと覚えていないだろう。と私は思った。だって、ももこがいないって言った時、あんなに冷たかったもの。
ももこはもしかしたら、テーマパークに戻ったのかもしれない。
私は、テーマパークに戻ったももこを想像してみた。
ももこは、閉園直前に戻って行った。パレードは、もう終わりに近づいていた。色々なキャラクターが、ベビーカーに乗って、園内を散歩するパレードだった。みんなキラキラしていた。ももこは最後のビッグリキャンキャンという大きな犬のキャラクターが通りすぎたあと、そっとその後について行った。係員が、「だめですよ」と言って、ももこを抱えて、お客さんの列に戻した。

ももこは、売店に行ってみた。もう閉店直前なので、お店のお姉さんは、お金を計算している。ももこは、ばれないようにこっそりと、ぬいぐるみの棚に行った。
そこには、ももこと同じピンク色のぬいぐるみがずらりと並んでいた。ももこはその間に、そっとはさまった。けれども自分が一目で他のももこと違うことは、はっきりとわかった。他のももことは違うポーズをしていたし。ももこの体は薄汚れてくすんでいたから、他のももこと明らかに色が違った。

閉園の時間になり、おわりの音楽が流れた。
それとともに、ももこも戸棚から飛び降り、他のお客さんに紛れて、そのテーマパークを後にした。「私はもうここの住人じゃないのよ。」そう、ももこはつぶやいた。

「そうか。ももこがいるのはここじゃないみたい」と、私もつぶやいた。



20.どうしていいか


他に私が知ってる場所。
「学校だ」
私はももこが学校に行く様子を想像してみた。
ももこは私のローファーを履いていた。
でもサイズがだぶだぶだったから、引きずって歩いていた。
ももこはゆっくりと学校に向かった。
ようやく高校に着いたので、ももこはローファーを脱いで、靴箱の一番下に入れた。上の段は届かなかったのだ。
そして、教室に向かって行った。
一番窓際の席にももこは座った。
そして、他の生徒が来るのを待った。けれど、誰も来なかった。
ももこは先生が来るのも待ってみた。けれども、先生も来なかった。
ももこはその間、ずっと窓の外を見ていた。
窓の外は、いつのまにか小学校のグラウンドになっていた。
何人か白い体操服と白い帽子をかぶった男の子たちが出て来た。そして、ドッジボールを始めた。
「ももこもやりたい」
そう思ってももこは、急いで教室を飛び出し、ローファーも履かずに、玄関から飛び出した。
グラウンドに行くと、まだ男の子たちがドッジボールをしていた。今度は、女の子も何人か混じっている。
「ももこもいれて」
すると、ボールを持っていた男の子が言った。
「おめえ、靴履いてないからだめだ」
「だって、靴が大きくて、すぐ脱げちゃうんだもん」
「靴履いてないと、危ないからだめだ。」
そして、プレーは再開された。
皆きゃっきゃとはしゃいでいる。
白い帽子が、ぴょんぴょこ跳ねている。
ももこは、グラウンドを後にした。そして、ローファーを履いて、とぼとぼと学校を出た。

「ここにもももこはいないみたい」と、私はつぶやいた。

他に私が行ったことがあるのはどこだろう。
私は考えてみた。それは、遠足で行った浜辺だった。私はそこで、初めて海に触れた。今まで海の近くに住んではいたのだけれど、近くまで行ってみたことはなかったのだ。そこは私にとっては楽しい思い出の場所だった。きっとももこも気に入るはず。
私はまた目をつぶった。

風が強かった。お弁当を食べるために敷いたシートが、パタパタとうごめいた。
目の前は海。
みんなそれぞれのお弁当を広げ始めた。
ももこもリュックサックから、お弁当の包みを取り出した。
その包みを開けて、ももこは愕然とした。そこには、でっかいおにぎりが一個だけ入っていた。
お母さんは、お料理が上手じゃない。それをももこは知っていた。だから、お母さんに文句は言えなかった。
ももこは、みんなのお弁当を見た。赤いウインナー。黄色い卵焼き。緑の野菜。
みんなカラフルだ。
ビッグリキャンキャンのキャラ弁を作ってもらっている子もいる。
みんな、笑顔だ。
その時、目の前に座っていた同じ班の女の子が、ももこのおにぎりを指さしてこう言った。
「ももこちゃんのお弁当、何~?それだけなの?」
「やめなよ。かわいそうだよ」
そう言っている子もいる。
ももこはおにぎりをじっと見つめた。
「ちょっと、あっちで食べるね」目じりには、涙が溜まっていた。
ももこは、そのシートから離れて、岩場の方へ行こうと立ち上がった。
すると、ごろんっとおにぎりが転がりおち、シートの上を転がって、砂の上に落ちてしまった。おにぎりは、砂だらけになってしまった。
「あー!!」
みんな一斉に叫んだ。
ももこは叫ばなかった。そして、おにぎりをじっと見た。
お母さんが作ってくれたおにぎり。
ももこは涙がたれるのをこらえた。みんなの動揺を鎮めるためには、自分が何かアクションを起こさなければ。
「ちょっと、海の水で、洗ってくるわ」
ももこは言って、砂だらけのおにぎりを拾うと、岩場の方へかけていった。

岩場の影の誰も見えないところに来ると、ももこは泣いた。
せっかく作ってくれたおにぎりだったのに。ももこは、このおにぎりを一瞬でも恥じた自分が情けなかった。どうしてあんなこと、思ってしまったんだろう。これは天からの罰だ。
そうして、砂だらけのおにぎりの表面だけをはぎ、海の水に流した。
残ったおにぎりの中心部分は、もうぐちゃぐちゃで、原型をとどめていなかった。ももこは指についたそのバラバラなおにぎりを、口の中につめこんだ。
ももこはそうして、海を眺めていた。
ご飯粒が海に浮いていた。
カニが岩場から出て来て、ご飯粒を二粒持って行った。


すると、横から、普通サイズのおにぎりを差し出す手がしゅっと現れた。
それは、小学生姿のとしろう君だった。
「やるよ。おれ、二つ持って来たから。」
ももこは一瞬迷った。おにぎりの中心部分だけではさすがに足りなかった。この状態のまま、学校へ帰るのは、正直しんどかった。けれど、これをもらったら、としろう君の分が減ってしまう。としろう君のために作られた、としろう君のための栄養。
「大丈夫」
ももこは、その手を押し返し、岩場からダッシュで先生のところに向かった。
そして、「先生、ちょっと頭が痛いので、家に帰ってもいいですか?」と聞いた。うそではなかった。涙をこらえ過ぎたせいで、頭がさっきから、ガンガンしていたのだ。
「お、そうか。大丈夫か?」
「はい。大丈夫です」
「わかった。じゃあ、島田先生についていってもらえ」
島田先生は、副担任の先生で、付き添いで来ていた。
「いえ、一人で帰れます。家も近いんで」
たしかに、この浜辺からだと学校よりも家の方が近かった。
「いや、でも体調悪いしな。うん。待っててくれ、今島田先生呼んでくるから」そして、先生は島田先生を呼びに行った。けれど、ももこは、それを見るなり、ダッシュして浜辺を後にした。
遠くから、先生の声が聞こえた。
「おーい、待てーーーーーー」

「こんなにダッシュしてんだから、元気だってわかるだろ」と、ももこはつぶやいた。


「浜辺にも、ももこはいない。か」私はつぶやいた。

他にどこがあるだろう。
あ、公園だ。と私は思った。
小学生の時、よくまさこと遊んだ公園だった。
そこなら、ももこも遊ぶのにちょうどいいかもしれない。

私はまたももこの姿を想像した。
ももこは、公園に行く道を、小学生のまさこと歩いていた。
ももこは、はしゃいでいた。なんでだろうか、今ならなんでもできる気がした。
公園の前まで来て、突然まさこが、
「やっぱり公園行きたくない」と言い出した。
「今日は、別のところであそぼう」とまさこは言った。けれどもう、ももこは、公園で遊ぶつもりでわくわくしていたので、「なんで?大丈夫だよ。行こう」とまさこに言った。
けれど、まさこは頑として聞かなかった。そして、先に帰ってしまった。
なんでだろう。
ももこは、一人で公園で遊ぶことにした。
いつものお気に入りの場所には、何人かの中学生の男子がたむろしていた。
でも、ももこは気にしなかった。男子の中に割り込んで、ももこはいつも乗る左側のブランコに座った。そして、ゆうゆうと漕いでいた。
すると、そこにいる男子たちが、ももこの方へ集まってきた。
「おまえ、どこから来た?」
「あっち」と、ももこは答えた。

「どっちだ?」
ももこはブランコを漕ぐのをやめた。
「あっち」
「え~?どっち?」と言って、男子たちは、ぎゃははと笑った。
「おまえ、なんでピンクなんだ」
まわりで、他の男子たちも「ピンクだ。ピンクだ」と、はやし立てた。
ももこはなんだか自分がピンクなのが、恥ずかしくなってきた。
そして、ここから逃げたい気持ちになった。
けれど、足が震えて動けなかった。
まさこと一緒に帰れば良かった。
さっきまでの自信は、いつの間にやらすっかりと消え去ってしまっていた。
ももこはようやく「あ、お父さんが呼んでる」とうそを言い、その場から逃げ出した。
「あ、逃げたー」と言って、後ろからまた笑い声が聞こえた。


こんなとこに、ももこがいるわけない。と、私はつぶやいた。

どこへ行っても、ももこは不遇な人生を送っている。それならば。と、私は考えた。これならどうだろう。絶対に安全なところ。

そんなとこ、あるだろうか。と私は思った。私は、あてどもなくももこを歩かせてみることにした。

ももこは、屋根の上を歩いていた。すべての町並み。すべての家の窓の明かりが、見える所だった。屋根の上をつたい、ももこは歩いていた。どこまでも、ももこは歩いていけた。だれも邪魔されない。だれもももこに追いつくことはできない。ももこはジャンプした。そして、空中を飛びあがった。

そして、ある家の前に着地した。その家は、見覚えのある家だった。
「あ、わかった。ここにももこがいる」



そう思った瞬間、私の周りの真っ暗闇は急に終わりを告げた。
また、電気がついたのである。
私はももこの妄想をストップした。

まぶしくて、私はしばらく目をとじていなければならなかった。
目を開けて、この部屋から早く脱出しなければ。そして、ももこを迎えに行くんだ。
瞼の上から降り注ぐ刺激が、ようやく柔らかく感じてきた頃、私はゆっくりと目を開けた。
目の前には、かわいいたんすが見えた。
けれど、もっとびっくりしたことがあった。
私がいるこの場所は、部屋の中なんかではなかったのである。なので、振り返ると、さっき上がって来た階段がすぐそこに見えた。

しかし、一つだけ変なことがあるとすれば、私の通ってきた場所には、一つの扉が置いてあった。

実に不思議な光景だった。
扉だけがそこにあり、しかもその扉には、ドアノブがなかった。
私はゆっくりと立ち上がり、その扉をよく見ようとした。しかしその時、扉がきぃと音をたて、自然に開いた。
「ひっ」と私は変な声で驚いてしまった。
そうだ。扉は、私の後ろでばたんとしまったのだ。ということは、この扉はドアノブを回さなくても開くということだ。
そして、その扉の陰から、なにか見えないものがこちらを覗くのが見えた。
見えないのに、なぜかそこにいるとわかる。どうしたことだろう。
「あの、そのドレス、持って行ってもいいよ」
その声は、さっきまで聞こえていた、あの声だった。
「ほ、ほんと。ありがとう」
「でも、毛布は置いてってね」
「う、うん。そうする」
「じゃあ、またね」
そう言って。扉はきぃとまた閉まってしまった。
改めて、「ドレス」と言われた今自分が着ている服を、私は眺めてみた。それはピンクのワンピースだった。これは、私が子どもの頃、欲しかったワンピースだ。けれど私は迷って、結局ブルーのワンピースを買ってしまったのだった。私はそれを忘れて、ピンクのワンピースを買ったと思い込み、ルンルン気分で家に帰った。けれど袋を開けてみて、初めて、自分が妥協して、ブルーのワンピースを選んだことに気づいたのだった。思えばその頃から、私は本当に着たい服を着ていない気がする。自分が着たい服よりも、自分に妥当な服を選んできたのだ。
ワンピースは、不思議と今の体形と合っていた。私は花柄のそのワンピースを、恥ずかしいとも思わなかった。何より私の命を救ってくれた服なのだ。それに、ようやく着れたピンクなのだ。
私は毛布をたたんで、たんすの下の段にしまうと、生乾きの自分の服を手に持ち、扉に近づいていった。
しかし、すぐに、「あ、そうだ。ドアノブがないんだった」と思いついた。
扉のすき間に爪を立てて開けようとしても、扉はびくともしなかった。
「反対側から押してみよう」
私は、扉の横を通って裏側へ廻った。そしてようやく気付いた。
「あ、そうか、べつに無理して扉を通らなくてもいいんだ」
壁など元からないのだった。
私は閉じ込められてすらいなかったのだ。
ここは廊下の一部で、そこに変な扉が一枚置いてあっただけだったのだ。
そのことに気づいたとたん、あんなにびくびくしていた自分がなんだかおかしくなってきた。
私は、軽い足取りで、階段を駆け下り、お城の玄関のドアを開けた。お城というか、ちょっと豪華な家だったけど。
そのとたん、暖かい日差しが降り注ぎ、私の体は芯から温まった。と、同時に、私は、見慣れた道へ出たことに気づいた。ここは近所の公園の近くだ。
この家へ入って来た時と風景が全然違う。そして、明るさも違う。まるで、すべてに焦点が合ってるみたいに、隅々まで見えた。
「え?」と思って、私はすぐ振り向いた。今出て来たはずの扉は、家ごとなくなっていた。ただ公園の木の緑が、さわさわ揺れていた。

公園では、子どもたちが何人か遊んでいた。
さっきまで、ももこが中学生に囲まれておびえていたブランコも、もう色が塗り替えられて、新品のようになっていた。

とりあえず、私は目的の場所へ向かうことにした。ももこのいるところへ。



21.だいじなこと


「ねぇ、ポッケから、何か落ちそうになってるよ」
急に背後のとても低い位置から声がしたので、これまた私はびっくりしてしまった。ぐるっと不自然なくらい勢いよく振り返ると、そこに小さい男の子がいた。手には、薄汚れたボールを持っている。
「何?」
「ほら」そう言って、男の子は私を指さした。
私は自分のワンピースのポケットを見た。けれど、ワンピースに、ポケットはなかった。
「そっちじゃなくて、こっち」そう言って少年が指さしたのは、私の生乾きのジーパンのポケットだった。そこには、確かにくしゃくしゃの一万円札が今にも落ちそうな感じでぶらさがっていた。
「え?でも私今、一文無しよ?」と自分でも思ってもみないくらいひょうきんな声で私は言ってしまった。恥ずかしいと思ってだまっていると、男の子は困ったような表情になった。
その困り顔に、嘘はなかった。
私はそのお札をつまんでみた。そして、お札の匂いを嗅いだ。
それは、まぎれもなく、おばあちゃんの白檀の香りだった。
「あ、これ、私のだわ。ごめんごめん。ありがとね」
男の子はほっとした顔をして、たたたーっとかけていってしまった。
「全額バスに払ったはずなのに」
もしかしたら、あの村を出ると返してくれるのかもしれない。コインが戻って来るロッカーみたいに。そう考えると、気が楽になった。
とにかく、バスに乗って、ももこの待つ家へ行かなくちゃ。と私は思った。近くにある商店で、私はサイダーを買った。一万円は、再びバラバラになった。
ワンピースにポケットがないので、私はジーパンをお財布代わりにして、あらゆるポケットにお金を入れた。

近くのバス停まで行くと、時刻表を見た。
けれど、肝心の現在時刻がわからない。まわりに聞けそうな人もいない。とりあえず、私は次のバスを待ってみることにした。待っている間、私はサイダーを飲むことにした。
プシュッと音がして、サイダーが開いた。
私はそれを一口飲んだ。
「生き返る~」と私は、ビールを飲んだ人のまねをした。
それから、私はバスを待ち続けた。
「来ないな」
私はバスを待っている内になくならないように、サイダーをちびちび飲んだ。
しかし、なかなかバスはやってこない。
だんだん、日が暮れて来た気がする。
ついにサイダーもなくなってしまった。
ジーパンも、だいぶ乾いてきている。
「どうしよう。ヒッチハイクでもした方が早いかな」そんな自信もないくせに、私は向こうから来る車に乗っている人に視線を流してみた。するとその運転手の顔に、見覚えがありすぎることに気づいた。
「え?まさこ?」ハンドルをしっかりとにぎって真面目に運転しているストレート髪の女の人は、まさに、成長したまさこだった。
まさこは私がいるのとは反対側の車線を走っていたので、どこかでUターンをして戻ってきた。
「まさこぉーーーーーーー!」
私はまさこの車の方に向かって走って行った。やがて、まさこは私の隣に停車した。
「もう、ここの終バス終わってるよ」
「えっ?そうなの?」
まさこが手招きしたので、私は急いで助手席に乗り込んだ。そしてシートベルトをした。
息を整えながら、私は湧き出て来る疑問の数々を、まさこにぶつけていった。

「まさこ、免許持ってたんだ。びっくりだよ」
「うん。3回落ちたけどね」
「そうだったんだね。どうりで、停車がガクガクしてたよ」
「きれいだった?」
「うん。きれいだった。」
二人は、にやっと顔を見合わせて笑った。部活動の時の思い出がよみがえった。
「ところでまさこ、どこ行くか、分かってるの?」
「いや。わかってない。」
「えー!それなのに、なんで自信満々でこっちの方向に走ってるの?」
「だってこっち側のバス停で待ってたから」
「あ、そうだよね。さすがまさこ」
「で、どこだった?」
「うん。いなむら先生のとこ」
「いなむら先生?」
「あ、そっか。あの時はまさことクラス違ったからね」
「思い出した。」
そういうなり、まさこはウインカーをカッチカッチとつけて、左に曲がり始めた。

「先生の家わかるの?」
「うん。一緒に家の前まで行ったじゃん」
そう言って、まさこは私が知らない道をぐいぐい進んでいった。
そうだ。私はまさこを連れて、一度だけ一緒にあの家に遊びに行ったことがあった。けれども結局窓から中を覗いただけで、怖気づいて帰ってしまったのだった。


やがて、二人は再び、あの家の前へとたどり着いた。今度は自転車じゃなく、自動車で。



22.こたつともう一つの部屋


ぴぃんぽおんとちょっと音が外れた呼び鈴が鳴り、いなむら先生が出て来た。
「ああ、久しぶりだね」
先生は、ちょっとしわが多くなったけれど、変わらない笑顔で出迎えてくれた。
「あの、うちのももこ、来てませんか」
「来てるよ~。今、居間のこたつで寝てるから、連れていって」
「この時期にこたつ」とまさこが無表情に先生につっこんでいた。
先生は、「電源は入ってないんだけどね~」と笑いながら、私たちを居間へ案内してくれた。
そこに、先生が言ったように大きなこたつが置いてあって、こたつ布団の、みみの様なところに、ももこがはさまって寝ていた。
「ももこ~」私は、声にならないような叫びで、ももこに近づいた。
ももこは疲れて寝ていた。
私は、ももこを久しぶりに抱いた。すこし、ももこは、外の匂いがした。
その感動の再会の背後で、冷静なまさこが、「先生、この部屋はなんですか」と、まるで授業中に生徒が手を挙げて質問するみたいに、聞いていた。
まさこが指さしている部屋は、少し扉が開いていた。
「あ、この部屋はね~。うん。見せちゃうか」
先生は、ちょっと恥ずかしそうにしながら、扉をぎぎーっと開けた。
私も、ももこを起こさないように抱いたまま、二人のあとからその部屋に入って行った。


そこは、壁一面に、様々な大きさの額縁がびっしりと掛けられた部屋だった。
窓は開いていて、そこから入ってくる冷たく涼しい風が、カーテンを揺らしていた。
額縁の中には、世界の様々な風景のジグソーパズルが収まっていた。
「すごおい」私はことばを失ってしまった。
大きいものは、私の身長と同じ位ある。これだけのものを作るのに、先生はどれだけの時間を割いたのだろう。と私は思った。
いや。先生は、割いたわけじゃないのかもしれない。

私は、その風景に目を奪われた。世界には、こんなにも美しい景色がたくさんあるのか。
「きれいだね~」と私がいうと、「きれいだ」とまさこが言った。
目を開けて、ももこも写真を見ていた。
「この部屋へ来るとね、世界中を旅できるんだ」と先生は言った。そんな先生を、ももこはじっと見ていた。

私はそんなももこをよそに、風景の写真を見ていた。自分もいつか行けるだろうか。この写真の場所へ。
「ん?」
私は、見たことがない風景の中で、一か所だけなぜか懐かしさを感じる場所があることに気づいた。
それは、霧がかかった緑の中に、一本の木が立っていて、そのそばに二人の人間が、網を持って立っている写真だった。
「先生、これ」
「ああ、なんだかね、気に入って。この、ちょうちょを採ってる女の子がかわいいでしょ」
ふふふと私は笑ってしまった。
「先生、これ、ちょうちょ採ってるんじゃないですよ」
「え、そうなの?」
「それに女の子でもないし」
「そうなんだ!じゃあ、何を採ってるんだろう」と先生は目を凝らして見ていたが、見える訳がない。
それは1ミリ以下の細さの髪の毛なのだから。

「そうだ。お茶を飲もう」そう言って、先生は、冷蔵庫から麦茶を出してくれた。それを、みんなでこたつで飲んだ。
「先生、季節感が、ばらばらですね。」
たしかに、こたつで麦茶とは、いままでやったことがない組み合わせだった。
「いや、そういうのに疎くてね。いつもと同じように生活しているつもりでも、気づいたら自分だけコートを着ていたという日も、よくあるよ」と先生は言った。
そんな一年に一回しかないようなエピソードが、「よくある」ということは、きっと毎年同じことを繰り返しているのだろう。

お茶を飲んで、私たちは家に帰ることにした。
「先生、ももこを預かってくれて、ありがとうございました」
「おう、またいつでも遊びに来てくれ」
もう来ないだろうな。と思いつつ、そのことばがなんだか嬉しかった。
「おじゃましました。」

まさこは、家まで車で送ってくれた。帰り道、私はちょっとだけ、助手席で寝てしまった。


23.到着


「着いたよ」というまさこの声で、私は目を覚ました。
「ごめん、いつのまにか寝てた」私は、お礼を言って、車を降りた。
「じゃあ、またね」
「うん」
そう言って、まさこはブーンとあっという間に行ってしまった。それにしても、なんでまさこは私があの場所にいるとわかったのだろう。確信を持って、まさこはあの道を走っていた気がする。しかもバスの時間まで知っていたし。
けれどいくら考えても答えはでないことはわかっていた。すべて、「さすがまさこだ」で、すまされることだった。
それが、まさこなのだ。

私は家に入ろうとした。なんだか懐かしかった。
「よう。帰ってきたのか」と、横から声をかけてくれたのは、としろう君だった。
「あ、う、うん」また突然声をかけられたので、私はびっくりしてしまった。
そうだ。今度としろう君に会ったら、言おうと思ったことがあったんだった。
私は勇気を出して、こういった。
「あの時は、おにぎり、ありがとう」
「おにぎり……?」
あ、そうか。私の経験値の中では、最近の出来事だったけれど、きっととしろう君にとっては、すごく大昔のできごとだったんだ。と私は思った。

「ああ、小学校の時ね。でも結局お前、おにぎり受け取らないで、ダッシュで帰っちゃったじゃん」
良かった。覚えていてくれた。私はほっとした。
「でも、もらった気分だった」
「そうか。それならよかった」

「じゃあね」と言って、家に入ろうと思ったら、としろう君が最後に言ったことばに、私はびっくりした。
「もう、みずうきわなしでも、家を出れるのか?」
「みずうきわ」その単語を、なぜとしろう君が知っているのだろう。私は混乱した。
「なんで知ってるの?みずうきわ」
「お前のばあちゃん言ってただろ」
としろう君も聞いてたんだ。じゃあ、その意味はなんなんだろう。でも、あえて聞かないことにした。なんとなくわかったような気がしたから。

「うん。たぶん。出れると思う。傘も取りに行かなきゃいけないし」
「そうか。じゃあな」
そう言って、としろう君は、家に入っていった。


24.最後の章


玄関を開けたとたん、目の前に順がいたので、びっくりした。
順は、「良かったねー」と総合的に言ってくれた。それはとてもありがたかった。
お父さんとお母さんは、何も言わなかった。

夜寝る時、私は久しぶりに隣にももこがいるのがうれしかった。
「ももこ、ありがとう。帰って来てくれて。それから、私と一緒に泳いでくれて」
「いいんだよ」とももこは言った。
それにしても、あの遠足の思い出。けっこうひどい目に遭っていたのに、なんで楽しい思い出として残っていたんだろう。

きっと、としろう君と、いなむら先生のおかげだ。と私は気づくと、寝返りをうって、安心して眠りについた。