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お金を稼ぎたいの?お金が欲しいの?

ついにヨガティーチャートレーニングのコースが始まった。

昨年末にはインテグレイティッド・ヒーリングのプラクティショナーとなり、今年からエンド・オブ・ライフ・ドゥーラの勉強を始めており、そのうえ、ヨガのティーチャーコースを受けるとは、我ながら、「お主、いったい、どこへ向かいたいのじゃ?」と突っ込まずにいられない。

でも、もう一人の私は言うのである。

「心の声に従うことが大事でしょ。その先に未来図が見えていると安心だけど、そうしたら未来図に引っ張られすぎて、もっと面白いことになっていたかもしれない未来を見失うかもしれないでしょ。そもそも、今、何も困っていないのに、なぜそんなに未来を心配するの? 世界は愛だよ。それを信じて、委ねようぜ、ベイビー!」

そう。これは壮大な実験でもあるのだ。これまでなかった単位で勢いよく減っていく銀行口座の数字に怯みそうになるが、そこで「働かねば」と「〜ねば」で動くことなく、あくまでも心の声「〜したい」に従ってみたらどうなるかの実験。

そんな実験をできるのは、もちろん夫が働いくれていて、家計はそこから賄えるという安心感があるからである。ありがとう、夫。

とりあえず、世界の愛を信じることにした私は、家計の心配をしなくていいという現在の環境は私に与えられたギフトだから、ありがたく受け取っておけばよろしい、ということにして、いつかまた忙しくなったらできなくなるであろうことに、時間と労力を注いでいる。それが、勉強をするとか、人に会うとか、行きたいところに行くとかなのだが、ある時、ふと疑問が出た。

なんで、私はいつかまた忙しくなると思っているのだ?

それで気づいた。

私はお金を稼ぐことと忙しさは比例すると思い込んでいる。

つまり、出費ばかりの今の状況は続かないから、いつかまた収入が必要になる、その時は忙しく働かないといけないと思っているのだ。

思えば、大人になるまでの過程で、お金とは労働の対価として得るもの、という意識を強く植え付けてきてしまって、労働の対価でなくお金を得ることには抵抗がある。

不労所得なんて私には犯罪ギリギリぐらいの後ろめたい響きがある。

さらに厄介なのは、働いたら働いたで、自分の得意なことや、使命感を持ってやっている仕事であるほど、「これでお金をたくさん請求するのははしたない」などお金をもらうことに躊躇することだ。

働かないとお金は得られないと思っている一方で、好きな仕事でお金を請求するのははしたないという心理があるから、たくさん稼ぐためには身を粉にして相当に働くしかない、という方程式が出来上がっている。

自分の内側にそんな法則があるんだもの、そりゃ、お金と労働と、うまいバランスを築けないわけだ。

ちなみに、今、勉強しているエンド・オブ・ライフ・デューラのコース、いよいよ後半に差し掛かったのだが、後半になった途端、どうやってお金にしていくかという一般的な個人ビジネスの勉強に切り替わっている。

毎月かかっている経費を把握して、目指す売上を決めて、サービス料を決めろ、という、おそらく商売をしている人からしたらものすごく基本的なことを教えられているのだが、長らくライターなどという、経費などあるようなないような仕事で、発注元の予算を予測しながら原稿料を提示してきた身には、目から鱗である。

そもそも私は毎月、経費がどれくらいかかっているかを計算したことがなく、毎年、確定申告(アメリカにもタックスリターンというのがある)の時期に大慌てでまとめるだけで、また翌年にはすっかり忘れているのだ。

今年は、経費をちゃんと見てみる、まずはそこから始めよう。

ちっちゃい目標だな、おい。

でも、今年の私は違うぞ。これまでは「お金を稼ぎたい」とは言えても「お金が欲しい」とは言えなかったけど、今年は「楽しく働いて、たくさんお金を得る」って言っちゃうぞ。

言ってみたら叶うのか、これも実験だ。

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