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【自己紹介~後半~】もしよかったら私を知ってください♡


雑貨屋店長のさっちです。

【自己紹介〜前半〜】をお読みいただき
ありがとうございました m(^o^)m

想像以上の反響に驚いておりますが、
それ以上に読んでくださったことに
感謝の気持ちが溢れております♡

本当に本当に
ありがとうございます!!!
後半も頑張って書きたいと思います。

前半はこちらです▼




後半はこちらからになります▼

7.社会人②


ここから私の第2の社会人生活が始まります。

ドキドキしながら、
教授の会社の扉を開きました。

すると優しさのこもった声で
「お前、体は大丈夫か?」
と、交通事故のことを心配してくれたのです。

普段は厳しい教授でしたが、
生徒たちを我が子のように思ってくれていた
懐の深い素晴らしい教授でした。

そんなお言葉に緊張が解け、
とにかく全部話しました。

最後まで聞いて一言、
「これからどうするんだ」
と、断定的な質問をされました。

私は辞めることしか考えていませんでしたし、
教授に会うことだけで緊張していたので、
上手く返事が出来ませんでした。

すると、
「海外で民宿をやればいい」
とビックリする提案をされました。

突然過ぎて、
驚くしかなかったのですが、
私は
「やってみます!」
と返事をしていたのです。

元々海外旅行が好きで、
バックパッカーをしたこともあったので、
海外に行く理由があるのが嬉しかったのです。

もちろん、
突然海外に民宿を作るなんて、
そう簡単ではありません。

どうやって作るの?
お金はどうするの?
頭の中は「?」だらけでしたが、
とりあえず行ってみないと
何も分からないので、
行っちゃいました!

私が調査したのは大きく分けて2つの国。
・ネパール
・インドネシア
それぞれ1,2ヶ月間を2回行ったので、
トータルすると半年くらいを
海外に滞在したことになります。

今思えば、
『自分探しの放浪の旅』
みたいでした (^^;)


8.ネパールでの生活


私が最初に降り立った国は
ネパールでした。

何故「ネパール」?
それは「ロクタ紙」に興味があったからです。

ロクタ紙というのは
和紙と同じように手すきで作る紙のこと。

実は、
会社を辞めてからネパールに行くまで、
実家でぬくぬく、
ニートのような生活をしていました。
渡航前の準備という名目でw

その間に高校の時の英語の先生と
和紙作りを楽しんでいました。
当時、先生が趣味でやっていた和紙作りを
私にも教えてくださり、
せっせと作品づくりを楽しんでいたのです♡

そして、ネパールについて調べている中で
「ロクタ紙」の存在を知ったのです。
元は和紙から伝わったようなので、
親近感もわき、
一度作ってみたいと思いました。

それが
最初の調査をする国を
ネパールにした理由です。


ネパールへは格安航空券で行きました。
乗り換え地はバングラデシュのダッカ。

好奇心旺盛だった私は
「乗り換えするなら、どんな国かみてみたい」
と思って、2泊したのが間違えでした。

バングラデシュの女性はほとんど
外を歩いていないようで、
日本人女性が一人で街をうろうろするなんて、
好奇の目で見られるだけでした。

街は汚く、整備されておらず、
真っ黒な男性がジロジロ見ている、、、
しかも誰も笑顔じゃないんです。
そんな環境で楽しいことはありませんでした。

唯一、小学生くらいの男の子が
遊んでいるのを見かけたのが救いでした。


2日後に
ネパールのトリブバン空港に着きました。
うじゃうじゃ寄ってくるタクシーの運転手と
首都カトマンズまでの乗車料金を交渉。
相場は調べていたので、ぼったくられずに
街中まで移動できました。

宿を決めてなかったので、
とりあえず旅行会社に行きました。

そこにはラフティングのガイドをしている
日本人がいました。
彼自身は旅行者なのですが、
カヌーやラフティング出来るのと
英語が堪能だったので、
仕事をして旅費を稼いでいるようでした。

彼に出会えたことで
現地のガイドさんたちと
仲良くなることができ、
安宿も教えてもらうことが出来ました。
確か、1泊500円くらいだったと思います。

部屋のシャワーはお湯が出ませんでした。
それだけではなく、
水が出ないこともありました。
何故なのか?!
それは屋上のタンクにある水を
その宿の全員が使っているので、
夜になるとなくなってしまうそうでした。
なので、
「シャワーを浴びるなら午前中」
ってことを学びましたw

それから、1食100円の
美味しいダルバート屋さんも
教えてもらいました。
ごはんダル(豆)スープ、
野菜のカレー炒めが
真鍮のお皿に盛られていて、
おなかがいっぱいなるまでお替り自由。

ここのおばちゃんには
ずいぶんお世話になりました。
カトマンズにいる間は
ほぼ毎日食べていたので♡

数日でカトマンズの生活が
落ち着いてきたので、
ロクタ紙のお店に行くことにしました。

飛び込み営業的な訪問にもかかわらず、
そのお店の店主は時間をとってくれ、
私の話をじっくりと聞いてくれました。

そしてびっくり、
その人は以前日本に来ていたことが
あったのです。
そのため日本に対して好意的であり、
私のロクタ紙に対する興味にも共感して
くれました。

工房はカトマンズから少し離れたところに
あるそうで、日を改めて連れて行ってくれる
と言ってくれました。
さらに私の念願であった、
ロクタ紙を作らせてもらえることにも
なりました。

やったー!!!

後日、車で連れて行ってくれた工房は
山の中にありました。
自然の中に
紙漉きの簾桁(木枠の網戸のようなもの)が
たくさん並んでいる光景は
心が落ち着く優しい風景でした。

気持ちのいい環境で
はじめてロクタ紙を漉かせてもらいました。
もちろん外でw
(日本の和紙はだいたい屋内です)

冷たい水の中に
ロクタという植物からとれた繊維が
混ざっています。
そこに簾桁を入れて繊維をすくい
繊維を均等になじませます。

日本の和紙では楮やミツマタという
植物が使われていますが、
ネパールでは「ロクタ」という
木の皮から作っているので、
「ロクタ紙」と呼ばれています。

何枚か作らせてもらい、
私の小さな夢が一つ叶いました。

それから私はラフティングも体験しました。
ポカラという湖のほとりまでバスで行き、
そこから川の上流に移動し、
ラフティング(川下り)をしました。

途中、川辺でテントを張り、
キャンプファイヤーをしながら
地元のお酒(ロキシー)を飲みました。
ネパールでは家庭でロキシーを
作っていて、ネパールの若者は
だいたいみんな飲んでました。

翌日はスッキリ二日酔いもなく、
ゴールへ向かって川下りスタート。

川から見上げる崖に感動したり、
水の流れが激しくボートがひっくり返ったり、
キャーキャー言いながら楽しみました。
最後には流れの少ない落ち着いたことろで
ゴール。

1泊2日のラフティングは
大自然を満喫できる
最高に気持ちのいい体験でした。

そしてポカラに滞在中に
日本人の経営している宿に行き、
お話を聞くことが出来ました。

ネパール人と結婚している彼女からは
「民宿をやるのは大変だよ」と言われました。
旦那さんはあまり仕事をしてくれず、
ほぼ彼女が宿を経営しているそうでした。

確かいろんな話を聞いたのですが、
今覚えていることは
「彼女が幸せそうじゃなかった」
ということ。

これは私にとって、
とても大事なことでした。
「海外で民宿をやる」ことが目標ではなく、
「海外で民宿をやって幸せになる」
というのが目標なんだと改め思った日でした。

それからカトマンズに戻り、
周辺の調査もしました。
バクタプル、パタン、ナガルコット、
などなど。

いろんなところで
いろんな人に会って、
たくさん話を聞いていた中で
騙されたこともありました。

朝焼けが美しいナガルコットへ
行ったときのこと。
ロクタ紙の店主さんから
紹介された人と夜ご飯を食べていたとき、
「ナガルコットだったら連れていくよ」
と誘われたので、
「わぁい!お願いします」
と二つ返事をしました。

約束の日にやってきたのは別の人でした。
あまり考えていなかった私は
その人のバイクに乗り、
ナガルコットまで連れて行ってもらいました。

ホテルについて、チェックインをすると、
その人が同じ部屋に入ってくるでは
ありませんか!!!

「そんなのありえないっ」
と散々言い争って、
最終的にはその人は一人で
帰ってしまいました。

よくよく考えてみると、
あわよくば強姦できると思われて
いたのかも。

その一部始終を見ていたホテルの人は
「騙された日本人の女の子に」同情してくれ、
一泊したあとにバスで帰れる手配を
してくれました。

若いって何でもありだったんですね~w
今思えば笑える思い出ですが、
若気の至りでした。

と、この辺りで一旦帰国し、
2度目のネパール生活へと続きます。


9.ネパール~インドでの生活


いろいろと勝手の分かってきた
ネパールでの生活がまた始まります。

今度はネパールで
温泉旅館を作ろうとしている
日本人のおじちゃんに話を聞きました。

その中で、
貧しい村を支援していると知りました。
「私も行ってみたい」
と思いお願いすると、
村に行くタイミングに合わせて、
一緒に連れて行ってもらえました!

山の麓まで車で行き、
そこからは舗装されていない山道を
歩いて登りました。
登山に慣れていなかった私は
ヘトヘトになりました。

何時間も登り続けて着いたその村は
本当に貧しいところでした。
テレビで見るような秘境のような感じで、
普通に日本で生活していたら
一生知ることのなかったところでした。

小さな畑で野菜を育て、
今回のような支援者から物資を
調達して貰っていました。

細々と暮らしているよ彼らでしたが、
その表情は魅力的でした。
素朴な暮らしにある小さな喜びを
しっかりと受け止め、
ほころぶような笑顔が大好きになりました。

そしてその村で見た星空は
私の記憶に深く刻まれました。
「満天の星空」がそこにはあり、
落ちてくるのではと思うほど☆彡.。

たくさんの星が世界を包み込んでいました。
たまにみえる流れ星に願いをすると、
願いがなくなってしまうほどでした☆

ここまで連れてきてくれた方々、
この村で生活しているみんなに
感謝が溢れていました。

その後、カトマンズに戻り、
調査を続けていました。

すると、やっぱり結果は「大変」。
「大変」というのはそもそも生活を
するのが大変ということです。

電気、ガス、水道などの
ライフラインが整備されてなかったり、
道路が土なのでいつも空気中に埃があります。
食べ物も豊かにあるわけではなく、
毎日ダルバートを食べる生活が
ずーっと続くということです。

貧富の差は大きく、
もし外国人の小娘が豊かな生活を望むなら、
ホテル王との結婚する以外難しいのでは
ないかという感じでした。

裕福になるために
民宿を作りたかったわけではなく、
日本人の観光客がネパールの魅力を
安心して味わえる場所を作りたかったので、
ホテル王との結婚は考えて
いませんでしたが(笑)

そもそも外国人が土地を買うことも
建物を所有することもできないのが、
最大のネックでした。

ネパール人の名義でないと買えないので、
お金だけ払ってビザを取れないようにされ、
ネパールに入れないようにされた
日本人の話も聞きました。

それでもまだ可能性はあるかもと思い、
チトワンへ行ったり、
ルンビニへ行ったりして
調査は続けていました。

そんな中出会ったのが、
チベット仏教を勉強しているという台湾人。
彼はダライラマのもとで修業をしているそうで
休暇の間にネパールへ来たと言っていました。

話しているうちに意気投合し、
私はインドのダラムサラに
行ってみることにしました。

ダラムサラとはダライラマが
現在ダライラマが住んでいるところです。

「ネパールで民宿を作るために
調査をしている」んじゃなかったの???

そこは若さ。
「もしかしたらインドもいいかも」
と言い訳を考えて行っちゃいました。

初めてのデリー。
マックが高級で、
カレー味だったのを覚えています。

数日デリーで過ごしてから、
電車やリキシャ(人力車)を乗り継ぎ、
何とか辿り着いたダラムサラは
デリーとは全く違いました。

登山を目的とした欧米の観光客が多く、
出店にはチベット人ばかり。
モンク(僧侶)がたくさんいて、
チベット仏教が根ざしていました。

私がここへ来た理由は
「嗅覚障害を治したかったから」
というのもありました。

ここまで連れてきてくれた台湾人の彼が
ダライ・ラマの専門医に会わせてくれると
言っていたからです。

そして、数日後に実際に医師に会い、
漢方を処方してくれました。
直径1cmくらいの焦げ茶色の玉。
その漢方薬を毎日飲むことになりました。

結果、
嗅覚障害は自覚できる程は
変わらなかったですが、いい経験でしたw
日本にいるときに鍼灸整体に通い、
嗅覚の神経は動いていると言われていたので、
恐らくダブル効果でちょっとは
良くなったはずです(笑)

ダラムサラで過ごしていると
台湾人の彼から
「ダライ・ラマの教えを聞けるから行こう」
と誘われました。

中央インドのバンガロールから
さらに移動した何にもない土地に
テントが何百も張られていました。

そこに1週間ほど滞在しながら、
毎日ダライ・ラマの講義を
聞くというものでした。

私はチベット語が分からなかったですし、
英語も日常会話程度だったので、
何を言っているのかさっぱりでしたが、
たくさんの人やモンクが一生懸命
聞いているその空間に
背筋を伸ばさずにはいられませんでした。

このときのダライ・ラマの講義イベントは
今の14世がやる最後のものだったそうです。

でも1番覚えているのは
道端で売っていたパパイヤが
すっごく大きくて美味しかったことですw

その後、私はインドの南にある
アラピーと言うところに行きました。

南インドのカレーはご飯が大きくて、
あんまり美味しくなかったです。
なぜこの場所を選んで行ったのか、
今では忘れてしまったほど、
好きになれませんでした。

帰りは3日ほど電車に乗って、
デリーまで戻って来ました。
そしてネパールに戻り、
最後の結論を出しました。

ネパールという国は
今でも大好きな素敵な国です。
人は優しく、
自然は不便なくらい残っています。
ダルバートもチベット料理も好きでした。

ただ、ネパール人と結婚して
一生ネパールに住みたいと思うほどでは
ありませんでした。

そのため、
ネパールでの民宿計画は断念して
次のインドネシアに向かいました。


10.インドネシアでの生活


バリ島を拠点に
インドネシアに点在する島々を巡りました。

何故バリ島にしたのかは
ひとつは大学のゼミ旅行で来たことがあり、
楽しかった思い出ばかりだったからです。

そしてもうひとつは
教授の別荘があり、駐在している
スタッフさんがいたからです。

その方から
バリ島での生活の仕方や
基本的は情報を教えてもらいました。
さらにバリ島に住んでいる
日本人も何人か紹介して頂き、
とても貴重なお話が聞けました。

その方々は
ガラス作家さん、
ジュエリー作家さん、
ヴィラの経営者さん、
みなさん魅力的な人ばかりでした。

ネパールのように
ネパール人と結婚しなくても
ヴィラ=宿を作れるのを知ったのは
とても大きなことでした。

民宿を作ることに少し近づき、
どこに作るかを探すことにしました。

そして、
ジャワ島
バリ島
ロンボク島
スラウェシ島
フローレス島
をそれぞれ1週間〜2週間ずつ
調査に行きました。

その中でダイビングライセンスを
取っちゃいました。
もちろん調査の名目でスラウェシ島の
マナドには行ったのですがw

ライセンスを取るために1週間ほど
小さな島に滞在しました。
マナドからはボートで行きました。

宿泊施設は素朴な感じで、
木造の手作り感溢れる部屋に泊りました。
目の前が砂浜なので、
毎日、レッスンを受けることが出来ました。

初めてのボンベはずっしりとしていましたが、
ドボンと海に入ると別世界でした。
ボンベの重さは全くなく、
海の中に浮いている感覚が
素晴らしかったです。

透明度の高い海で珊瑚や
魚の泳ぐ姿をおいかける時間は
かけがえのない時を切り取ったようでした。
ウミガメが大きかったのも覚えています。

海での実習が終わったら、
最後は筆記試験があり、
無事にライセンスゲットしました。
子供の頃からの夢、
「イルカと泳ぐ」
に1歩近づいた瞬間でした。

それから、マナドからバスで
トラジャという村に行きました。
高床式で船形の木造家屋が有名な
ところです。

そこでは、何故かたまたま
現地の人の結婚式に参加させてもらいました。
そういえば、ネパールでも結婚式に
参加させてもらったことがありました。
見ず知らずの外国人にもオープンな
民族性は結構好きです♡

インテリアや建築に興味があったので、
村の作りを見学したのは楽しかったです。

タンパンガロという洞窟墓にも行きました。
500年前の骸骨や棺桶があり、
人生を考えるきっかけには
十分すぎるインパクトがありました。

スラウェシ島はここでおしまいにして、
一旦バリ島へ戻りました。

バリ島ではガラス作家さんの別荘に
連れて行ってもらい、
シュノーケリングを楽しんだり、
ジュエリー作家さんの家にお泊まり
されてもらったり、
楽しいことばかりしていました。

それから、
ジャワ島の世界遺産である
ボロブドゥール寺院に行きました。

寺院へ行くためにジョグジャカルタに
滞在していました。
そこでガイドと名乗るインドネシア人の
男の子と出会いました。
「無料でいいから案内するよ」
と言ってくれたので、
ちゃっかりお世話になりました。

ボロブドゥール寺院への往復の
バイクに乗せてくれたり、
バティックというインドネシアで有名な
布の工房に連れて行ってくれたりしました。

そのとき購入したワンピースを
今でも着ているので、
素材はとってもいい生地だったのが
分かります。

ジョグジャカルタを離れてから
彼とはメールのやり取りをしていましたが、
数年後には音信不通になってしまいました。

ただ、私の記憶の中には
「何の見返りも求めず、
優しく助けてくれて人がいた」
という事実がずっと残っています。

今更ですが、
ありがとうございました。

次に向かったのは
フローレス島でした。

インドネシアはたくさんの島々から
成り立っているのですが、
このフローレス島は1番東の方にあります。

コモド島とも近く、
フローレス島に着いてすぐに
コモドドラゴンに会いに行きました。

恐竜の子孫とも言われている
大きなトカゲのようで
ワニのような口を持つ生き物です。
凶暴な性格なので、
前に立って目を見てはダメだと
教えられました。

本物を目の当たりにするの
少し怯んでしまう迫力がありました。
しかし、
同じ地球上に生きている生物として、
1度でも会えたことは幸運だと思います。

触りることも出来ず、
近づくことも出来ず、
少し離れたところから見るだけでも
この一瞬は大切だと感じたのを覚えています。

ジャングルを歩いたり、
ボートでピンクビーチに行ったり、
一通りコモド島を満喫してから
フローレス島に戻りました。

フローレス島にいる間はガイドを雇い、
ワゴンカーでおすすめスポットを
調査しました。

天然の温泉が流れる滝と川は
最高に気持ち良かったです。
川の流れで自然にできた窪みに
すっぽり体をはめて、
流れでくる温泉を味わいました。

温泉が溜まっているところでは
ぷかぷか泳いだり、
のんびり座ったり、
自然の良さを十二分に感じられる
素晴らしいところでした。

真っ白な砂浜と
透き通る海に浮かぶ
無人島も素敵でした☆☆☆

小さなエンジンボートで
ブーンっと行くその島は
まさに天国のようでした。
何にもなくて、
1周徒歩でまわれる大きさ、
地球を感じられるところでした。

都会で暮らしていると忘れがちな
「何も考えない」
ということが出来ました。
(これって意外と大事ですよね♡)

無人島でも海の中でも、
自分が1人だってことを感じ、
同時に1人じゃないってことも感じ、
地球の中に存在している生き物であると、
実感出来た場所でした。

海の次は山です。
クリムトゥ山の火口湖にも行きました。
前日に泊まった宿が寒くて簡素過ぎたので、
とってもきれいなブルーの湖を見たときは
心が洗われ感動しました。

神秘的なその湖は化学反応によって
色が変わったりするようで、
自然と化学のつながりを感じました。
昔行った、白神山地にある青い池を
思い起こしてくれた湖でもありました。

フローレス島の調査は
エンデという町で終わりました。
調査というより、観光色が強かったですね。

インドネシアの調査は
ロンボク島で最後になります。
バリ島の隣にある島で、
イカットという生地を見に行きました。

ジャワ島で見たバティックは
ろう染めだったのですが、
イカットは織物になります。
その柄が南国的で素敵なものが多かったです。

実際に今でも手織りをしている
民族がいるので、その村まで行きました。
職人のおばちゃんの仕事からは
長年の時間を感じる技術力がありました。
1枚織るのに何か月もかかるものも
ありました。

たくさんのイカットを見て、
工芸品の持つ力を感じ、
これらを使うところをイメージしました。
テーブルや棚に敷いたり、
壁に掛けたり、
アート作品としても魅力もありました。

この辺りでインドネシアの調査は
終わるのですが、
実は何か月も続けて調査していたので、
何度かビザを取るために
マレーシアに移動していました。

そのとき、泥棒に遭った話をします。


11.マレーシアでの珍事件


ずっと貧乏旅行だったので、
マレーシアのクアラルンプールでも
安宿に泊まっていました。

ビザのためでしたが、
「どうせ来たならいろいろ調べよう」と思い、
宿を留守にすることも多かったです。

ただ結果としては
都会過ぎて民宿には不釣り合いなのを
感じたのを覚えていますが(--;)

マレーシアに来た頃には
何か月も旅をしていて緊張感が
弱まっていました。

始めの頃は貴重品を肌身離さず
していたのですが、
それはそれでひったくられる危険も
ありました。
かと言って、金庫があるような宿には
泊まっていませんでした。

そして、
その事件は突然やってきました。

街歩きが終わり、
部屋に戻って荷物を整理していると、
パスポートがないのです!

どこを探しても。
その日はパスポートを部屋に置いて
出かけていました。。。

部屋のカギは掛けていたので、
おそらく宿のスタッフの仕業だったと
思います。
しかし、探偵でもないただの日本人の
20代女子にはなす術がありませんでした。

そこで日本大使館に行き、
ことの成り行きを話しました。

日本の両親に連絡をし、
住民票をFAXしてもらい、
パンパンに腫れたスッピンの写真を撮り、
2日後にパスポートを再発行してくれる
ことになりました。

結果オーライだったのですが、
その最悪な思い出の詰まった
酷い顔写真のパスポートを
その後10年間使わなくてはいけないのが、
ショックでした。

今となっては笑い話なのですがw


12.民宿計画の結果


ここまでの調査でだいたい2年くらい
経っていたので、
結果を出したときは27歳でした。

今の私が雑貨屋店長なので、
ご察しだと思いますが、
民宿計画は断念しました。

散々楽しませて頂いた調査で
分かったことは
20代の日本人女子が1人で民宿を経営するのは
少しばかり規模が大きかったということです。
あと、覚悟が足りませんでした。

バリ島では出資してくれるという人も
いたのですが、
人のお金でその人たちが満足するために
民宿をやることは私のやりたいことでは
ないのかなと思いました。

また、海外で旅を続ける中で
よく言われることですが、
日本で生活をしたいと思うように
なっていたのも事実です。

その理由は
「日本語」と「日本人の感覚」を
改めていいなと思ったからです。

海外にいると基本は英語で
コミュニケーションを取るのですが、
日本にいれば自然に推し量れることを
はっきり言わなくてはいけませんでした。
それがひと時であればいいのですが、
この先何十年もと考えたときに
やっぱり日本にいたいなと思ったのです。

日本にいると
「はっきり言いすぎるタイプ」
なのですがwww
やはり、隣の芝生は青いのですね♪

もう一つ、大きな理由は
日本人と結婚したいと思ったからです。
外国人と付き合ったことはあったのですが、
先ほどの理由と似ていて、
「察して欲しいことを察してくれない」
彼氏は嫌だったのです。

ただ、
現在の夫が気の利くタイプではないので、
というよりADHDだと思うので、
あまり意味はなかったのですが(笑)

この結果をマイナスだとは思っていません。
20代のパワフルな時期に
「調査」という名目で海外を飛び回り、
ただの観光旅行とは違った目線で
世界の一部を観察できたことは
今の私の財産だと思っています。

その時にしか感じられないこと
その時にしか出会えない人
今、同じことは決してできないので、
本当に貴重な2年間を過ごしたと
思っています。

その後、
日本に帰国した私に飛び込んできたのは
「一緒にオランダで和紙のワークショップを
やりませんか?」
というお誘いでした♡


13.オランダ旅行


高校の時の英語の先生と
和紙の作品を作っていたのを
思い出していただけたでしょうか?

それがここにつながっています。

先生はオランダにお友達が何人もいて、
そのうちの一人が娘さんのように
仲が良かったのです。(Aさん)

その彼女が旅行会社に勤めていて、
そこで和紙のワークショップをやるという
企画があったそうです。

暇をしていた私にアシスタントとして
オランダに一緒に行って欲しいと言われ、
とっても嬉しく、
またまた二つ返事で行くことにしました。

オランダの
アムステルダム・スキポール空港に
到着すると、Aさんが出迎えてくれました。

先生と旦那様は翌日に到着予定でしたので、
この日はAさんのおうちに
泊めてもらいました。
彼女の家はユトレヒト。

あの、私の大好きな
ミッフィーが生まれた街です!!!
私のテンションはMAXでした。
本当に本当にミッフィーが大好きなのでw

信号機がミッフィーになっていたり、
銅像があったり、
もちろんミッフィーミュージアムにも
行きました♡♡♡

ちなみにオランダ語でミッフィーは
nijntje(ナインチェ)といいます♡

そんな浮かれ気分の私でしたが、
翌日先生夫婦と合流してからは
ちゃんとワークショップの準備をしました。

オランダ版100円ショップで
紙コップなどの消耗品を調達し、
次の日の本番に備えました。

夜ご飯はAさんオススメの
インド料理屋さんへ行きました。

ワークショップ本番は
準備にバタつきましたが、
生徒さんが好奇心を持って参加して
くれたため、大成功でした!

難しい絵柄を選んで苦戦した方や
いくつも作った方など、
それぞれの個性を目の当たりにできて
とてもいい経験になりました。

このときに出会ったAさんの友人とは
その後も付き合いがあり、
日本に来てくれたときは必ず会うほど
仲良くなりました。

そして、先生が繋げてくれた出会いは
これだけではありませんでした。

グローニンゲンというところに
住んでいる若いご夫婦。
アルクマールにお住まいの老夫婦。
さらにAさんのご家族。
1人で来ていたら出会えなかった
特別な人達に出会えたのが
この旅で1番よかったことです。

それぞれのおうちに快く招いてくださり、
最高のおもてなしをして頂きました。
おすすめの場所に
連れて行ってくださったり、
オランダ料理をご馳走してくださったり、
愛情をたっぷりと頂きました。

オランダでの時間は
私に人の優しさを教えてくれました。
身をもって感じられる人の温もりは
その後の私の人生を
ずっと助けてくれています。

先生夫婦とオランダで出会った皆様に
感謝を届けたいと思います。

旅行好きな私は
オランダで先生夫婦と別れてから
デンマークに行きました。

「どうせ乗り換えるなら滞在したい」
という私の貧乏魂がそうさせましたw

デンマークでは
大好きなバーのママが紹介してくださった
日本人のやっている、今で言う「民泊」に
滞在させていただきました。

家具職人であるオーナー様と
ワインを飲みながらお話したのを
よく覚えています。
そのときは熱くなって語っていたのですが、
内容は忘れてしまいました(笑)

数日の滞在中には人魚姫の銅像を見たり、
北欧デザインを見て楽しみました。
何しろ物価が高かったので、
ウィンドウショッピングしか
出来ませんでした(^^;)

そして、帰国。
ここからやっと、
雑貨屋をはじめたお話になります。


14.雑貨屋の開業


28歳になった私は
「民宿計画はなくなっちゃったし、
何をして生きていこうか?」
と自問自答して考えました。

そして、
「人に伝えていく仕事をしたい」
と思うようになっていきました。

民宿計画をしている間に私は
たくさんの方々から
愛情と優しさをもらい、
時間を作ってもらい、
お話をしてもらいました。

よくよく考えると
どれも気持ちがないと
できないことでした。

私の話すことのどこかに
共感してくれたり、
興味を持ってくれたり、
好感を抱いてくれたら、
皆々様方が協力してくださったんだと
改めて感じました。

そのことを大切に思い、
私は「誰かに伝える仕事」を
したいと、彼氏に相談しました。
(今の夫です。)

すると
「それならお店をやればいいじゃん!」
とあっけらかんと言いました。
そして私も
「そうだねー!」
と、またもや二つ返事でやることに
決めてしまったのです。

決めたら早い、
行動力だけが取り柄だった当時の私は
・個人事業主の開業届
・銀行口座の開設
・店舗の賃貸契約
・商品の仕入先との交渉
・オンラインショップの開業
などなど、せっせと進めていきました。

やることが多くて
悩むことなんて全くありませんでした。

「商品が売れなかったらどうしよう」
と思ったのはだいぶ後になってからでしたw

とある雑居ビルの2階に
私の小さな9坪の雑貨屋さんが誕生しました。
今から12年前の夏のことでした。

毎日売上0円。
ネットショップでの売上がたまに3,000円。
というような感じのスタートでした。

でも楽しかったです。
商品を説明するために、
デザイナーさんやメーカーさんに
話を聞きに行ったり、
初めましてのお客様と話が盛り上がったり、
毎日新しいことがたくさんあって、
充実した日々が続いていました。

数年間は細々と
実店舗&オンラインショップで
仕事をしてました。

そしてめでたく
今の夫と結婚しました。
結婚式のときには
「イルカと泳ぐ」夢が叶いました♪

夫は当時一人でスニーカーの
オンラインショップをやっていたので、
これを機に会社を一つにすることに
なりました。

夫婦で自営業の始まりです。

店舗をもう少し広いところに移転し、
実店舗の店長を私がやり、
オンラインショップ&社長を夫が
やっていました。

なかなか面白いお店だったようで、
雑誌に掲載してもらったり、
「ペットのいる店」として
テレビに出たこともありました。

そしてある日、
商業施設への出店依頼来たのです。
今は新しくなっていますが、
昔の渋谷パルコでした。

私たち夫婦は
「まさか、
うちがパルコに出店できるなんて!」
と、驚きました。

何となくお気づきと思いますが、
その話にもひょっこり乗って、
渋谷パルコに出店しちゃったのですw

しばらくは2店舗で運営を
頑張っていたのですが、
またまたビッグなお話が舞い込んできました。

「東京駅に新しく出来る
KITTEに出店しませんか?」

「えー!!!!!
そんな立派なところに出ていいんですか?」
と、逆に聞いてしまったほど
ビックリしました。

そして、2店舗を閉店し、
KITTEに出店をすることになりました。
オープン当時は来館者数がとても多く、
毎日毎日忙しく働いていました。

妊娠が発覚したのはそんな頃でした。
つわりが酷く、
ケトン体が出すぎて飢餓状態になり、
3週間ほど入院しました。

退院後は安定期になりましたが、
ギリギリまで吐いていた記憶があります。
出産前2週間前まで働いて、
安産で生まれたのが今の娘です。

私のつわりが酷い頃、
新しい出店の話がありました。
夫が中心でやっていたのですが、
出店しちゃったのです。

ただ、その店舗は大失敗。
借金だけが残り、早々閉店しました。

いいこともあれば
嫌なこともある。
それが人生ってもんですよねw

と、これで懲りたかと思うとそうではなく、
表参道にも出店したことがありました。
こちらも、失敗だったのですが (^^;)

そして今は東京ではなく、
みなとみらい地区にあるお店1店舗で
頑張っています。

と、最後の方は足早になって
しまいましたので、
ところどころ抜けているところは
追々記事に出来たらと思います♪

と言いつつ文字数を見てびっくり!
前半と比べて倍以上の文字数になって
いたのですね、、、(^^;)

どうでしょうか?
私のことを少しは
知っていただけましたでしょうか?

どんな人間なのか、
やんわりとイメージして
いただけると嬉しいです。

「雑貨屋の店長をやっている
『さっち』ってなんか面白い人だな」
なんて思っていただけたら光栄です☆

noteをはじめてまだ1か月ですが、
これからも毎日投稿を頑張りたいと思います。
たまにサボることもあると思いますが、
そこはご愛嬌でお願いします m(_ _)m♡

もしよかったら、
スキ・コメント・フォローをしていただけると
今からの活力が倍増いたします。

どうか末永くよろしくお願いします。

さっちより


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