これが社会というなら、死んでやりたいと思った
以前はやさしい人になりたいと心から思っていて、なんとなくふんわりした言葉を使い、人に優しい人に憧れていた。明朝体よりも、筑紫丸ゴシックが似合うような言葉を身にまとっていたと思う。あのときが偽りの言葉だったかといえばそうではないが、歳をとり、自分のことを正しく受け取ってもらい、その上で人付き合いを大切にしたいと思うようになってからは等身大の自分を表現することがだんだん得意になったように思う。
テーマの本題に早く入らんかい、とそう言いたくなるような前置きを書いてしまったが、もう少し前置きに付き合ってください。このnoteを描こうと思ったのは、内田樹さんの「街場の文体論」という本がきっかけで。その本は、「クリエイティブ・ライティング」という内田樹さんが大学で開講していた講義内容を本にしたものだ。まだ全てを読んでいないのだが、正しい日本語の使い方みたいな、そういうマニュアル的なライティングについてではなく「書くことへの態度」が書かれている。その本の序章でものを書く感覚についてこう書いてある。
何かがわかっているから、何か伝えたいことがあるから書くのではなく、伝えたいことをわかるために書く。書きながら探すのだ、と。そして、内田樹さん曰く、書く力は説明する力であり、あらゆる言語表現には、他者が必ずそこにいる、といっている。ここでやっと本題に入っていくのだけれど、ここ最近、本当に精神的に参っていた。やる気は起きず、身体は重く、考えてもすぐに「わからない」のエラーが出るような感覚になり、自分自身に否定的になり、まだ人生60年くらいあるん?まじ?という気持ちになっていた。
「わからない」のエラーはどういうものかというと、なぜそのような思考で物事が進んでいくのかわからない、あなたがなぜそんな言葉を使って私を不快にするのかわからない、何が面白いのかわからない、する意味がわからない、私がいる意味がわからない、どうすればいいのかわからない。
ただわかっていることもある。それは、自分が何について悩んでいるのかということと、その中にたくさんの「わからないこと」があるということだ。最近、蕁麻疹が出たり、胃の調子が悪かったりと身体がなかなかに受け入れることを拒否するもんだから、この「わからないこと」はどうやら私にとってトゲトゲなものらしい。
受け入れ難いこの「わからないこと」を明らかにするために、わかるためにこのnoteを書く。なぜこんなに辛いのかを、書く。
これが社会というものだ
私は大学生という身分で、「社会」というものはある人から見れば知らないだろうし、きっと高校生の私と比べたら今の私は少し社会を知っていると思うと思う、知らんけど。高校生の私と今の私の違いは、アルバイトをしていることと、親元を離れて生活していることと昔よりも少しクラスという範囲を超えたスケールで人付き合いをしていること、それくらいだと思うけど、なんだかそれは「社会」を少し知る行為の気がするよね。
自分のやっていることをうまく進めるために、他人の人間関係を厭わずに利用すること、これは社会では当たり前らしい。大人はいつか自分が何かをお願いした時に断りにくくするようにするために、人に手を貸すらしい。「多分、それは相手が断りにくいから断ってないだけで、あんまり気持ちのいいお願いではないと思うんですけど……?」という疑問に、「でも、そういうのが社会だから。」とのことで。
頭ではわかっている。それはその人の知っている「社会」だということも、その「社会」と呼ばれているそれは「その人の経験」だということも。ただ、あんまりにもその社会に、その社会という思想のもとで進んでいく物事にも私が否定されている気がして、絶望的になってしまったのだ。
それが社会なら、お前のその言葉を信じて死んでやろうか、と思った。これは、もうほぼ怒りの感情で、この大学生活中にたくさんの大人の方と出会ってきたからこそ、なかなかに受け入れ難いのだ。よく、大学生への大人の関わり方で「学生のためだと思ってやっているが実は利用している関係」というのは問題視されていることだが、学生に「社会」を教えてあげたい大人は大体手伝ってくれる人員を素直に必要としていることが多い、気がする。
まだそれを自覚していたらいいのだが、私が知らない「社会」を教えて私に未来への絶望感を味あわせる必要ある?
書き続けようと、この文章をしているのだがなかなかに怒りの感情が募ってしまう。わかるために、書いているけれど、怒りの感情への耐性があまりなく苦しいので今日はこの所にしておきます。
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