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向き不向き、得意不得意。

今日も今日とて、エッセイを書いていく。

こんなに言葉を紡ぐのが好きなのだから、小説の執筆に挑戦してみればいいのに。そんなことを思う読者がいるのではないか、と最近思いつつある。そんな言葉、直接は聞いたことがないけれど。

ただ、小説の執筆に挑戦したことはある。外には出していないけれど、Wordを使って少しだけ書いた記憶。ただ、すぐに消してしまった。飽きてしまったから。自分で考えた物語にも、小説を書くこと自体にも。


私自身、フィクションの制作に向いていないことを思い知らされた。そもそも私は小説を書こうとしても、登場人物の設定だけで満足してしまうのだ。

子供の頃、漫画を描くことに興味を持って『まんがの達人』という連載を親に買ってもらった(同志がいてくれますように)。毎号何かしらの道具が付録としてついてきて、漫画の描き方を少しずつ教えてくれるもの。ディアゴスティーニだったかどこだったか、発売元は忘れてしまった。

その時も、登場人物の設定は嬉々として取り組んだけれど、肝心のところで飽きてしまったのだ。男性キャラクターの顔の描き方とか、女性の体型の描き方とか。重要なことが書いてあったはずなのに、そんなものは一瞥しただけで終わってしまった。付録についてきた小型のマネキン人形を、開封早々に壊した記憶だけは今でもはっきりと覚えている。


だから私は、エッセイを好んで書くのだと思う。

登場人物の設定だけで満足するくらいなら、自分自身のことをつらつらと書いていった方が満足度が高くなるはず。エッセイの方が、時間にも内容にも心にも余裕が生まれるのだろう。

なにより、ノンフィクションの方が自分事として捉えられる。他人事としてふわふわと考えるよりも、自分事として心でしっかり受け止められた方が私の気は楽になるのだ。今後の人生に活きる予感がするし。

大人になってから、作者の個性が滲み出るエッセイの魅力に取り憑かれたので、その辺りの影響もあるのだと思う。私が書く文章のジャンルを早くから狭めるのはよろしくないけれど、エッセイが最も自分らしさを出せるからこれでよかったかもしれない。

ただ、言葉の表現は枚挙にいとまがない。こうして長々と言葉を紡ぐ方法もあれば、俳句や短歌のように端的に言葉を紡ぐこともできる。いろいろな方法を試して、これからも自分なりの方法で私の想いを届けたい。文章の先にいるあなたへ。


さて、明日は何をテーマにエッセイを書こうか。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。いただいたサポートは、今後も私が書き続けるために必要なものの調達に使わせていただきます。