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【光る君へ】第6回「二人の才女」感想:文学、政治とロマンスの原動力に

 宮中の政治的争いは構図を変えながら深まっていきます。円融天皇期に重きを成した頼忠、雅信、そして兼家らはそれまで決して一枚岩ではなかったものの、花山天皇期になって台頭してきた義懐・惟成への対抗を強めるべく歩み寄ります。一方で義懐・惟成は自らの立場を盤石にすべく、公任と斉信という青年貴族の取り込みを図ります。若い公達を取り込みたいのは右大臣家も同じです。長男の道隆は、兼家流の強硬策ではなく学問に励む彼らを招いて漢詩の会を開くという、婉曲的ながら彼らの心を掴む方法を採りました。
 他方、東三条殿の詮子は兼家への反感から、雅信へ接近するという策に出ます。自分と息子の立場の安定を図る彼女は、雅信に自らの支援者となるか、兼家と対立するかの二者択一を迫ります。雅信にとって兼家は現在決して対立したい相手ではなく、返答に窮した彼は詮子の要求を聞き入れるのでした。ここに、円融天皇と兼家との間で板挟みするばかりだった詮子の姿は消え、彼女はこの政治的構図の中で新たな台風の目となります。
 詮子と兼家はそれぞれの思惑で左大臣家の力を欲します。その結果、まひろの思い人である道長は、立場を異にする父と姉の双方から、雅信の長女・倫子との結婚を打診されるのでした。最後に道長がまひろに送った「ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし恋しき人のみまくほしさに」という歌は、早急に答えを出さない道長が、これ以上なく本心を露わにした歌のように思います。当のまひろは今回、自分を押し殺す立ち回りが目立ちましたが、この道長の歌にどう応えるのでしょうか。


「清少納言」と「紫式部」の初対面

 道隆の主催する漢詩の会に呼ばれた為時は、惟規の代わりにまひろを伴います。漢詩の会には同じく漢学者の立場から、清原元輔がその娘・ききょうを伴ってやってきました。このききょうこそ、『枕草子』を著す後の清少納言です。道長の手前もあっておとなしくしているまひろをよそに、ききょうは公達の詩の感想をそれはもう元気にハキハキと披露します。ききょうの表情の明るい豊かさが、彼女と他の女性キャラとの違いを印象付けています。
 そんなききょうの姿にまひろは、硬い顔をしています。まひろもつい最近まで、倫子のサロンで自分の知性を無意識ながら披露してしまい、周囲の人を面食らわせています。ちょうど倫子との交流に自分の使命を見出したまひろは、その辺りの塩梅を(ききょうとは異なり)ようやく身に着けてきたところです。幼稚な自分の振る舞いを思い出し、苦い思いをしたことでしょう。逆にききょうはあのままの性格が成熟していきそうです。
 因みに、公任の詩に独自の感想を述べたききょうの姿に、道隆の妻である貴子が感心げに一瞥していました。ききょうは後に貴子の娘、定子に仕えることになります。今回の漢詩の会は、ききょうにとっては宮仕えのきっかけともなる場だったのかもしれません。一方で、『枕草子』で交流が語られる斉信とききょうが出会った場面でもあり、2人のやりとりも楽しみです。

文学、政治とロマンスの原動力に

 道隆の主催した漢詩の会は、「酒」という、政治よりは享楽を引き出す題で行われましたが、最後には政治に繋がる交流を可能なものとしました。
 行成の詠んだ詩は、思い出の品である酒杯を前にして孤独をかみしめる詩です。行成は若くして祖父と父を亡くしており、後ろ盾がありません。その所在なげな心が窺えます。
 斉信は詩の中で酒を性急に求め、散ってしまう花に若さを陰らせていく自分を重ねます。ちょうど今回、斉信は忯子に自分の取り立てを願い出て空回りしてしまっていました。詩の意味に反して実際はこれからの人生が長い斉信だけに、外戚の立場を得られそうで得られない焦りが滲んでいます。
 今回最も称賛された公任の詩は、唐の太宗の善政を踏まえた技巧的なもので、彼の漢籍の素養が感じられるものです。風雅な景色に理想的な治世の現出を見る威風堂々とした詩からは、第一級の政治家の嫡男である公任の今を時めかんとする姿が見えてくるようです。一方で花山天皇の治世を称えるその詩は、現実の混沌とした政情からは少し浮いた印象を与え、観察力よりも個人的な慢心が目立つものとも言えます。
 道隆は全員の詩が詠まれると彼らの向学心を汲み、ともに天皇の治世を支えていこうと呼びかけます。道隆の心からの(ように見える)誠実な態度、公達の理解者としての姿勢にはその場の全員が感心し、その後公任は翻って道隆に与することを示唆します。道隆の目論見通り、漢詩の会は青年貴族の心を掴み右大臣家に勢いを与えるものとなりました。ここでもまた、文学が政治の原動力となったと言えます。
 ちなみに道長の詩は菊の花を傍らに「君」への思いを語るものです。「君」という言葉自体に恋愛のニュアンスはありません。しかしながら、菊は重陽の節句に重んじられる花で、ドラマではこの重陽の節句に際して行われたのが五節の舞、つまりまひろと道長が互いの素性を知った出来事だったのです(道長は居眠りをして、まひろのことは後追いで知ったわけですが…)。つまり道長の詩は聞く人が聞けば、節会で会ったまひろを思う切なさを感じることのできる、切実でロマンチックな詩だということができます。道長が詠みこんだ思いを、まひろも汲み取ったようでした。

浮上する「おかしさ」

 母を喪い父に反発した幼少期の経験からか、まひろの思考には反体制的・反男性社会的な性質があります。それは彼女の文学への態度に与えており、特に『竹取物語』の読みにはそれが色濃く表れていました。今回、直秀ら散楽の一団に提案した舞姫の物語にも、男を手玉に取る舞姫(モデルはまひろ自身なのですが…)のモチーフが現れます。直秀はそれを一蹴し、「笑える面白さがなければ散楽には意味がない」と突き放します。ここでムキにならず、「笑える話」を考えることにするところに、未来の大作家としての片鱗が見えます。
 私としては、ここでききょうの言動がまひろに影響するのかな…とも思いました。というのも、この「おかし(をかし)」こそ、ききょうもとい清少納言の書いた『枕草子』の最たる特徴とされているからです。ただ、そこは史実でこの時期に交流の無い2人だからでしょうか。そのような文学的化学反応は、ドラマでも描かれませんでした。とはいえ『源氏物語』にもコミックリリーフ的な場面(源内侍をめぐる源氏と頭中将とか)はあるので、直秀の言葉は今後のまひろの物語づくりに大いに響くものなのだと思います。

その他

◆帝の寵姫・忯子がとうとう亡くなってしまいました。天皇が彼女の手を固く握る様子は、即位時の緊縛の夜を髣髴とさせながらも、天皇なりの愛が感じられるものでした。それはそれとして、とても不穏です。
◆道長の詠んだ歌は、実際には伊勢物語を出典としているようですね。古典の知識をもってよりドラマを愉しみたいものの、いかんせん予習が全く追いつきません。
◆結婚が取りざたされるものの本人どうしの交流がない道長と倫子ですが、今回「書物が苦手」「漢詩が苦手」という共通項が見えてきました。
◆為時はまひろに引き続き「お前が男であったら…」と喜ばしくないことを言ってしまいます。為時のまひろへの信頼と気遣いが無いわけではないはずが、決して形にはなりません。
◆道隆は、政治に興味がないはずの道長に、政治家としての変化を見て取ります。後の歴史を知っている現代人としては、むしろ政治に関心が無い道長の方が新鮮なので、この対比が面白いです。今回の道長の政治的な意思の底には、世を導きたいという公明正大な心があるのですね。
◆直秀は陰鬱に囁くような話し方が印象的になってきました。今回道長に射られてしまって、どうなるかな…。
◆高橋光臣氏が調子に乗っているところが見られて貴重です。
◆倫子は雅信のハエの話を引き合いに「内裏でのお仕事は鈍いくらいでないと」などと言って見せます。陰謀で息つく間もないのですが、雅信を介して倫子が観る宮中はそんな感じなのですね。ただ、鈍さは鈍さでひとつの生存策なのかもしれないとこの父娘を見ると思います。

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