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海外適応障害になりかけた?バンコク在住日本人ママsat


ほんとはワードプレスでまたブログでもやって私の思いを書き溜めていこうかなと思ったんだけど、機械音痴な私がまた色々触ってよく分からなくなってしまったので、とりまこっちに書こうか。。みたいな感じで、だいぶ前に仕事で作ったアカウントを久しぶりにnoteを開けてみましたとさ。

いつもインスタでつらつらつらつら書いてるけど、ここまで自己開示しまくってるくせに改めて自己紹介的なことってしたことないなと思い、思いつきで書いてみます。

1985年北陸の田舎生まれ。

山羊座、生粋のO型。今年39歳。
タイ人夫の妻であり、5歳と3歳の息子ズの母でもあるバンコク在住のアラフォー日本人女性です。

日本語バイリンガル

小さい頃から転勤族の父に連れられて転校生をしていたため、日本語は標準語と地元弁のバイリンガル(だと思っている)。

高校は地元の国際科英語コース

「普通科?普通って何よ、私は普通なんていや!」とか言って、高校は市をまたがないと行けない遠いところにある県立高校の国際科英語コースに入学するも、名ばかりで普通科にちょっと毛が生えたくらいの程度の英語力だった。

かっこよ!ニュージーランドへ憧れ留学

高2の2月に「語学研修」として行ったニュージランドはオークランドにて、これまでは学校で習う授業のひとつでテストの点数取るために覚えていた英語で生活するかっこいい欧米人の姿に感化され、ミーハー心隠せず卒業後はまんまとオークランドへトンボ帰り語学留学。そこで初めてできた韓国人の彼氏は今もいい思い出。

消去法で決めた学科に入学したオーストラリア時代

ある程度話せるようになった帰国前に「英語話せるだけじゃ物足りん」と、もうひとつ上を目指すようになるも、ニュージーランドはやり切った感あったため、お隣オーストラリアのカレッジに入学することを決める、この時19歳になる直前。

カレッジ入学に必須だったIELTSの結果が出るタイミングがカレッジ入学と合わず、半年一時帰国したのちオーストラリアはパースへ。ちなみにその時に今のタイ人夫と出会ったので、知り合ってからはなんと約20年もの仲ってのはもはやホラー。time flies ですよ、ほんと。

カレッジで何を勉強してきたの?はズバリ「ホテルマネージメント」。ぶっちゃけホテルマンになりたくて入ったってより、「英語を使って何かを勉強したい」が第一目的だったので、学科はなんでもよかった。たまたま選んだカレッジの学科の中で一番興味あるってか、これならいいかと思ったのがホテルだったってだけの話です、はい。

日本帰国後は職場を転々とした

「このままパースにいても、バリバリ仕事しようと思うとやっぱ外国人だからハンデあるよな。じゃ日本帰ろ!」って予定より3年も巻きで帰国したのが21歳。外国でホテル学勉強してきたから外資系ホテルっしょって思ったけど、帰国直後はお金も経験もなかったので、地元近くの京都の旅館で仲居さん修行に入る。これがまたすごい経験でさ、館内で社会の縮図を見たよね…
今は家族いるし出来ないしやりたくないけど、若いうちにやっておいてよかった。

初のホテルマン経験はインルームダイニング

京都での人生修行とも言える半年を経て、外資系ホテルに就職して上京してきたのが22歳直前。小さい頃横浜住んでるので、京都より土地勘あるけどオーストラリアよりなんか怖い…が最初の一人暮らしの印象だった。

入社したホテルで最初に入った部署がF&Bの中でも夜勤が発生するインルームダイニング。ルームサービスを提供する人たちですね。プライベートな客室に入っていくわけなので、日頃レストランでバリバリおめかししてる人の部屋着姿やどすっぴんとか見るんですよ。有名なホテルだったので、どこぞのセレブもいたなあ。ちなみに私が一番感動したのはハリウッドスターの⚪︎ュード⚪︎ウです。ミソスープとパイナップルを手渡ししたよ。どんな組み合わせ?

こっからしばらく私的就職氷河期

ある日、ホテルのPRチームに客室にお茶を持っていくように指示されてね。PRって正直どんな仕事してるのか知らなかったけど、1人だけ制服着ずにおしゃれなオフィスウェアって感じでキメてて、メディアの人たちとキャッキャ楽しくおしゃべりしてて、ミーハーな私は直感で「やりたい!」と思った。当時仲良しだったGMに直談判したら「もっと現場で経験積んでからでも遅くないよ」と言われた。(今ではめちゃ分かる、現場経験の大事さ)

でもまだまだ若かった私は、ここにいたら数年はPRになれないと感じ、即刻やめて次なる道に進んだ。でも、こっからが山羊座の運命的にも?簡単ではなかった。

某モデル社長によるウォーキングスクールPRになるも詐欺だった

そこそこ有名どころの求人サイトで見つけた、某モデルによるウォーキングクラススクールのPRのお仕事だったんだけど、当時オフィスがミッドタウンにあってね、なんか雰囲気酔いしててね?

ホテルを退社する前から休みの日はミッドタウン通って引き継ぎして。。みたいな毎日を送ってたんだけど、そのモデル社長のビジネスパートナーみたいな、オフィスレンタル会社経営してるおじさんに「君にはこの仕事は向かない」とか言って、なぜか部外者の一言で辞めさせられたんだよね。

しかも、辞めるって決まる前に誘われて参加表明していた「ベトナム出張のキャンセル料を払え」ってメール来て。ちなみにここまでモデル社長は全然関与してないのよ、あくまでもそのオフィスレンタルの人。彼女は言われるがままで、何にも助けてくれなかった。

返金も何も、出張なんだから自分が払うと思ってなかったし、もう辞めるってなったのに何で払わないといけないの?と反論するも、いまだに覚えてるメール返信の内容が「困りましたね〜」みたいな、今思うとほんと反社会的組織?みたいな書き方で。大人になった今でも本当に不明。

怖いし困ったしって、消費者センターに相談して、言われた通り内容証明で「返しません」って文書送ったりしてたら、気づいたら解決まで半年くらい経ってた。

あの頃はまた騙されるのが怖くて、仕事を探せなかったな。

ちなみに、その数年後に前のホテルで一緒に働いてた人でミッドタウン内のホテルに転職した人に「あの会社のオフィス、突然も抜けのからになってたよ」と聞いた。やっぱ黒だったのか??

派遣を転々と

でもお金ないとさ、生きてけないんでってことで、ちょっと傷が癒えたくらいの時に派遣でとあるラグジュアリーブランドの本社でストック管理する仕事を始めた。派遣だと雇用者との間に入ってくれる人がいるから、なんか安心できたんだよね。直雇用が怖かった。

そこで社会人として会社で仕事するってことができるようになって、そうしたらまた「そうだそうだ、PRやりたかったんだ私は」って思い出しては派遣先を変えて(でもまだ派遣)…みたいなことをしながら、最終的に神田にある広告会社に社員として入社。それが25歳の頃。

アメリカ人の彼と付き合うも、彼はACだった

広告会社では、広告半分PR半分みたいな感じでやらせてもらってたんだけど、いつの間にかPR案件がなくなり、気づいたらただの広告ウーマンになっていた。それでも正社員として雇ってくれてるのが嬉しかったし、広告もPRのうちのひとつ…と自分に言い聞かせて、その環境に納得しようとしていた。

そんなある日、友達の彼氏の友達ってことで渋谷のバーかどっかで仲良くなった、ニューヨーク出身の男友達に案内してもらう形で初めてニューヨークに遊びに行った。確か26歳。

行ってみたかったけど遠いしなんか怖いし…と感じていた憧れのニューヨークは、世界の人々を魅了するだけあって、やっぱ「すごい」街だった。陽陰両方のエネルギーを感じる、人のエネルギーを吸って元気になる!みたいな不思議な街。

そこで、さらにまたその男友達の友達として、たまたまみんなで食べに行ったメキシカンレストランに隣に座った、中華系アメリカンの彼。彼がのちに私の彼氏となる人だった。

今思うと、影のある感じがセクシー!みたいな浅はかな感じだったんだろうな。なんか大人な感じで、ダンディな感じっての?惹かれちゃったんだよね。結局、別れる原因もその「影」っていう。影にはじまり陰で終わる的な。

もちろん旅行でニューヨークに行ったので、数日後に私は東京に戻ったわけだけど、そっからメッセンジャーや電話をする仲となり、ちょっといい感じになって、その年のクリスマスに私が再訪して、見事遠距離カップルとなって。

付き合い始めてから、いつまで楽しかったのか?覚えてないけど、遠距離というのがまだドラマを盛り上げる。。。じゃないけど、私は今日を生きていて彼は昨日を生きている。。けど私たちは繋がっている。。みたいなまるでポエマーのような日々だったよね。w

結局その彼とは2年半くらい付き合って、結婚の話も出なかったわけじゃないんだけど、私がギブアップしました。

理由は「結局彼は私を見ていなかったから」なのかな?彼も辛いからあんまり話してくれなかったけど、ポツッとつぶやくことを線に繋げてみると、きっと彼はDVのお父さんと精神病になってしまったお母さんとの間で暮らしてきた「機能不全家族」出身だったんだよね。

愛された経験がないから、愛し方も知らない。自分も他人も。でも人一倍愛されたい!みたいな、大人になった彼の心の中にいるインナーチャイルドが常に叫んでいる。。みたいなさ。こんな自分を好きとか言っては訪ねてくる日本人の女を愛してるか?はよく分からないけど、自分の事を愛してくれる人がいて、誰かに愛されている自分は悪くない、だからキープ。みたいな。

こんなんで結婚しても無理じゃね?って、思考がDV被害者みたいになってた私は運良く気付けて、LINEで別れを告げた。彼は別れたくないっていう割に電話してこないし、ましてや日本に追いかけにも来ない。そんな程度だったんだって思う。

次こそは日本で日本人と恋愛を。。。!

これまでご縁のなかった日本人男性、今度こそは!もう遠距離とか疲れる!って、日本人を好きになる努力をしていたのが、彼と別れて1年ほど経った30歳の頃。当時勤めていたホテルのカメラマンをしてくれた彼を好きになろうとしていた(今思うと、好きになる努力って何だそりゃ)

バンコクに呼ばれた日

開業目前のホテルにオープニングPRスタッフとして入社し、毎日終電で帰宅していた頃に日タイハーフの友達がバンコクでの結婚式に呼んでくれて。

念願のPRスタッフになれて嬉しかった反面、ホテル開業で当時めっちゃ疲れてたし、冠婚葬祭でないと休みなんてもらえない。。と思った私は、彼女の結婚式に参加することにした。バンコクなんて、その昔タイ人の友達とプーケット行った時に一瞬寄った程度でしか行ったことなかったけど、正直場所なんかどこでもいいから、私に休みをくださいお願いします状態だった。

アッシーメッシーくん需要で夫にメッセ

無事休みの申請が通り、チケットも取ったはいいものの、結婚式当日以外は特にやることがなかった私。どこにご飯食べに行ったらいいかも分かんないわ。。。って時にふと思い出したのが、当時友達だった夫の存在。

すかさず「今度バンコク行くんだけどキャッチアップどう?」なノリでメッセンジャー飛ばして、返事きて約10年ぶりに再会した。

パースにいた頃はアジア人学生のグループの中にいた1人って感じで彼を見ていたので、2人で会ったりしたことがなかったこともあり、正直ちょっと覚えてなくて。でもホテルロビーに迎えに来てくれた彼を見て、なんかほっとしたような気もする。

ビバ適齢期、結婚までまっしぐら

パースにいた19歳の頃は結婚なんて考えてもなかったけど、再会した頃には30歳になってたので、自然と今後を考える年齢だったんですよね。

だからかな?なんかタイミングとかフィーリングとかハプニングとかを経て、気づいたら再会から2年後にはホテル辞めて結婚してバンコクに降り立っていた。

バンコク在住早7年目。酸いも甘いも経験

いきなり端折るんですけど、バンコクに降り立った日から早7年目に突入した2024年。

この6年間は、前半妊娠&子育て、後半コロナって感じで非常に身動きが取りずらく、そしていろんな意味で自分を見失った日々でした。

母国日本では当たり前のようにように手にしていたもの。それを一気に失った。それによって自己肯定感や自信を失い、自由を失い、そりゃもう大変。

5年間義母と同居してたのだって、めちゃ苦行だった。義母は元看護婦で仏のように優しい人だけど、仏が過ぎるとただの過干渉。移住してきたばかりの妊婦なんて、構いたい対象ドンズバだったのかな?めっちゃお世話してくれた。それが私には辛かった。

お医者さんに行くって選択肢がなかったから病名なんて貰わなかったけど、今思うと私、バンコク適応障害になりかけてたなって思うんです。

海外好きのミーハーでさ、高校の時の好きなドラマは「フレンズ」と「ビバリーヒルズ」。聞くのはもちろん洋楽で、初めて買ったCDはマライアキャリー。
あの世界に仲間入りしたくて高校卒業したら本当に行っちゃって、やーっと日本帰ってきたと思ったら、暇さえあれば海外旅行はいくわ、外資系にしか入社しないわ、彼は外国人ばっかりだわで、どこまでもカブれていた私。そんな私が海外適応障害だなんて、何だそりゃ。

初めはこれ以上傷つきたくなくて、必死に蓋していた臭いものにようやく目を向けるようになったら、少しずつ自己開示できるようになり、それまで演じてきた「理想の私」から脱皮して「本来の私」が分かるようになって。

そりゃ最初は「本来の私」が居心地悪く感じたけど、でもそれが元々の私なんだなって感じる側面が増えてきて。今は頭と心と魂を統合されて、本来の私を受け入れて、あるがままの自分でいようと思えている。

そうゆうきっかけを与えてくれたのは、実はバンコクだったのかもしれない。思い通りいかなくて、何度も立ち止まったから気付けたのかもしれない。私から自由を奪ってくれた義母だったのかもしれない。毎晩泣いてばかりだった私を支えてくれた夫のおかげだったのかもしれない。

そう思えるまでになりました。

そんなね、日々の気づきとか学びとかをつらつら書いてたら、どこかで悩んでいる海外適応障害の方の励みになるかもしれないって、恥ずかしがらずに自己開示していこうと思うようになったんです。

そんな、かっこよくも何でもない私、satです。
よろしくお願いいたします。

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