牧野陽子さん、ごめんなさい【読書感想文】平野啓一郎『マチネの終わりに』
主人公の二人は、ずっと「牧野」と「陽子」だと思って朗読を聞いていたら、「蒔野」と「洋子」だった。
聴き終わってから気付いた。
これって結構大問題だ。イメージ変わる。
具体的に言うと、「蒔野」の方がイケメン濃度が高そうだし、「洋子」の方がクールっぽい感じがする(全国の牧野陽子さん、気を悪くされたらごめんなさい)。
今聴いてる韓国の小説では、韓国近現代史についての注が多くて、話の途中でいちいち読み上げてくれるのが痛し痒しなんだけど(そのうち「注読み上げモード」と「注スルーモード」が実装されるだろうか)、固有名詞が新出する度に「蒔野、草かんむりに時、野原の野、が、洋子、太平洋の洋、子どもの子、と初めて会ったのは……」などとやってくれては、もちろん困る。
しかしおそらく著者は、親が子に名をつけるのと同じように、登場人物の名前の響きだけではなく、漢字にも神経を使って命名しているはずだから、それが伝わってこないというのは、こちらとしてもさみしい。
また、改めて気づいたのは、必要でもないし頼まれてもいないのに、朗読を聞きながら勝手に漢字を当てていたことだ。調べればすぐに分かるのに、だ。おそらく頭の中でひらがなのまま朗読を聞く日本人は、まれなのではないか。
逆に言うと、英訳された日には、ひとからげにローマ字表記にされてしまい、その漢字の意味が作中で言及されてでもいない限り、どんな漢字なのか触れられることもないだろうし、そもそも気にもされないだろう。このことひとつ取っても、翻訳によって失われるものの大きさがわかる。
逆に、外国語の固有名詞をカタカナ表記することで失われるものはあるだろうか。
例えばAudrey Hepburnが、「オードリー・ヘボン」と表記されていたとしたら、日本における洋画の受容のあり方は、変わっていたかもしれない。ハリウッド女優というもののイメージが、変わってしまっていたかもしれないからだ。
具体的に言うと、ヘップバーンのほうがヘボンよりゴージャスな感じがする(全国の「ヘボン」表記のHepburnさん、ごめんなさい。でも全国のAudrey さん、「オードリー」のイメージが変わったのは、若林さんと春日さんのせいだと思います)。
ちなみに(ちなみに?)小説は90点。ハイクオリティだけど、ちょっとキザい。ラストは蛇足。三谷の造形は素晴らしかった。
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