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海に挑んだ星

海を駆け抜けた一人の男がいた。
日本最高傑作といわれた戦艦大和を護衛する護衛艦にその男はいた。
これから補佐する戦艦大和には、空高くそびえる機関砲が規則正しくも勇ましく備えられている。軍人になった当時から、その全貌を一目見たいと憧れた青年の心を掴んで離さないほど、大和のたたずまいは美しく、彼にとっては、自らの命、そして、志を映し出した絶対的な存在として、いま、その護衛に当たれる栄誉に酔いしれているのであった。

瀬戸内海に浮かぶ小さな島で育った彼は、自らの命を国家と海に委ね、海軍へ志願兵として入隊した。
実家は遠洋漁業の網元だったが、度重なる船の沈没で瞬く間に財は尽き果て、家は没落した。
海軍士官学校への進学する学費はない。
家計を助けるため、日露戦争でいずれも大海に散った二人の兄の志を受け継ぐため、彼は自らの運命を海に浮かべる覚悟をしたのだ。
健全な肉体を維持し成績優秀でなければ一生一兵卒のままだ。
島で鍛えた泳法には自信があった。
勉強も人一倍努力した。
志願兵として入隊後、幾度もの昇進試験を一度も落とすことなく、階級を上げていった。

名は、大友勝正。

山口県周防大島出身の若き軍人は、まっすぐ前だけを見つめ、自らの命をもって日本の未来を紡いでいくことを誓い、洋上で迎え撃つ敵艦に集中するのである。

ズドーン、ズドーンと地鳴りのような爆音とともに、あたりが真っ赤に染まった。
乗船する護衛艦が敵の魚雷攻撃を受け、火の海と化したのである。
天地が何度逆転したか、上に下に体がおもちゃのように浮き上がっては叩きつけられる。
事態は深刻だった。
すぐに海に身を投げ出さなければ、艦とともに海底深くに沈んでしまう。
「急げ!」
乗組兵たちの怒声は炎と海水のうねりでかすかに聞こえるほどであった。
光脈のように艦体に空いた穴が見えた。
「今しかない!」
身体を思い切り前に出し、その艦体の穴に手をかけ、よじ登るように海中にうねり出た。
必死に水をかき、海上へ頭を出した。
我が艦への別れを惜しむ暇などない。
とにかく前に前に、水をかいた。
重油が海水を重くする。
目をあけることはできない。
自らの感覚だけを信じ、前へ前へ、自らの腕を振り回しながら、洋上を進んでいく。

目を閉じている瞼に、強い光が当たっているのがわかった。
敵か、味方か。
もとより、敵の辱めはうけないつもりだ。
運命は二つに一つ。
光の方に向かって泳いでいく。
「おーい、おーい!」
光の向こうからはっきりと声が聞こてきた。

助かった……

味方の護衛艦にすくい上げられ九死に一生を得た。
大和は激しい空爆を受けている。
山のような戦艦が火の粉をあげて傾き始めた。
「大和を沈めたらいけん!」
「大和は日本人の魂じゃけん!」
護衛艦の海兵たちが沈みゆく大和の姿に涙をうかべ、援護射撃を続ける。
我らの艦体もまた、激しい空爆を受けはじめた。
耳をつんざく戦闘機からの機関銃の音。
甲板を弾く鉄砲玉。
一瞬にして砲撃隊の仲間が海に散っていく。
ズドーン、ズドーン。
今度は一気に艦のおしりが海に吸い込まれた。
勝正は宙に浮いた。
「これはもうおしまいじゃ……」
宙を舞いながら、眼下に沈みゆく艦の姿があった。

次の瞬間。

床に叩きつけられたような衝撃を全身に受けた。
再び漆黒の海に勝正の身は引き戻されたのである。
まとわりつく重油。
前に進むしかない。
目を閉じ、自分の感覚だけを信じ、前へ前へ必死に腕をまわした。
鉛のような水を力の限りかき分け、かき分け、必死に泳いだ。
海には戦闘機の破片、流れ弾が次々と流れ星のように落ちてくる。
あたれば終わりだ。
自分の命は、自分の意志とは関係ない大きな流れに委ねられていると勝正は遠ざかる意識の中で思った。

再び、強い光が瞼に当てられた。
敵か、味方か。
もうどちらでも良い。
一度拾った命だ。
もう十分、お国のためにつかったのではないか。
そう思いながら、光の方に向かって水をかいていく。

「おーい、こっちやぞー!」

助かった……

勝正は再び護衛艦にすくい上げられた。
すでに大和の姿はなかった。
これ以上抵抗することができない。
主を失った日本艦隊は抜け殻のように退かざるを得なかった。

勝正は自らの死に場所と決めた海で、二度も命を拾った。

定めとは不思議なものだ。
大海に自らの運命を委ねた日から、自分の命は国家のものと決めた。
いつでもこの命をもって報国せんと、私心を捨てて任務に当たった。

軍人として守りたかったのは何か。

終戦にあたり、自らに問うた。

国体護持。国家安寧。
日本人たる誇りをただただ守りたかったのだと勝正は静かに思った。
兄たちが誇らしげに語った祖国を守ることへの誇り。
今でも、彼らの誇らしげな顔が鮮明に蘇る。
自分もかくありたい。
その一心で駆け抜けてきた。

私利私欲のために戦をしたのではない。
国家安寧と正しい国づくりをするために剣を持ち戦いに挑んだのだ。
それは、長い時間をかけて育まれた日本人の精神ともいえる。
弱きを助け、強きを挫く。
利他の精神と慈愛の心をもつ民族。それが日本人なのだ。

海を駆け抜けた男は決して大きなことを成したのではない。
自らの命を国家のために捧げた無数の集合体の一部だった。
だが、その無数の尊い生命体が守りたかった精神は、日本人の魂にバトンのように受け継がれた。

魂に刻み込まれた先人の願い。
使命とは受け継がれたバトンなのかもしれない。

国体を護り、平和で安心した国を紡いでいく。

海は今日も、静かに佇んでいる。

すべてを受けとめ、受け入れ、歴史を包み込んだその海に、空に輝く星たちがその姿を映し、穏やかに揺れている。


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