青い鏡と黄色い鏡:Mirrorと(脱)政治 【未定義的衝撃:Mirror現象と国安法時代の香港カントポップ(3)】
2019年、香港の音楽業界は「青」と「黄色」に分裂しているように見えた。
香港において「青」は保守派・親政府派、「黄色」は民主派を示す色だ。
民主化をめぐる問題が顕在化するにつれて、民主化やデモを支持する人々の間では、このアーティストは果たして「青」なのか「黄色」なのか、ということが問題にされるようになった。
メインストリームで活躍する有名歌手の多くは、大陸市場を失うことを恐れて政治的な発言を避けたり、間接的に香港や中国の体制を擁護する発言を行ったりして、民主派のファンたちの失望も招いた。そうした歌手に対して「大陸に奪われてしまった」「もう香港を代表する歌手ではない」と嘆く声もしばしば聞かれた。たとえば前々回の記事で見た陳奕迅(イーソン・チャン)なんかもその例だ。
一方で、市場の喪失を覚悟で政治活動を行うごく一部の著名歌手や、はなから大陸市場に期待しないインディーズ系のアーティストたちの中には、積極的にデモに参加したり、プロテストソングを発表したりする者もいた。こうしたローカル路線のインディーズ系アーティストの例として、以前このnoteではMy Little Airportというインディーズバンドを取り上げたこともある。
(ちなみにこの2019年前後の香港の音楽業界の政治的二極化については中国研究月報という雑誌に論文を書いたりしているので、もし図書館とかで閲覧できたらぜひ見てもらえたらうれしいです)
「非政治的」で「香港的」なスター
かつてカントポップは、香港の多くの人々の共通体験だった。香港の文化研究者たちは、そんな共通体験としてのポップカルチャーこそが、大陸からの移民や難民の寄せ集めだった戦後香港の住民たちの間に「香港人」というアイデンティティを生み出したのだ、と主張してきた。
しかし、そんな主張をしてきた学者・文化評論家の一人である馬傑偉(エリック・マー)は、2014年の雨傘運動直前に「二つの香港」という評論を書き、そんな共通体験という領域が、政治化の進展の中で失われつつあると嘆いている。
二つに分かれたのは、たぶん香港の音楽業界も同じだ。
一方に愛国を表明し、政治問題を避け、抽象的で当たり障りのないラブソングを歌う「非政治的」で「非香港的」な青いスーパースターたち。
もう一方に、商業的成功を犠牲にしてでも香港への愛着を表明し、政治や社会問題を積極的に歌の中で取り上げ、政治活動にも参加する「政治的」で「香港的」な黄色いローカルスターたち。
Mirror現象をこうした図式の中に置いてみるとどうだろう。
音楽の政治化が進む今日の香港において、彼らは「非政治的」でかつ「香港的」でもある稀有な存在として台頭し、政治を超越するポップスという領域を切り開いた(あるいは復活させた)のではないかと私は思う。
* * *
「青い」Mirror?
Mirrorは一見、全く政治的ではない。
彼らの歌は、ポップソングというものが大体そうであるように、基本的には抽象的なラブソングや応援ソングばかりだ。Mirrorの歌にも暗いテーマを取り上げた歌や、文学的な歌詞を持つ素敵な歌はあるけれど、少なくとも社会問題が直接的に取り上げられて歌われることはない。またメンバーは、日本においてもほとんどの芸能人がそうであるように、ストレートな政治発言もしない。
そうやって政治との関わりの薄い彼らは、香港内の保守派、親政府派にとっても応援しやすい安全な存在だろう。彼らは危険な「黄色」(民主派)ではないのだ。
たとえば著名な親政府派議員である葉劉淑儀(レジーナ・イップ)は、今年5月、政府の通商部門トップに対して「MirrorとErrorが大陸の番組の番組に進出することを後押しできないか」と進言している。彼女は新聞にも寄稿し、Mirrorは韓国アイドルが世界を席巻する中で久々に現れた待望の香港発のアイドルであり、彼らの姿はこれからの香港の若者たちの模範になるべきだと、と絶賛した。
一方のファンたちの方も、Mirrorの政治的傾向は全く問題にせず、前回の記事で見たように、ただただ自分の推しを応援するためにお金を使っているように見える。
こうした非政治的、脱政治的態度は、かつての香港においては珍しいものではなく、「香港人は金儲けにしか興味がない」というような表現が香港人自身からも外部の観察者からもしばしば聞かれた(らしい)。
でも2010年代の香港では、経済よりも民主化問題や自由の喪失といった政治に関心を抱く人々の割合が急速に増加し、「政治的覚醒」が進んだ。(参考:倉田徹『香港政治危機:圧力と抵抗の2010年代』東京大学出版会、2021年、第2章「香港市民の政治的覚醒:経済都市の変貌」)
政治に目を瞑り経済活動にのみ勤しむ旧来のイメージ通りの香港人は、近年の香港のネットでは「港豬」(香港のブタ)と揶揄されるようにもなっている。
鏡の国への逃避?
一見するとMirrorファンたちの態度は、まさに「港豬」的に見えるかもしれない。実際に、そういう批判も今年の香港のネットではしばしば目にした。
Mirrorファンたちの活動は、かつての民主化デモの動きに反するものにも思える。
たとえば、Mirrorのメンバーを広告に起用するのは当然大企業が多いが、香港における巨大資本は親政府、親中国の傾向が強い。2019年のデモの際にはそうした大企業を「藍店(親政府派の店)」とみなしてボイコットし、反対に民主化を支持するローカルな企業(=黃店)を利用する「黄色経済圏」という活動も行われた。
前回の記事で見たような、推しが広告起用されたブランドを支援する「Mirror経済圏」の考え方は、こうした政治的消費の動きとは当然相容れないものである。たとえばMirrorを広告起用する企業には、創業者親族が民主派を断罪する発言を繰り返した大手外食グループ「美心(Maxim)」や、デモ支援の寄付金受付口座を凍結した香港上海銀行など、2019年には民主派から忌み嫌われ、激しい非売運動や破壊活動の対象となってきた企業も含まれている。
(美心が香港での経営を行うShake Shackの広告に出演するスタンリー)
(姜濤を起用した香港上海銀行の広告)
徹底して親政府、親中国派の論調をとる香港紙『文匯報』は、2021年5月23日の記事で、こうした企業による広告起用をめぐり香港のネット上では論争が起きていることを取り上げ、Mirrorを支持する民主派は自己矛盾に陥っていると嘲笑した。その記事では、香港のネット掲示板「連登」に投稿された以下のようなコメントが引用されている。
中道的論調の香港紙『明報』に5月に掲載された記事も、Mirrorブームは政治からの逃避だとする批判があることに触れている。
残された戦いの場としての香港文化
ではMirrorブームは政治的には「青い」現象なのだろうか?
そうとも言い切れない。政治情勢が悪化する香港において、Mirrorに香港らしさの消滅を防ぐ「最後の砦」としての期待をかける人々もいる。
たとえば先述のものと同じ『明報』の記事は、政治空間がすっかり失われた今日の香港において、ポップカルチャーが香港人としての身分を主張するために残された唯一の手段だとも指摘している(むしろこちらが当該記事の本意でもある)。
『明報』には同じ日、同じ視点からMirrorを取り上げる別の評論も掲載されている(なんでいくつもMirrorの評論が掲載されているかというと、この週の5月11日までMirrorのワンマンライブが行われ、大盛況に終わっていたからだ)。
Mirrorは「非政治的」だが、それでも「香港」の代表だと考えられているのだ。その点が大陸に迎合し香港を「裏切った」とみなされている青い歌手たちとは違う。
その理由は推測するしかないけど、前回の記事でみたように、Mirrorが大陸の市場に依存せず、香港内のローカルなファンの購買力をフル活用するという新たなビジネスモデルを確立したことも影響しているのだろう。またそうした独自の経済圏に立脚して、体制寄り/中国寄りの発言を含めた一切の政治的発言を避ける戦略も、「青い」イメージを避ける上で功を奏しているのかもしれない。
あるいはMirror自身がどうというよりも、国安法制定以降、民主派への弾圧がすすむ中で、以前のように「青」と「黄色」を明確に区別する(あるいは表明する)余裕もなくなり、人々の政治観に変化が生じていることの現れなのかもしれない。
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別の手段での抗争?
このようにMirrorの流行は、ただの政治からの逃避ではなく、既存の政治空間が壊滅した香港において、「香港らしさ」をなんとか追求し続けたい人々の期待の現れだと捉えることもできる。あるいは少なくともそう考え、Mirrorの歌詞を2019年の続きを戦うための糧とする人もいる。
その代表例が、国安法違反容疑で拘留されている何桂藍(グウィネス・ホー)だ。
彼女は香港ネットメディア『立場新聞』の記者として、2019年の香港のデモを現場から中継した。その後、活動家に転身し、2021年の立法会選挙にも民主派陣営から立候補を発表していたが、今年1月、他の民主派候補とともに、立候補者調整のための予備選挙を行ったことを理由に国安法違反容疑で逮捕された。判決はまだ出ていないが、2月末の起訴から執筆現在に至るまで拘留され続けている。
何桂藍のFacebookページには、支援者を通じた彼女からのメッセージが定期的に掲載されているが、2021年3月26日には、彼女はMirrorの新曲についてのコメントを寄せている。
ここで彼女が言及しているMirrorの『Warrior』という歌は、周囲の雑音に負けず、不屈の闘志を持って新天地を切り開こうとする人の気持ちを歌っているが、もちろん直接的に政治を扱っているわけではない。でも彼女はここで歌われる戦いを、民主化のために戦う自身の境遇に重ねている。
Mirrorの歌詞は、ポップソングというものが往々にしてそうであるように、無限の解釈と自己投影の可能性に開かれている。
だから、一見非政治的なMirrorを、このように自身の政治的立場に引きつけて解釈することも当然可能である。
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「黄色」っぽいメタファー
また、それだけではなく、Mirrorの楽曲の中には、意図的か偶然かは不明だが、昨今の香港の政治状況を思うと非常に意味深なフレーズも含まれている。
たとえば姜濤のソロ曲『蒙著嘴說愛你』には、こんなフレーズが見られる。
「不撤不退」は、2019年の逃亡犯条例改正反対デモの初期のスローガンだった「不撤不散」(撤回しなければ解散しない)によく似ている。「爭取」も「爭取民主」(民主を勝ち取る)のような形で、政治的な文脈でもしばしば用いられる語である。この楽曲はコロナ禍の只中でリリースされた応援ソングであり、こういった威勢のいい言葉が含まれていることも不思議ではないのだが、こうした意味深なフレーズから、リリース当初のネットでは「姜濤は黄色(民主派)なのでは」といった噂もささやかれていた。
別のメンバー、柳應廷(ジェール・ラウ)のソロ曲『迴光物語』にも、意図的かは不明だが、2019年のデモの最中に注目を集めた表現が複数見られる。
この楽曲で歌われているのは人気のない夜の街頭で、宇宙の広大さと自身の孤独に思いを馳せる人物の気持ちである。
「那地厚與這天高」(大地の厚さも それから空の高さも)の一節は、「身の程知らず」を表す中国語の慣用句「不知天高地厚」(空の高さも地の厚さも知らない)から取られたものだが、今日の香港ではこのフレーズには政治的な含意もある。
この言葉は、2019年のデモの精神的指導者となった投獄中の活動家・梁天琦を象徴するものになっているからである。彼の活動を取り上げたドキュメンタリー映画は『地厚天高』(空の高さを知りながら)と題されており、同じ慣用句は2019年当時の運動歌にも引用された。(詳しくは下の記事を見てほしい)
またこの『迴光物語』の後半には「黑暗」(暗闇)、「黎明」(夜明け)という、これもまた梁天琦と関係の深いフレーズも含まれている。
梁天琦は、かつて政治集会で「夜明け前の暗闇が一番暗い」(黎明之前嘅黑暗至撚黑暗)という言葉を残したことで知られる。この言葉は2019年のデモの際にも頻繁に引用され、「黎明」は香港の「光復」(解放)の比喩としても用いられるようになった。(こちらは以下の記事に詳しく書いている)
この『迴光物語』の歌詞について、本記事の冒頭で言及した文化評論家・馬傑偉(エリック・マー)は、2021年5月に発表した記事の中でこう書いている。
もちろんこうした解釈は、こじつけと言ってしまえばこじつけであり、作り手や歌い手の真の意図はわからない。
ただMirrorの楽曲には、こんな具合に、「もしかしたら今の香港の政治的、社会的状況を歌っているのかも」と思わせるような「何か」がある。
あるいは何でもないポップソングの中にすら意味を求めずにはいられないほどに、香港の政治状況が深刻化しているという証左なのかもしれないけれど。
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複雑な時代の単純さ
Mirrorの魅力の一つは、まさにこんな風にファンの多様な解釈に開かれていることなのではないかと思う。
彼ら自身は青でも黄色でもなく、鏡のように見る者の信条や感情をうつす。
親政府派の愛国的政治家と国安法で収監中の民主活動家とが共にファンであると公言できるMirrorは、政治的分断が深刻化する今日の香港においては稀有な存在だ。
New York Timesの評論は、Mirror現象は「分断された都市を統一する」という驚くべき役割を果たしたと指摘する。
香港が統一されたのかはさておき、少なくともMirrorは、政治的立場を越えて多くの人々が愛聴できる共通体験としてのポップスという領域を復活させた。
そんなMirrorの政治的曖昧さは、現実逃避の結果でも偶然の産物でもなく、今日の香港の状況を敏感に察知した上での意図的なものだとも思う。何もかもが政治化するこの時代に、政治的な色がつかない立ち位置を維持することは容易ではない。
2021年5月に行われた6日間のワンマンライブの最終日、Mirrorの面々はステージ上で、ファンや家族への思い思いの言葉を述べた。そんな中、メンバーのひとりである陳卓賢(イアン・チャン)はこんなことを口にしている。
今日の香港の複雑な政治情勢の中で単純さを保つ難しさは、Mirrorのメンバーたちも、そしてファンたちも知っている。客席からは大きな拍手が起こった。
でも、この日のハイライトは、イアンの次にマイクをとった姜濤の言葉だった。
周りのメンバーから発言を促された姜濤は、何を言うべきか、あるいは言わないべきか、しばらく逡巡するようなそぶりを見せたあと、ただ短くこう言った。
徹底して脱政治的でありながら、「香港」への愛着を漠然と肯定してくれる——Mirrorの人気の秘密は、暗く複雑な時代の人々が求めた、そんな単純な曖昧さにあるのだと思う。
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姜濤は「香港、がんばれ!」というコメントのあと「がんばれ香港の音楽業界!」(香港樂壇加油!)とも叫んでいる。
Mirror現象は、瀕死の香港音楽業界にもたらされた暁光でもあった。
彼ら自身「香港の楽壇は死んだ」「香港の歌手はもう終わってる」という冷たい評価が社会に蔓延する中で、デビュー後の低迷期を乗り越え、成功を掴んだ。
次回の記事では、そうした今日の香港音楽業界の状況を少し掘り下げたい。
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目次「未定義的衝撃:Mirror現象と国安法時代の香港カントポップ」
はじめに:暗い時代に歌う歌
(1)歌だけは残った:統計から見る2021年の香港音楽
(2)十二人のイケメンたち:パロディから見るMirror現象
(3)青い鏡と黄色い鏡:Mirrorと(脱)政治 ←今ココ
(4)香港の歌手は死んだのか:ニュースターたちの誕生
(5)それじゃあ、またな:表現の不自由と社会風刺
おわりに:「鏡」に映るもの
[バナー画像出典:am730(CC BY)に基づき筆者作成]
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