香港の歌手は死んだのか:ニュースターの誕生 【未定義的衝撃:Mirror現象と国安法時代の香港カントポップ(4)】
2021年の香港音楽業界は、新旧の世代交代の1年だったと思う。
新しい文化というのは、どこでもそうだと思うけど、しばしば「古き良き時代」のそれと比べられ、「昔の方がよかった」という懐古趣味的な批判にさらされる。
80年代と90年代にピークを迎え、その後は急激に衰退した(とされる)香港のカントポップの場合は、特にそれが顕著だった。00年代以降、「香港の歌手はもう終わった」「カントポップは死んだ」と繰り返し語られてきた。曲がワンパターンでつまらない、新人は実力が足りない、海外の音楽の方がおもしろい、昔のスターの方がよかった、生まれる時代を間違えた、等々。
そういう懐古の背景には、昨今の香港の状況を見ていると、どうしても「昔はよかった」と思いたくなるという社会全体の事情も関係しているのだろうとも思う。
そんな背景はともかくとして、Mirrorブームがおきて新世代の歌手たちに新たな注目が集まった2021年は、香港の音楽業界がこうしたカントポップの「黄金時代」の呪縛を振り切ることができた象徴的な1年だったかもしれないと思うのだ。
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苦労人の放つ輝き
Mirrorは2018年末にデビューしているが、そこから2021年に入ってブレイクするまで、しばらくは不遇の時代が続いたことはすでに何度か述べた。
またフレッシュなイメージとは裏腹に、メンバーたちは必ずしもすごく若いわけでもない。最年少の邱傲然(タイガー・ヤウ)や姜濤(キョン・トウ)でも1999年生まれで、00年代生まれの10代は一人もいない。1988年生まれの陳瑞輝(フランキー・チャン)や1989年生まれの王智德(アルトン・ウォン)のように80年代生まれのメンバーもいる。
インタビュー記事なんかを読んでいると、特に年長組のメンバーは、Mirrorに加入する前の経歴だけを見ても、様々な苦労が偲ばれる。
1989年生まれで、グループのキャプテンを務める楊樂文(ロクマン・ヨン)は、2013年にヒットしたストリートダンス映画『狂舞派』に出演するなど、ダンサー兼俳優として活動していた。
1992年生まれの陳卓賢(イアン・チャン)は、歌手として芸能事務所に所属しながら、バレーボール選手としても活動していた。
1992年生まれの江熚生(アンソン・コン、”AK”)、1995年生まれの李駿傑(ジェレミー・リー)のように、K-Popグループでのデビューを模索し、あちこちのオーディションを受けたり、練習生になったりした経験を持つメンバーもいる。
そのためMirrorは、どこか苦労人の雰囲気も漂うアイドルでもある。
Mirrorの歌唱メンバーのひとり、1992年生まれの柳應廷(ジェール*・ラウ)も、苦労の末に歌手デビューを掴んだひとりだった。
(*余談:「Jeremy」の略で「Jer」と呼ばれている。香港人が発音する彼の名前は、私の耳には「ジャー」と聞こえるのだが、そうカタカナ表記するとなんだか色気がない気がするので、この連載では「ジェール」と表記している。なお香港では一音節の名前を呼ぶときは英語名であっても頭に「阿」(あ)をつけて呼ぶことが多いので、彼も基本的には「阿Jer」(あじゃー)と呼ばれている)
幼い頃から歌手に憧れていたジェールは、歌唱コンテストに参加したりバンドを組んだりと歌手を目指した活動を行い、大学卒業後も就職をせずに音楽活動を継続したものの、泣かず飛ばずだった。ViuTVのオーディションに挑戦する前は、一度は夢を半ば諦めて娯楽記者として生計を立てていた。
記者の仕事を辞めて挑んだViuTVの『全民造星』のオーディションでの成績もあまり振るわず、決勝戦に残ることもできなかったため「やはり夢は諦めるべきなのだろうか」と悔し涙を流しながらスタジオを後にしたという。しかしその姿がプロデューサーの「花姐」の目に留まり、新結成のMirrorのメンバーに加わることを打診された。アイドルとしてダンスをすることは考えてもみなかったため、しばらく悩んだというが、結局は歌手になる夢を叶えるために承諾した。
彼にとって、Mirrorはギリギリのところでようやく掴んだチャンスだったのだ。
2020年2月29日には『水刑物語』でソロ歌手としてのデビューも果たした。
さらに2020年8月リリースの2枚目のソロシングルであり、前回の記事でも少し歌詞を取り上げた『迴光物語』は、ラジオ局やテレビ局に熱烈にプッシュされ、2020年10月にはラジオ局商業電台のオンエア数トップも獲得した。
(同じ10月、ViuTVの『Chill Club』の週刊チャートトップを獲得した際の歌唱)
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「楽壇は死んだ」
ついに夢を掴んだ新人歌手のサクセスストーリーのはずだった。
しかし、彼のチャートトップ獲得を伝えたあるFacebookページの投稿には、ネット民たちからの心ない声が次々寄せられた。
2021年1月1日、同じ商業電台の年間大賞の授賞式で、ジェールをはじめとするMirrorのメンバーが多くの賞を受賞した際にも、同様の反応が見られた。
ジェールの『迴光物語』を作詞した漫画家兼作詞家の小克は、こうした反応を見て違和感を覚え、1月4日、自身のFacebookにこんな投稿をした。
この投稿に反応し、即座に曲提供を申し出たのは、『迴光物語』の作曲者であり、独立系レーベルに所属するシンガーソングライターである吳林峰だった。立場新聞のインタビュー記事によれば、彼は1日の授賞式にも会場で参加していたが、帰宅後ネット上のコメントを見て、小克と同様にショックを受けたという。
制作チームにはさらに『迴光物語』で二人と協働した編曲家の王雙駿も加わり、急ピッチで楽曲制作が進められた。13日には吳林峰が歌うメインボーカルと、その他の彼の仲間であるインディーズ系ミュージシャンたちが参加した合唱部分の録音が完了し、小克の投稿から2週間後の1月18日には完成した楽曲『樂壇已死』(楽壇は死んだ)が商業電台で初オンエアされた。
歌詞は、1月1日、小克が目にしたネット上のコメント欄の再現になっている。
小克によれば、この楽曲を作成したきっかけは、こうした懐古趣味的コメントは若い世代の努力を不当に貶めるものではないか、と訴えることにあったという。なんでも「昔はよかった」と比べられ、存在価値を否定されたら、いったい若者は何をどうがんばればいいのか。
香港の歌手は死んでいない
『樂壇已死』の終盤では、こうしたコメントへの反論が歌われる。この部分を歌うのは、かつて「誰だよこいつ」と罵られたMirrorのジェール本人だ。
その後のMirrorの爆発的ブームを思えば、ネット上のコメント欄と、制作陣たちがこの楽曲に込めた「香港の歌手は死んでない」というメッセージのどちらが正しかったかは明確だろう。
(音楽番組に出演する『樂壇已死』合唱団。外部の人間は簡単に「〇〇は死んだ」と言うが、その瀕死の世界で努力する人間もいることを忘れてはいけないだろう)
ジェールもその後2021年3月には、再び小克、吳林峰とのタッグで『Bohemian Rhapsody』風とも称される壮大なロックオペラ『狂人日記』をリリースし、ドラッグに溺れるロックスターの心情を歌うなど、アイドル歌手の域を越えた幅広い実力を見せている(サウンド的にはQueenというよりMuseっぽいなと思った)。
2021年10月リリースの『人類群星閃耀時』のMVでは、ロックバンドのボーカルとして大勢の客の前で歌うジェールの姿が描かれていて、これは彼がかつて売れないバンドマンをしていた時代に夢見た光景なんだろうかと思ったりする(作曲は香港の人気ロックバンドSupper Momentが手がけている)。
(余談:ジェールのソロ曲はシリーズものになっていて、歌詞世界がつながっている。『水刑物語』『迴光物語』は死をテーマにした「物語三部作」、『狂人日記』『人類群星閃耀時』は再生をテーマにした「重生三部作」の一部である。それもあって楽曲間の引用も豊富で、文学的にもおもしろい歌詞の宝庫なのだが、字数の都合もあるし、今回の連載ではこのくらいにしておく。)
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Mirror現象が香港にもたらしたものとしては、前々回の記事で見た経済効果、前回の記事で見た香港の文化的アイデンティティの再興といった貢献に加え、カントポップへの注目を復活させることで、香港の音楽マーケットの裾野を広げ、新しいタイプのアーティストが生存する空間を確保したことも挙げられるだろうと思う。
アイドルの流行というと、歌手や楽曲の画一化やパターン化といった弊害が予想されるかもしれないけど、今の香港では少なくともそういう状況にはなっていない。
むしろ2020年から2021年にかけての香港では、Mirrorのようなアイドルだけでなく、これまでにないほど多種多様な若い歌手が注目を集めるようになっており、メインストリーム級の活躍をするインディーズ歌手たちも登場している。
以下では、特に2人の新しいスターについて、簡単に紹介しておこう。
ニュースター(1)ひとりの達人「林家謙」
2021年の楽曲再生数ランキングにMirrorと並んで多くの楽曲をランクインさせた林家謙(テレンス・ラム)は、これまでの香港のスター歌手とは違う、少し風変わりな経歴とパーソナリティを持っている。
彼はもともと作曲家としてキャリアをスタートさせ、2015年に王灝兒(JW)がリリースした『矛盾一生』などのヒットソングを裏方として手がけていたが、2019年からは自らも歌うシンガーソングライターとしても活動するようになった。
2020年4月にリリースした『一人之境』は、一人でいることを肯定的に歌う歌詞が感染症対策で孤独が求められる時節に合致していたこともあって特に注目された。
楽曲制作の特徴としては、作詞/作曲/歌唱の分業が当たり前の香港にあっては極めて珍しく、作詞作曲からアレンジ、ミックスまで自分で手がける徹底した自主制作に拘っていることにある。『一人之境』のクレジットでも「曲詞編監」(作詞作曲アレンジプロデュース)全てに彼自身の名前が記載されている。
自主制作にこだわるため、売れっ子になった今でもレコード会社には所属しておらず、自ら設立したプロダクションで楽曲の管理を行なっている。
また裏方としてキャリアをスタートさせたこともあり、タレントとしてボーカルトレーニングを受けたこともないらしく、そのせいかどこか力の抜けた個性的な歌声をしている。それがプロの歌手や評論家からは批判されることもあるけれど、内向的な歌詞世界ともよく似合っていて、彼の楽曲独自の魅力となっていると思う。
またそうした楽曲の世界観ともマッチする彼自身のどこか内向的で神経質な雰囲気のある風貌や言動も共感を呼んでいる(なにせ「一人でいるのが楽しい」という曲を本当にひとりで作ってしまうような人なのだ)。
2021年4月、『一人之境』がViuTVの『Chill Club』の年間楽曲大賞を受賞した際には、受賞スピーチで「作詞作曲アレンジプロデュースに感謝」と(全部自分でやったのに)述べて話題になった。
2021年8月にリリースした『難道喜歡處女座』(乙女座を好きになるなんて)ではそんな彼の神経質で繊細なイメージが誇張されて歌われている。この曲の歌詞は、過去にも星座を題材にした作詞を行なってきた大物作詞家・黃偉文から提供されている。(黃偉文について以下の記事で書いている)
イケイケなタレントとは異なる彼のイメージも、これからの香港の歌手の一つの形になっていくのだろう。
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ニュースター(2)インディーズの女王「Serrini」
インディーズ的活動がメインストリームでの注目を集めたもう一人の人気歌手として、香港で「インディーズの女王」(indie一姐)とも称されるシンガーソングライターSerrini(セリーニ)を挙げておこう。
彼女は本名を梁嘉茵といい、香港大学の大学院で学び文学/文化研究の博士号まで取得した、というミュージシャンとしては珍しい経歴を持つらしい(同じ院生としては、曲も博論もかけちゃうすごい人がいるのだと思うと少し頭が痛い……博論だけでヒーヒー言ってる私とは何もかもが違う)。
彼女の楽曲は、現代社会を生きる若者の心情を鋭くえぐりながら、かつ文学的引用や隠喩が随所に散りばめられており、その経歴も納得なほど知的な雰囲気がある。
2016年リリースの『油尖旺金毛玲』(油尖旺区の金髪リン)では、香港の繁華街である油尖旺区の夜の街で働く金髪の女性リンが、文学や歌と向き合ったりしながら、自分の境遇を言語化する言葉を探す様子が描かれている。
リンは「劏房」と呼ばれる非常に狭いワンルームに暮らし、夜の街で世の闇を見つめながら、「文青」(文藝青年)と称されるような、小説や詩を愛好し、おしゃれなカフェなどを好む意識の高い若者の暮らしに憧れている。
その後、リンは、ある男性客に出会い、夜の街に似つかわしくない彼の純朴さに恋をして「もう一度、君に会いたいな」と願う。
この歌の末尾は、清初の詩人・納蘭性德の詩の一節「人生若しただ初見の如くあらば、何事ぞ秋風畫扇を悲しまん」(=もし出会った頃の気持ちが変わらないままならば、どうして秋の風が吹く季節になって扇が悲しく見捨てられるようなことがあるだろうか)から引用された「何事秋風悲畫扇」というフレーズで結ばれている。
こういった若者の心情を文学的に取り上げる楽曲でインディーズ業界ではすでに名の知れていた彼女だが、2021年にはViuTVの歌手特集番組『歌手·門』にテレンスやジェールと共に出演するなど、さらに活躍の場を広げている。
2021年2月には、前年10月にリリースしたシティポップ風のナンバー『~旋轉with me*』がViuTVの『Chill Club』で週間チャートトップを獲得し、4月には同番組の年間音楽賞で女性歌手部門の銀賞を獲得している。
また彼女が2017年にリリースした『Let Us Go Then You and I』(それでは行こうか君と僕とで)という楽曲の歌詞は、2019年以降の香港の状況と驚くほど合致したものとして話題を呼び、広く聴かれたり、カバーされたりしている。
(民主派活動家としても著名なデニス・ホーが2020年12月に投稿したカバー)
例えば、立場新聞の取材を受けたある女性は、民主派紙『蘋果日報』が当局の圧力を受けて廃刊を発表した2021年6月20日、心が落ち着かず、眠れぬ夜を過ごしたが、この曲を聴いて少し救われた気持ちになったと語っている。
2019年1月に公開されたこの曲のMVには、香港の未来についてのSerriniの力強いMCも収録されている。
ちなみに、この曲のタイトルもT・S・エリオットの詩『J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌』の書き出しの言葉「Let us go then, you and I」の引用である。
今日の香港社会の悩みを鋭く抉り、力強く人々を勇気づける視点と、一見浮世離れした文学的隠喩の作り出すSerriniの歌詞世界の不思議なギャップも、今日の香港が求めている時代の一つ声なのだろう。
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(テレンスとSerriniとジェールが出演したViuTVの歌手特集番組。姉御肌でイケイケのSerriniと内向的でこだわりの強そうなテレンスというベクトルの違うマイペース2人に挟まれてキョロキョロオドオドするジェールの様子がなんとも好き。)
アイドル歌謡の流行というと本物志向の音楽好きからは忌み嫌われることも多い印象なんだけど、そもそも音楽を聴く人たちの裾野を広げて、業界全体のパイを大きくすることで、他のミュージシャンにチャンスを与える効果もあると思う。
少なくともMirrorは香港の音楽業界にそんな好影響を及ぼしているように見える。
2021年の香港音楽業界にはさらにひときわ個性的な二人組も現れた。次回の記事では、本連載の最後の記事として、彼らのとある楽曲を詳細に取り上げたい。
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目次「未定義的衝撃:Mirror現象と国安法時代の香港カントポップ」
はじめに:暗い時代に歌う歌
(1)歌だけは残った:統計から見る2021年の香港音楽
(2)十二人のイケメンたち:パロディから見るMirror現象
(3)青い鏡と黄色い鏡:Mirrorと(脱)政治
(4)香港の歌手は死んだのか:ニュースターたちの誕生 ←今ココ
(5)それじゃあ、またな:表現の不自由と社会風刺
おわりに:「鏡」に映るもの
[バナー画像出典:am730(CC BY)に基づき筆者作成]
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