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ミュージックビデオの身体論⑥ サイボーグ的身体——「ONE TAKE STAGE」のトランス・ダンス

6. サイボーグ的身体——「ONE TAKE STAGE」のトランス・ダンス

イラスト:湖海すず

6-1. サイボーグ的身体

これまでに取り上げてきた「ダンス」に関連するMVは、視覚効果や撮影・編集技術を重視する「映像のダンス」(③映像そのものがダンスする/④カメラレス・ダンス)と、生身の身体のパフォーマンスを重視する「ダンスの映像」(⑤ダンスそのものを映し出す)とに大別することができる。

ただし、これらはあくまで便宜的な区分であり、それほど明確に分けられるものではない。あらゆるMVには「映像のダンス」と「ダンスの映像」双方の要素が含まれており、両者が重なり合い、グラデーションを成しているのだと捉えるほうが、実態に即しているだろう。

前回「ダンスの映像」を代表する存在として紹介したマイケル・ジャクソンがMVで披露するダンスも、アーティスト自身の身体能力だけで成立しているわけではない。例えば『スムース・クリミナル』(1988)において、マイケルは直立の姿勢のまま足首を曲げ、45度の角度まで身体を傾けて見せる。この有名なポーズは、もちろんマイケル自身の鍛えた身体の賜物でもあるが、それだけで実現可能なものではない。靴を地面に固定する仕掛けと、その仕掛けが見えない(目立たない)ように設定されたカメラ位置および構図によって、生身の人間には不可能なポーズを実現させている。別の言い方をすれば、そこでは人間と映像の協働によるダンスが行われているのだ。

マイケル・ジャクソン『スムース・クリミナル』(1988)

Michael Jackson's 45-degree tilt versus the rest of humanity illustrated, along with Jackson's secret weapon. Courtesy of Manjul Tripath

児玉裕一がディレクターを務めたサカナクションネイティブダンサー』(2009)では、ボーカルの山口一郎が歌う表情を捉えたアップショットと、ダンスする足元をクロースアップで捉えたショットが交互に映し出される。暗闇を背景にして、ボトムスも暗く目立たない色彩であるため、あたかも身体不在のスニーカーが自律的にステップを踏んでいるようにも見えるだろう。実際、そのダンスは映像の速度操作や煌びやかなエフェクトによって人間離れした動きを見せ始め、さらには片方のスニーカーがもう一方のスニーカーの周りをぐるりと一周する。これもまた、人間と映像の協働による「サイボーグ的身体」のダンスである。

サカナクション『ネイティブダンサー』(2009)

6-2. 編集とダンス

ブロンクスとハーレムで生まれたロック・ステディー・クルーも、映像と深い関わりを持つブレイキン・グループである。映画『フラッシュダンス』(エイドリアン・ライン、1983)、ロック・ステディー・クルーHey You』(1983)、映画『ビート・ストリート』(スタン・レイサン、1984)などの作品で見せたパフォーマンスを通じて、ブレイキン(ブレイクダンス)の世界的な流行を作り出した。

ロック・ステディー・クルーが出演したMV『バッファロー・ギャルズ』(マルコム・マクラーレン、1982)は、前回紹介した「ダンスの映像」の主要な特徴——固定カメラによる安定した画面設計、ダンスする身体を際立たせる構図の中心性・正面性——とは対照的な特徴を持つ。激しい動きを伴うカメラワーク、矢継ぎ早なカット割によってもたらされるのは、本来ダンスとして踊られたわけではない運動の「ダンス化」だ。DJがレコードをスクラッチする指先の運動や、壁面にスプレーを吹き付ける運動、受話器を耳に当てたり、戻したりする運動が、前後に置かれた「ダンスの映像」と結び付けられることによって、振り付けの一部、ダンスの一部へと転化するのである。

マルコム・マクラーレン『バッファロー・ギャルズ』(1982)

TLCNo Scrubs』(1999)でも、ダンス未然の仕草や振る舞いの「ダンス化」が行われている。ブランコを漕いだり、身体をくねらせたり、手を合わせたりといった動作は、その断片が素材として切り出され、モンタージュされることで、一連のダンスの振り付けとして機能し始める。MVにおいて、あらゆる運動は——撮影や編集を通じた、前後のショットとの関係性の操作によって——ダンスになり得るのだ。

TLC『No Scrubs』(1999)

6-3. 超個体的身体

連載第1回で見取り図を示したように、本稿では、画面に映るアーティストの身体のみならず、そのMV全体を一つの身体表象として、あるいは身体そのものとして捉えようとする。このとき、画面上に映る複数の身体は、映像というテクノロジーを媒介として他の身体と結びつき、一体化し、「超個体的身体」をかたちづくるだろう。

分かりやすい例を求めるなら、バスビー・バークレーロイド・ベーコンによるミュージカル映画『フットライト・パレード』(1933)のバークレー・ショット(万華鏡ショット)を見ると良い。そもそもミュージカルマスゲームと呼ばれるジャンルでは、多数の演者やダンサーが同期・連動して舞うことで、舞台上にスイミーのような超個体的身体を出現させることが試みられてきたが、『フットライト・パレード』ではさらに、その身体にカメラワーク構図といった映像表現ならではの要素が組み込まれている。カメラは縦横無尽に移動し、真上や真下、ロングショットやクロースアップなど、舞台の客席からは不可能な位置や方向からダンスする身体を捉える。各身体の同期・連動がもっとも明瞭かつ効果的に見える構図を選択し続けることで、超個体的身体の生成をアシストするのだ。

バスビー・バークレー、ロイド・ベーコン『フットライトパレード』(1933)

OK GoI Won't Let You Down』(2014)のMVを監督した関和亮は、集団のダンスを俯瞰で捉えたショットの見せ方を検討するために、バスビー・バークレーのミュージカル映画を参考にしたという。同作では、ドローンを用いた1カットの長回し撮影で、OK Goのメンバーと総勢2,400人に及ぶダンサーたちがマスゲームを繰り広げる様子が映し出される。終盤、各自が均等に並んで手に持つカラー傘を開閉し、電光掲示板のように絵や文字を描き出す場面では、1人1人のダンサーはもはや超個体的身体を構成する「原子」あるいは「ドット」の単位にまで還元されているのである。また、OK Goのメンバーが乗るHONDAの小型電動スクーター「UNI-CUB」(ユニカブ)も、人間と機械の調和や一体感の追求をコンセプトとしており(UNI-CUB|主な特徴)、ここにも「サイボーグ的身体」の表れを見ることができるだろう。

OK Go『I Won't Let You Down』(2014)

超個体的身体は、撮影時における人間と機械の協働によって生み出されるだけでなく、「編集」の局面で生み出されることもある。例えばAKB48恋するフォーチュンクッキー』(2014)では、アイドルやファン、学生、会社員、買い物客など、同曲の振り付けを踊る様々な人びとの身体が編集によってつなぎ合わされ、一つの連続した身体へとモンタージュされている。ダンス映像を通じて異なる時と場所に生きる人びとを「擬似同期」(濱野智史)させ、一体感を醸成するこの手法は、インターネット上で瞬く間に拡散するバズ動画の定番となった。また「東京2020オリンピック・パラリンピック」の開催に先駆けて株式会社みずほフィナンシャルグループが公開した『みずほダンス』(2017、現在はリンク切れ)のように、企業や国家が巨大なメディアイベントを盛り上げるために行うプロパガンダ的な取り組みにも活用されている。

AKB48『恋するフォーチュンクッキー』(2013)

6-4. 非カメラ映像の指標記号性

たとえ生身の身体をカメラで記録した映像が使われていなくても、人間と映像の協働や「サイボーグ的身体」は成立し得ることも示しておきたい。

例えばデヴィッド・フィンチャーが監督した『Only (Dirty)』(ナイン・インチ・ネイルズ、2005)では、ボーカルのトレント・レズナーが歌う表情を捉えたカメラ映像が、コンピュータ上で三色分解され、CGで再現された「ピンスクリーンアニメーション」の運動へと変換される。

ナイン・インチ・ネイルズ『Only (Dirty)』(2005)

完成したMVに、アーティストを記録したカメラ映像そのものは一切用いられていない。だが映画評論家の石田美紀が指摘するように、フルCGで作られた映像も、現実との対応関係を完全に失っているわけではない(石田美紀「新しい身体と場所――映画史における『ロード・オブ・ザ・リング』三部作」『入門・現代ハリウッド映画講義』人文書院、2008年)。『Only (Dirty)』の擬似的ピンスクリーンも含めた広義の「モーションキャプチャ」表現は、たとえ最終的に観客の目に触れるのがフルCGの映像であっても、現実の似姿としての「類似記号 icon」(例えば具象絵画のように、対象と何らかの類似性によって結びついた記号)であるだけではなく、「指標記号 Index」(対象と物理的に結びついた記号。銃痕や足跡のほか、被写体が反射した光の記録であるカメラ映像も指標記号の代表例として挙げられる)の特性も備えているのだ。

レディオヘッドHouse of Cards』(2008)では、もはやカメラによる撮影自体が行われていない。レーザースキャナーで被写体のデータを取り込み、CGアニメーションに変換することで、暗闇の中にトム・ヨークの顔を浮かび上がらせている。その顔を構成する無数の粒子の不安定な揺らぎが、人間と映像の協働によるダンスに新たな身振りを付け加えている。

レディオヘッド『House of Cards』(2008)

6-5. 「ONE TAKE STAGE」のトランス・ダンス

「サイボーグ的身体」の新たな展開として注目したいのが、韓国の音楽番組「SBS人気歌謡」に関連してウェブ上で公開されている「ONE TAKE STAGE」である。これは、K-POPアイドルグループが披露する歌唱とダンスを、同じ舞台上に上がったカメラマンがステディカム1台を構え、ほぼ1カット(一部編集が加えられている箇所もある)で撮影したものだ。これまでに数多くの「ONE TAKE STAGE」が公開されているが、中でもその視覚的特色が顕著に表れているのが、aespaSavage』(2021)とIVEELEVEN』(2021)の2作である。また2022年に公開された「SUBUSUNEWS」では、「ONE TAKE STAGE」の撮影監督へのインタビューが行われており、実際の撮影の様子も垣間見ることができる。

aespa『Savage』ONE TAKE STAGE(2021)

IVE『ELEVEN』ONE TAKE STAGE(2021)

SUBUSUNEWS(「ONE TAKE STAGE」撮影監督へのインタビュー)(2022)

ONE TAKE STAGE」の映像表現としての革新性は、アーティストのパフォーマンスと同期・連動し、共に舞台上で踊っているかのようなカメラワークによって、「映像のダンス」と「ダンスの映像」をこれまでにないかたちで融合させたことにある。アーティストの身体に急速かつ極端なまでに接近し、それでも衝突することなく踊る手足を掻い潜ったかと思えば、その振り付けに共振し、痙攣するようにリズムを刻んでいく——カメラを回した経験のある者なら誰もが驚嘆せざるを得ないであろうその映像は、マヤ・デレンの未完のドキュメンタリー『聖なる騎士たち——ハイチの生きた神々』(1985)を想起させる。

マヤ・デレン『聖なる騎士たち——ハイチの生きた神々』(1985)

1947〜1951年にかけてハイチに赴いたデレンは、ブードゥー教に入信することで通常は入ることのできない儀式への参加を許され、トランス状態で踊る者たちの輪に加わり、共に踊りながら撮影を行った。文化人類学者・批評家の今福龍太は同作について、次のように述べている。

特にトランス・ダンスを撮っている部分は、カメラがもうトランスに入った人間の顔に触れんばかりのところまで迫ってきているんですね。どういう状況でデーレンがカメラを回していたのか想像するとちょっと恐ろしいものがある。つまり、ほとんどトランス・ダンスの身体性と一体化してしまっているんです。だから客観的な観察者に徹した正常な人間が、身体をノーマルな状態で動かしながら撮影したのでは、まったく不可能な映像がそこにある。これだけ接近した場合、普通の状態ならば、まちがいなく物理的にぶつかってしまいますから。するとそこには明らかに異なった身体性の実現というテーマがあり、デーレンは撮影者として、トランス状態の身体運動の場に入っていったとしか考えられないわけです。

討論「映像人類学の可能性」より、今福龍太の発言
伊藤俊治、湊千尋 編『映像人類学の冒険』所収、せりか書房、1999年

この発言は、固有名詞を書き換えれば「ONE TAKE STAGE」におけるカメラワークの説明としても読めてしまうだろう。もちろん両者は、その制作の動機も背景も、撮影時の状況も手法も、まったく異なっている。「ONE TAKE STAGE」のカメラマンは、入念な計画と事前準備、そして2000年代以降に大幅に進歩したステディカムという映像テクノロジーのアシストと、その扱いに習熟するプロセスを経て、宗教的・儀式的な陶酔とは一見大きくかけ離れた「職人技」としての「トランス・ダンス」を実現させているのだ。

「ミュージックビデオの身体論」について

この原稿は、MVを撮りたいという学生や、研究をしたいという学生との出会いをきっかけに書き始めた。自分自身、これまで何を求めてMVを見てきたのか。そこから何を受け取り、何を引き出すことができるか。そういうことを考えるうちに「身体」というキーワードが浮上し、現時点の思考を整理するために、この場(note)を活用することにした。


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