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ミュージックビデオの身体論② 顔とクロースアップ

2. 顔とクロースアップ


イラスト:湖海すず

2-1. 演奏する身体のクロースアップ

楽曲を演奏・歌唱するアーティストの身体は、多くのMVにおいて作品の中心的な役割を占めている。ボーカルの歌う表情やギタリストの弦を爪弾く手元、リズムを刻む足元や演奏中の些細な仕草がクロースアップで切り取られ、画面上に映し出される。1916年にいち早く本格的な映画論『映画劇——その心理学的研究』を著したことで知られる心理学者ヒューゴ・ミュンスターバーグは、映画が舞台芸術を超える力を持つに至ったのは、クロースアップが私たちの知覚世界において「注意という心的な作用を対象化」したことによってであると述べている(「奥行きと運動」『映画理論集成』所収、フィルムアート社、1982年、p.31)。作り手はクロースアップを用いることで不要なものを画面外に追いやり、観客に見せたい対象だけを提示して、その細部まで注視するように促すことができる。

ポリス見つめていたい(Every Breath You Take)』(1984)は、卓上にある灰皿と吸いかけの煙草を捉えたショットから始まり、灰皿の円形にスネアドラムの円形がディゾルブで重ね合わせられるところから始まる。スティングの歌う表情や、ウッドベースの弦を押さえる手元のクロースアップ、ほぼ真上からの構図で映し出されたピアノやドラムの演奏は、いずれもライブの客席からでは見ることのできないイメージだ。冒頭の灰皿と煙草が象徴的に示すように、日常的でささやかな事物でさえも、クロースアップによって画面上の主役に躍り出る。歌う唇、リズムを刻む指先といった微小な運動が、MVでは中心的な役割を果たすダンス映像へと転化する。

ポリス『見つめていたい(Every Breath You Take)』(1984)

2-2. 歌う顔のクロースアップ

クロースアップの対象となる身体の様々な部位の中でも、特権的と言えるのが「顔」である。歌唱する顔のクロースアップは、ボーカルの身体をMVの身体と一体化させ、楽曲の演奏を伴奏化もしくは背景化する。aiko初恋』(2001)では、ほぼ全編に渡って、白い背景の前で歌うaikoの顔がクロースアップで映し出される。両肩や毛先にはぼかしが入れられ、徹底して表情に注意が向かうように画面が作られている。カメラを見つめる視線と長回しによって、鑑賞者とアーティストが一対一で真正面から向かい合う関係が作り出され、より傾注してその歌を聴くよう促されるだろう。

aiko『初恋』(2001)

「一発撮りで、音楽と向き合う。」をコンセプトとするYouTubeチャンネル「THE FIRST TAKE」(2019〜)でも、長回しの固定カメラでアーティストの顔を捉えたクロースアップが多用される。チャンネル開設と同時に公開された最初の動画であるadieu(上白石萌歌)の『ナラタージュ』(2019)から現在まで、同チャンネルの撮影の基本的な方針は変わらない。指標記号(index)としてのカメラ映像が保証する事実性・記録性と、リップシンクによる映像と音声の緊密な結びつきによって、一発撮りのライブ感が視覚的にも強調されている。

adieu(上白石萌歌)『ナラタージュ』(2019)

2-3. 情動を喚起する顔

D・W・グリフィス散り行く花』(1919)でリリアン・ギッシュが見せた作り笑顔や、カール・テオドア・ドライヤー裁かるゝジャンヌ』(1928)でジャンヌを演じるルネ・ファルコネッティの死を前にした表情のように、顔のクロースアップは見る者に強い情動を喚起する働きも担う。女性アーティストとして初の「MTV Video Music Awards」最優秀賞を受賞したシネイド・オコナー愛の哀しみ(Nothing Compares 2 U)』(1990)では、去って行った恋人に向けて語りかける歌詞をオコナーが悲壮な面持ちで歌い上げ、終盤には両眼から涙が伝い落ちる。この時、顔のクロースアップは、歌詞から推測される悲恋の物語を補完する役割を担うのに留まらず、そうした文脈から離れても視聴者に情緒的なショックを与える自律的な映像の力を備えている。

シネイド・オコナー『愛の哀しみ(Nothing Compares 2 U)』(1990)

セリーナ・ゴメスLose You To Love Me』(2019)でも、『愛の哀しみ』と同様に去って行った恋人のことが歌われるが、撮影と編集の方針に違いがある。iPhone 11 Proで撮影されたという顔のクロースアップは、比較的短いショットの連なりをクロスディゾルブで重ね合わせるかたちで提示される。目を伏せたショット、笑顔のショット、何かを激しく訴えかけるようなショットなど、喜怒哀楽の表情が画面上で混ざり合い、元恋人に向けた複雑な感情と共に過ごした時間の厚みが圧縮して表現されている。

セリーナ・ゴメス『Lose You To Love Me』(2019)

2-4. ショックを与える顔

初期映画研究で知られるトム・ガニングは、観客にショックや驚きのような直接的刺激を与える映画を「アトラクションの映画」と呼んだ(「アトラクションの映画——初期映画とその観客、そしてアヴァンギャルド」『アンチ・スペクタクル——沸騰する映像文化の考古学』所収、東京大学出版会、2003年)。基本的に3〜5分程度の短編であるMVでも、複雑な物語性よりもアトラクション性を重視し、一目見ただけで脳裏に焼きつく視覚的衝撃を与えようとする作品が多く見られる。タイラー・ザ・クリエイターYonkers』(2011)では、タイラーがゴキブリを食べて嘔吐する姿や肥大化した黒眼が話題を呼んだ。

タイラー・ザ・クリエイター『Yonkers』(2011)

また同作へのオマージュとも言われるビリー・アイリッシュwhen the party's over』(2019)では、両眼から血のようにも見える黒い涙が流れ出る様子が映し出された。単独でも刺激の強いイメージは、口や目といった顔の部位に結び付けられることで、見る者にさらなるショックを与える。

ビリー・アイリッシュ『when the party's over』(2019)

2-5. 顔ではない顔

哲学者のジル・ドゥルーズは、『シネマ』の感情イメージ(情動イメージ)について論じた章で、「感情イメージ、それはクロースアップであり、クロースアップ、それは顔である」と指摘する(『シネマ1*運動イメージ』法政大学出版局、2008年、p.154)。観客の情動を喚起するクロースアップにおいては、カメラが捉えた対象は、実質的に顔と同一のものとして提示される(顔貌化される)。例えば掛け時計がクロースアップで映し出された時、そのイメージは、①文字盤という動かない表面と、②微小に運動する複数の針で構成される。これは、①諸器官を支える輪郭面と、②表現=表情の運動を生じさせる目や口等で構成される顔とまったく同じ組み合わせと見做せるだろう。

同様に、アーティストが演奏する楽器のクロースアップも、顔貌化されたイメージとして捉えることができる。無口ちゃんによるギターの演奏動画『ぼっち・ざ・ろっく!OP「青春コンプレックス / 結束バンド」を弾いてみました!』(2022)では、演奏者自身の顔はフレーム外に追いやられ、代わってギターが画面の中心を占める。ボディやネックという動かない表面に支えられ、微細に振動する弦や指先の運動が情動を構成する。

無口ちゃん『ぼっち・ざ・ろっく!OP「青春コンプレックス / 結束バンド」を弾いてみました!』(2022)

2-6. 非人称の顔

またドゥルーズは、感情イメージとしてのクロースアップは、イメージを元の時空間から引き離すと共に、その顔から個体性や人称性を失わせ、他者との奇妙な類似を帯びさせると言う(『シネマ1』p.176)。

MVにおいて、顔のクロースアップは多くの場合、アーティストやアイドル固有の顔を引き立たせるために用いられることを思えば、この指摘は奇妙に聞こえるかもしれない。だがゴドレイ&クレームCry』(1985)を見ると、情動の非人称性がイメージしやすくなるだろう。同作では、悲しみの表情を浮かべる多数の人々の顔がモーフィングされていく。それぞれ性別や年齢、肌の色の異なる、まったく別の個人がはっきりと映し出されているにも関わらず、視聴者が受け取るのは、個人の物語や私的な感情としての哀しみではなく、悲しみの感情そのもの、あるいは悲しみという一概念を視覚化しようとしたイメージである。

ゴドレイ&クレーム『Cry』(1985)

2-7. 合成された顔

モーフィングに代表される映像の合成技術によって、擬似的にではあるが、カットを割ることなく、ある人物の顔を別の人物の顔へとなめらかに移行させることが可能になった。下澤和義は、こうした技術を用いて作られたMVに映画の伝統であるモンタージュ(カット編集)の廃棄可能性と新たな映像の統制理念を見てとる(「ミュージック・ヴィデオ分析試論」『アルス・イノヴァーティヴァ——レッシングからミュージック・ヴィデオまで』所収、中央大学出版部、2008年、pp.180-181)。そこで具体例として取り上げられているビョークの『hunter』(1997)では、固定カメラによる1シーン1カットで、ビョークのバストショットが映し出される。歌いながら身震いするビョークの頭部はエコー(残像)エフェクトによって輪郭がぼやけ、やがてCG合成された白熊の頭部に覆われていく。

ビョーク『hunter』(1997)

映像の合成技術は日々進歩を続けてきたが、2010年代後半に「ディープフェイク」動画が広まって社会問題化した。そうした背景のもとに制作されたMVがケンドリック・ラマーThe Heart Part 5』(2022)である。同作では、赤い背景の前で歌うケンドリック・ラマーの顔が、じっくり見ていてもすぐには気づけないほどの滑らかさで別人の顔に変化していく。その顔は、O.J.シンプソン、Ye(元カニエ・ウェスト)、ジャシー・スモレット、ウィル・スミス、コービー・ブライアント、ニプシー・ハッスルという実在する6名の著名な黒人男性だ。ラマーは彼らの顔と境遇を自らに重ね合わせながら、黒人とその文化を取り巻く状況について歌う。

ケンドリック・ラマー『The Heart Part 5』(2022)


「ミュージックビデオの身体論」について

この原稿は、MVを撮りたいという学生や、研究をしたいという学生との出会いをきっかけに書き始めた。自分自身、これまで何を求めてMVを見てきたのか。そこから何を受け取り、何を引き出すことができるか。そういうことを考えるうちに「身体」というキーワードが浮上し、現時点の思考を整理するために、この場(note)を活用することにした。

また様々なMVを見るうちに、自分でも撮ってみたいと思うようになり、上述した学生の実習も兼ねて2023年3月に撮影を行なった。楽曲は昨年公開した映画『上り終えた梯子は棄て去らねばならない』の主題歌『Ladder』(2022)。出演の櫛橋さん、撮影の吉木さん、衣装・メイクの梶川さん、それぞれのアイデアや工夫を盛り込みながら制作を進めた。短編は普段あまり撮る機会がなかったので、面白さも難しさも含めて様々な発見があった。MV制作については、今後もあれこれ試してみたいと思っている。


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