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ミュージックビデオの身体論① 多面的で全体的なイメージ

1 多面的で全体的なイメージ


1-1 MVを通じて「身体」を考える

人は何を求めてミュージックビデオ(MV)を見るのか。そこから何を受け取り、何を引き出すことができるか。答えはそれぞれ異なるだろうが、私はこれから、「身体」というキーワードを軸としてMVを見ることを始めてみたいと思う。

動機は個人的なものだ。つい最近、ちょっとしたMVを撮る機会を得て、準備を進めながら「そもそもMVとは何だろう」「自分はMVのどこに惹かれていたのだろう」と考えるようになった。その過程で、MVへの関心と、常日頃から抱いていた「身体」の問題への関心が、ふと結びつく瞬間があった。MVを見ていると、無数の顔や体に出会うことになる。作品ごとに身体の捉え方は千差万別で、同じアーティストのMVでも、監督やスタッフ、撮影や編集、演出や視覚効果が変われば、まるで別人のような姿になる。今現在、私たちの身体は映像テクノロジーと無縁では居られないが、MVはまさに、そうした身体と映像テクノロジーの関係性を模索する前衛の位置にあるのではないか。MVを見ることを通じて、自分自身や他者の身体についての理解を深めることができるのではないか

1-2 断片的で非物語的なメディア

調べてみると、MVに関する言説は思いのほか少ないことに驚かされる。
ざっくりした印象としては、主に「映画」が比較対象となり、MVの希薄な物語性、断片的な編集、視覚的な新奇さの追求といった特徴が語られる傾向が強いようだ。例えばニュー・オーダー『Bizarre Love Triangle』(1986)を見ると、かつて「MV的」という言葉が作品を揶揄するために用いられた時代があったことを思い出す。『Bizarre Love Triangle』の矢継ぎ早なカット割、ノイズ、スローモーション、分割画面などは、物語を円滑に語ることに奉仕するのではなく、むしろ作品に雑多で無秩序な印象をもたらすだろう。写真家の金村修は、「ストーリーに対する侮辱的な態度がMVの魅力」であると述べている(金村修「写真批評 第38回 泣ける映画なんてない!」『家電批評』2019年11月号、晋遊舎、p.135)。陳腐な約束事で成立する物語で観客を感動させるのではなく、脳に響く刺激、意味のない快感を与えてくれる、軽薄で表面的なメディアであることこそが映像の王道であり、それを体現しているのがMVだというわけだ。

ニュー・オーダー『Bizarre Love Triangle』(1986)

 また近年では、広告としての映像、すなわちプロモーションビデオ(PV)としての側面を重視することで、MVを自律的な映像作品として見るよりも、アーティストや企業による多彩なメディアミックス展開の枠組みで捉えることが重視されている。例えば石岡良治はPVの「ガジェット性」に注目し、バグルス『ラジオ・スターの悲劇』(1980)のように意味や物語が希薄で記号的なイメージが先行する表現が広まった背景には、レコードのジャケット文化があるのではないかと指摘する(石岡良治『視覚文化超講義』フィルムアート社、2014年、p.143)。レコードのジャケットは、アーティストが楽曲を演奏する姿を見せるのとは異なる仕方で彼らのイメージを伝える役割を果たすものであり、そこでは、MVにもしばしば見られるような、シュルレアリスムやダダの表現技法が多用されている。

バグルス『ラジオ・スターの悲劇』(1980)

あるいは韓流研究者のホン・ソクキョンは、BTSのトランスメディア戦略を三層構造で捉えた上で、BTSの楽曲とMVを第一の層に位置づけている(ホン・ソクキョン『BTS ON THE ROAD』玄光社、2021年、p.91)。彼らのMVでは、小説や漫画などとも連動しつつBU(BTS Universe)と呼ばれる架空の物語が展開されており(例えば『RUN』2015)、BTSというグループの日常や成長物語を見せる第二層、メンバー個々人の実際の人生の物語である第三層と比べるとフィクション性が強い。だが同時に、BUに登場する架空のキャラクターにもBTSメンバー個々人の性格や日常と重なる部分があることが予想され、ファンはフィクションの物語から断片的な情報を熱心に読み込み、メンバーの実際の人生を想像することになる。

BTS『Run』(2015)

1-3.身体表象としてのMV、身体としてのMV

以上のようにMVは、作品全体を統御する要素の不在、もしくは希薄さを強調して語られがちなメディアである。私自身、こうした見方はある程度妥当だと思っているが、ここでは、もう少し別の切り口からも考えてみたい。というのも、どれだけ断片的で非物語的な印象が強くても、現実に私たちがMVをMVとして捉え、ある長さを持った映像を他と区別して一つの作品として受容している以上、何かしら有限で閉じられた全体性の感覚や、それを統御する要素の駆動を感じ取っているはずだからだ。

もう少し具体的に言えば、MVは楽曲やアーティストの宣伝といった役割から離れて、一つの独立した映像作品として視聴されることもある。また、確かにMVには映画的な物語やコンティニュイティ編集は希薄かもしれないが、他方でMVには明確な始まりと終わりがあり、楽曲にほぼ準じた再生時間が設定されている。映像は、楽曲の展開や歌詞の内容と不即不離の関係を保ちながら進行していく。作り手はただ支離滅裂に断片をつなぎ合わせているわけではなく、物語映画の編集とは異なる論理や秩序に従いながら、作品を制作しているのだ。

このように考えた時、多くのMVで中心的な位置を占めると共に、作品全体を組織し、統御する役割を果たしている重要なキーワードとして「身体」が浮上してくる。

「身体」に注目してMVを見ること。それは第一に、楽曲を演奏・歌唱するアーティストの身体や、ダンスする身体が、いかなるかたちで表象されているかを見ることである。アーティストの身体は多くのMVの画面上に映し出され、作品の中心的な役割を占めている。またそこに、バックダンサーの身体や、ドラマパートに登場する俳優の身体が加わることもあるだろう。MVが論じられる際には特殊な視覚効果や演出に注目が集まりがちだが、それ以上に、視聴者の「アーティストが歌う姿を見たい」「踊る姿を見たい」という欲望が、MVの莫大な再生回数を支えていることは疑い得ない。ローリング・ストーンズ『Jumpin' Jack Flash』(1968)は、押さえるべきパフォーマンスと表情が押さえられてさえいれば、アーティストの身体とシンプルな編集だけでMVは十分成立するのだということを教えてくれる。

ローリング・ストーンズ『Jumpin' Jack Flash』(1968)

また架空のキャラクター・トム少佐を創造したデヴィッド・ボウイの『Space Oddity』(1972)やその他のグラムロック、日本のヴィジュアル系バンドなどは、そもそも楽曲だけでは成立し得ない。アーティストの顔や身体、服装やメイクなど視覚的な要素が不可欠であり、特にライブにまで足を運ぶことのできない大多数の視聴者にとっては、アルバムのジャケットやMVが決定的な重要性を持つことになる。

デヴィッド・ボウイ『Space Oddity』(1972)

そして第2に、本稿では、画面に映るアーティストの身体のみならず、そのMV全体を一つの身体表象として、あるいは身体そのものとして見ることを試みたいと思う。映像作品に表象される身体を語ろうとする時、対象を人間の生身の肉体だけに限定することはできない。服装やメイクはもちろんのこと、その身体が置かれた環境や周囲の人・物との関係性、さらには撮影の構図や編集のリズム、視覚効果による変形・加工等も考慮する必要があるだろう。こうして身体は、映像というテクノロジーと結びつくことで画面全体へと拡張され、MVと一体化する。ローリー・アンダーソンの『O Superman』(1982)では、ボコーダーによる声の変換や、身振りと同期しないシルエットの動きによって、サイボーグ的な身体が象徴的に示されている。

ローリー・アンダーソン『O Superman』(1982)

1-4.多面的で全体的なイメージ

フランス文学研究者の下澤和義は、MVがジャンルとしての自律性を獲得するためには「音楽と映像の離接的関係が確保されねばならない」と指摘する(下澤和義「ミュージック・ヴィデオ分析試論」(『アルス・イノヴァーティヴァ——レッシングからミュージック・ヴィデオまで』中央大学人文科学研究所編、中央大学出版部、2008年、pp.176-177)。ビートルズの『I Feel Fine』(1965)は、当時のテレビの常識だった生放送ではなく、あらかじめ撮影した映像を放映したことによって、しばしばMVの起源に位置づけられるが、同作の時点ですでに映像と音楽の間に意図的なズレを生じさせる試みが行われている。ビートルズのメンバーたちはケーブルコードの付いていないギターを演奏し、一人遅れてきたドラマーのリンゴ・スターは、すでに楽曲のドラム音が鳴り響いているにもかかわらず、最後まで自転車を漕ぎ続けるのみである。こうした「自然主義」的な原則からの逸脱によってこそ、MVはテレビの生放送やライブの記録映像などから区別されるジャンルの自律性を備え始める。

ビートルズ『I Feel Fine』(1965)

上述した映像と音楽の離接的関係は、MVが断片的で非物語的なメディアであるとの印象を強める一因とも言える。だが例えば『I Feel Fine』のMVに接する者は、ただライブの様子を記録した映像を見るよりも、自転車を漕ぎ、おどけて見せるリンゴ・スターの姿を見るほうが、ビートルズというグループやメンバーについてより深く理解し、より豊かなイメージを得ることができるだろう。あるいは東京事変『幕ノ内サディスティック』(2012)は、椎名林檎の代表曲『丸の内サディスティック』のライブ音源と、過去のライブ映像をつなぎ合わせた映像で構成されている。アーティストの身体と楽曲が、バラバラの時空間を結びつけて作品全体を統御する強力な原理として機能する。視聴者は約4分という短い時間のうちに、椎名林檎の長い歌手生活を圧縮されたかたちで垣間見ることになる。

東京事変『幕ノ内サディスティック』(2012)

 これらのことは、自然主義的な絵画に対するキュビズムの多視点的な絵画、あるいはフッサール現象学における「諸現出」と「現出者」の関係になぞらえて考えることができるかもしれない。MVの多種多彩で矢継ぎ早なカットの連なりは、単一の視点から特定の瞬間を記録するのではなく、アーティストの姿を時間的にも空間的にも多面的に描き出していく。エイゼンシュテインが『十月』で古今東西の神々をモンタージュしたように、対象の本質や理念(イデア)を捉えた全体的なイメージを提示しようとするのだ。

セルゲイ・エイゼンシュテイン『十月』(1927)

 ADORA『Trouble? TRAVEL!』(2022)もまた、アーティストの身体が複数の時空間を結びつけ、統御する役割を担っている。多くのK-POPのMVと同様に、ADORAは屋外から室内セット、CG合成された背景上までを縦横無尽に歩き回り、その都度、衣装や髪型も目まぐるしく変化していく。終盤にはCGで描画されたADORAのアバターが登場し、梯子を降りて未知の世界の旅を続ける。アーティストの身体を多面的に描き出すためには、必ずしもそれが実写の、生身の肉体である必要はないということだ。(続く)

 ADORA『Trouble? TRAVEL!』(2022)

ミュージックビデオの身体論(目次)


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