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「書くことがない」とはどういうことか?

きょうで20日連続、このnoteを始めて20記事目の投稿となる。三日坊主の山は越えた。1週間坊主の山も。わたしにしては、すばらしい達成だ。

が、今日はいよいよ書くことがない。

なので、それを逆手にとって、今日は「書くことがない」というのはどういうことか? ということについて考えてみたい。

わたしは毎日noteを書くことを日課としているので、大抵はその日に起こったこと、感じたことを振り返り、そこから発展させながら文章を書いている。

だからうれしいなと感じたことはもちろん、失敗や凹んだ経験も、「文章を書く」という観点のみで考えるとプラスだ。その感情の動きを、丁寧に描写すればいい。

「こんなことが昔ありました」。そうやって、過去のことを振り返りつつ、思い出を書くパターンもある。でも、過去の記憶をずるずると引き出すことは、連想ゲーム的な部分もあるので、やっぱりなんらかのトリガーが必要。そして、わたしの場合はそれが「感情の動き」になることが圧倒的に多い。

自分の感情という内的要素だけではなく、外的に大きなトピックがあった場合は、もっと楽かもしれない。

たとえばツチノコを発見したとか、目の前の人のカツラが飛ばされたとか、1日中チャックが空いていた、とか。とにかく、日常で滅多にない奇跡的な出来事に起こったら、それをそのまま書くだけでよい。

だけど、日常っていうのは、毎日そんなに波風が立つわけじゃないのがつらいところ(とはいえ、いつも大荒れだったら疲れちゃうし、それでいい気もする)。

今日のわたしは、感情の起伏がまるでなく、とにかく無風。凪いでいた。そのため本当に何も浮かばず、もちろんいつもと変わった出来事が起きるわけもなく、ただ時間だけがすぎていってしまった。

そう考えると、「書く」ために能動的にできそうなのは、天啓を待つほかは、やっぱり「感情を動かす」ことがカギになりそうだ。

「感情を動かす」ためにやれるのは、大きく2つだろう。

1つ目は、物理的に動き回って、とにかく感情を動かすためのきっかけの数を増やすこと。行動量が増えれば、比例して、心が動く回数も増えていくような気がする。

もう1つは、少し視点を変えて、「感情を動かす」というよりも、一見動きのない感情をつぶさに観察して、その微妙な起伏を捉える訓練。微細な上下もきっちり捉えることができれば、何もない日常が、ちょっとは何かの変哲を感じられるようになるに違いない。

とはいえこんなの、机上の空論。「言うは易し行うは難し」の典型なので、動ける基礎体力をつけたり、鋭敏なセンサーを搭載するためにも、まずは、毎日こつこつと書くトレーニングが必要なんだろうなあ。

こうやって、書く時間を設けることは、何も浮かばず苦しい反面、今日の自分を振り返るよい時間にはなっている。

ゆるめのモチベーションで、これからも続けます。つらつらと書きました。今日はおしまい。

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