笹井孝太

https://linktr.ee/Kouta_Sasai 画家 長野、福島で活躍し…

笹井孝太

https://linktr.ee/Kouta_Sasai 画家 長野、福島で活躍しています。

ストア

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    Book15(23)

    21x14cm Pencil on paper (160g/㎡) 2024 Signed
    7,000円
    K.Sasai Daily Drawings
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    Book15(22)

    21x14cm Pencil on paper (160g/㎡) 2024 Signed
    6,500円
    K.Sasai Daily Drawings
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    Book15(21)

    21x14cm Conte on paper (160g/㎡) 2024 Signed
    8,000円
    K.Sasai Daily Drawings
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    Book15(23)

    21x14cm Pencil on paper (160g/㎡) 2024 Signed
    7,000円
    K.Sasai Daily Drawings
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    Book15(22)

    21x14cm Pencil on paper (160g/㎡) 2024 Signed
    6,500円
    K.Sasai Daily Drawings
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    Book15(21)

    21x14cm Conte on paper (160g/㎡) 2024 Signed
    8,000円
    K.Sasai Daily Drawings
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最近の記事

仕事

何故展覧会をするのでしょう。 絵を働かすため。それぞれの絵は自分の小分けされた、かつ等身大の画家たち。展覧会をすることでそれらを働かせる。それらは自分からでたものではあるが、自分がそのためにその分減ったわけではなく、それらの絵も、観に来た人の心に描いて働いたからといって、減るわけではない。 自分や絵画たちの仕事は等身大にも関わらず依然として自分たちの中に留まったまんま。 つまりそれらは言葉なんだ。 自分たちは語られた存在で、働くことによってはじめて、本来の語ったものの方へ

    • 顔と顔とを合わせ見る

      描くことが持っている有益性は自分と向き合えること。 今から歩む一歩を恐れる、本当に死ぬってよくわかってるから。 今まで登ってきた梯子を自分で蹴って外す、縊死する。首に縄がかかってるのを知ってる。 自分にとって必要性を感じるならまだもう少し描けばいい。 部分的に完成していないからという理由から描き足す時は、きっと十分に脚元を意識している、梯子を蹴飛ばさないように。 大概みんな本当のところを隠したがる、描き足す理由はまだ隠しきれてないところがあるからだ。本当に死ぬことのないよう

      • 知恵

        知恵を現前するものとして自分と切り離して見る文化があまりなくて、知恵といえば人の知恵としかとらえることができない事が多いように思います。知恵というものがあると考えればいい、知恵にたどり着くというように考えればいいと思うけど、絵画を買うというのは知恵を買うに等しいわけです。その画家の知恵ではなくて、知恵。 グラウンディングができているかどうかというのは、僕にとってはそう大したことじゃない。実際の業作は知恵を上回る事はできないのを僕はよく知っています。知恵をグラウンディングによ

        • ささいなこと展 5/7-18 2024

          この度の個展のタイトルの意として2つの文を記しておきたいと思います。 (5月に開催する個展について、趣旨と言いましょうか、僕の絵画制作を通しての思考の内容を簡単にまとめておきました。絵のほうに意味ある可弱い言葉がどうしても存じますので、展覧会でこのようなことを明記したりお話しするつもりはないのですが、全体の方向性として一応note に記載しておきます) ささいなこと -inconsiderable thing- ひとつのことですべてのことが芋づる式にどうでもよくなることを

          意志と認識

          人間の魂は神さえも認識できるほどに、造られたものの中でも最高峰のものだそうです。目は何も特定の色を持たないからすべての色を認識できるといいます。そして最高峰に造られた魂が、なにも認識できる像を持たない時、つまり魂が盲目の時、魂はすべてを認識するといいます。 何も描かれていないところから絵は始まります。真っ白の画面を見ると頭が真っ白になります。なんとすべての像を失うところから絵は始められるんです。何もないところから描き始めることを幾度も経験してそれがいったいどういうことなのか、

          意志と認識

          見るためのタッチ

          見るためにタッチをおかないと平面が平面的になってしまう。平面的、図式的に見ていると描いた線を軸に上下左右に手をいれるから、その線には触れないことになって画面が二つ以上に別れてしまって、見る基礎がまだ築かれてない空間では説明的になって看板のように即物的なだらしない広がりがでてしまう。見るためのタッチは平気で前に描いた線の上に重ねて描くことができる。極端に言えば北宋の絵画と南宋絵画の違いで、身近で言えばリアリズムと写実絵画の違いだろうと。垂直、水平は見るための線で、斜めはそれらを

          見るためのタッチ

          構図について

          “画面に二つのものは描けない”と麻生三郎は言っている。 それは絵で一番大切な要素の構図構成のことで、それがうまくいっていれば絵画はもうほとんど完成しているとレオナルド。 絵画は一から多への流出であって、また逆に多によって一を認識する。一から流出したものを入れることによってニになり、それらが互いに会話をしだすことによって、表出されたものを説明して見やすくなる、これが描写というやつで、二以上になるとお喋りばかりでわけわからなくなる。二を含むそれ以上は欠陥であり、しかし一だけでは

          構図について

          ふるさとは語ることなし

          “ふるさとは語ることなし” 坂口安吾 は、ずっと好きな言葉。 “魂が無に赴いてもはや自力では帰ることができなくなった時に支える光は、魂の一切の疑い、誤り、暗闇を全く取り除く。” エックハルト “我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう” 創世記 自分はずっと比較的、常にふるさとよりなんだろうなと思う。というか自分がふるさとを持っていることが嬉しい、僕には故郷というものがとくにないから。だからふるさとに入った時は、これが表現なんだ、と思う。その表現の姿をなんとかシェア

          ふるさとは語ることなし

          シャガールの頭部

          佐藤忠良展の所蔵コレクションの中にマリーニの作った彫塑シャガールの頭部があったんですが、残念ながら佐藤忠良の作品がその作品のために吹き飛んでしまったことを覚えています。佐藤忠良作品群を通って所蔵作品コーナーまで来たのですが、その頭部は、まるで忠良の心臓のように有機的で、決まった形を持っていなかったんです。佐藤忠良の作品はこのイデアから来てるんだなと思いました。そしてこのマリノマリーニの作品もまたそれを形作る何かのイデアを持っているんだなと思いました。

          シャガールの頭部

          上手く描くには

          上手く描くということは描き方を知らないということだと、ゴーギャンは言っているようです。それは本当にそうで、いつなんどきも描いているとその葛藤は訪れます。ゴーギャンも上手く描く事と葛藤したからこそ言える言葉だと思います。 この意味の捉え方はやはりピンからキリまでありますが、最も低い捉え方としては、単純に上手く描こうと頑張る、ないしは上手く描けたことを喜ぶ、または喜ばれる。 また、常に内心に訪れる概念に対しての模倣もそうだと思います。そうなれば死ぬ事、全否定のみが描き方でありま

          上手く描くには

          正しく見ることがその絵の形を決める愛

          正しい事とは何かといつも考えてる。 正しくない事が常態だということが念頭で、 正しい者の前に注ぎ出す事がダイアローグだろう 正しいものというのが何かわからないから、 正しくないものを見ることしかできないけど、 正確に余す事なく正しくないものを見るという事が、正しい者の目なんだと思う。いわば、正しい者と目を共有している感じがする。

          正しく見ることがその絵の形を決める愛

          とある祈り

          下手だという事は救いだ。 いろんな描きたいモノがある。 大きな筆を使うとそのいろんな描きたいモノの細かい所が飲み込まれ、それらから解放される。 単純に下手で、描けないということもそれと同じこと。描きたいモノの性癖から描けないことで解放されて普遍的なものへ目を向ける事ができる、また、それだから描くのだろう。そして、描きたかったモノや空間をそれらの描いた筆致のままに贖われ善いものにする。 下手なことによってぶつかったものは、その人の全身だ。必死にそこから逃げようとして細かく

          とある祈り

          過度な熟練

          レオナルドが過度な熟練は要らないって言ってるけど、ほんとにそのとおり。丁寧に描き始めると、間違ってたり稚拙だったりしたときに現実と噛み合ってそっくりって思うあの贖罪効果からどんどん遠ざかってしまう。ほんとうに、そっくりって思うのはどれだけそっくりじゃなくてもいい。

          過度な熟練

          写実

          全否定されることによって僕らは存在を付与される。その実態は僕らのある部分ではなく、余す所のない身体であり、その実態は不安定なまま休息している。 写実はどうしても全体という事が大事になってくる。好きもの趣味の細部を詰め合わせただけでは全体は無い。僕らは休息に入るために仕事をする。ふいに休息に入ったならば不必要に手を入れることは無分別で自発的でないうえに、目的を知らない人がやることだ。しかし何せ不安定なまま安定しているのだから、ここに信じることを賦与しなければいけない。

          無能の人

          いつも自分は何もできていないとい思う。何も見せれるものが無いと思う。 祈り かたや目もあげられずに俯きながら、かたや天を堂々と仰ぎながら祈る人の例え ルカ18章 周りと比べて自分は何かいつも欠落している。この欠落こそが主題になるべきなんだと思う。でなければそのどうしようもない欠落を穴埋めしてしまう。 自分には姿がない。これは非常に正しいことだ、その通りだ。 姿を取り繕うか、姿を見るか。 欠落こそは物質を顕にする。物質本来の姿を顕にする。 物質が目指すのは姿を与えられる

          無能の人

          ゴヤの素材感

          もしもゴヤのような巨匠が現代に現れても誰も彼の絵の価値を認められないだろう。彼は彼の中だけで真理と結びついていて、彼の絵にはなんの価値もないからだ。価値がないものを価値がないとするのは間違いではない。 時間と空間が彼を見えるようにしている、遠くで輝いている星。 風は精霊。ゴヤと結びついた確かな真理、彼の中だけに何処からともなくそよいだ風にその声を聞く。その瞬間に彼のマッスは形を持った。 「現実に輪郭線など存在しない、あるのは奥に行く面と手前に迫り出してくる面だけだ。」と

          ゴヤの素材感