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父とハイタッチした日

鬱からの回復後の私。
ブラックボックスの過去と現存している今の人間関係はどうなったのか。
生きているこの瞬間にできること。を味わえているのか。
順番に一つ一つと向き合って、許せることを学んだら楽になった話。



大人になってから父にも母にも触れた記憶が殆どない。

殴らずに優しく触れてもらいたいという願望をもっていたのは6歳。
でも無理なんだと諦めたのが12歳。
生きていくなら、殴られないぐらいの物理的距離を取る決意をした14歳。
許せないという毒を抱えて爆発し鬱になった30歳。
親であろうと、その期待に添えないとしても、自分は1人の人間だと決別する覚悟が決まった31歳。
13年ぶりに親と一緒に暮らす決断と喧嘩の日々を予想した32歳。
両親が死ぬまでにHUGをすると決意した33歳。


父からのハイタッチ

駅で見送ってくれた父が「体に気をつけて」とハイタッチをしてきた。
それを嫌な顔をせずに受けいれられた私自身に驚いた。

そしたら、すこし先の未来に「夢」ができた。
両親が生きている間にHugすること。



父とデートする

私から誘って父さんと2人きりで出かける。
昔は、すごく嫌で想像もしたくなかったのだ。
それは反抗期だからではなく、父を許せなくて嫌で嫌で。
本当は愛して欲しいという本音が埋まるほど父を嫌っていたからだった。

でも、ハイタッチできたし、少し勇気をだしてみよう。
そして誘ってみたのだ。
「ねぇ、このカフェに一緒に行かない?」
父の反応は食い気味に「行こう!」だった。
私の言葉をさえぎるスピードで悩む隙も、恥ずかしがる素振りも一切なく
受け入れてくれたのだった。
その反応を目の前にして、私は涙が止まらなかった。
父はずっと待っていてくれたのだと。
父の愛し方の表現は間違っていたかもしれない。でも娘が大切だという思いは持ったまま生きていたのだ。父は私に誘われたかったかもしれない。
いつからか、ずっとだろう。私が生まれる前から娘と2人でデートにいく。娘に誘われて出かけることをきっと夢に見ていただろう。
父はいつだって私に誘われたら受け入れる姿勢でいてくれたのだ。
私は何千回断ってきただろうう父の誘いを。一緒にいるのが嫌で、許せなくて、でもお互い愛したいのは一緒だったんだ。


ピットブルと父の特性

ピットブルは攻撃を始めると相手が死ぬまで止められない。
友人がこう教えてくれたとき、ふと父のことを思ったのだ。
一度だけ父に泣きながら謝られたことを思い出した。
「殴っていたのは悪いと思っている。あの時は病気でよくわかっていなかったんだと思う。」
もしピットブルのように、父も自身を止められなかったのだとしたら?と考えがよぎったのだった。
それは病気による影響、または個人の特性かもしれない。

どちらにしても、止められないのだとしたら?それって悲しくないか?

愛している。大切にしたい娘を殴っている自身を抑えられないのだとしたら、悲しいのではないだろうか。
そう思うとなんだかアッサリ許せたのだった。
何故そんなにあっけなく許せたのかは分からない。
でも、許せた後めちゃくちゃ楽になったことは想像もしていなかった。
許せるってこんなに楽になるのだと知った。



両親とHUG

ハイタッチから数ヶ月後、再び海外への旅立つ私は両親とHUGすることが叶ったのだった。



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