気の置けない仲人
「だからね、思うのよ。恋人と賃貸マンションは一緒だって」
ドン、とビールジョッキをテーブルの上に置き、私は鈴鹿に言い放った。彼が悪いわけでは決してないのに、男というだけで今は腹立たしかった。理不尽な敵意を向けられた彼は驚きながらも、可笑しそうに喉奥を震わせた。
「意味分かんない。どういうこと?」
「そのまんまの意味よ。じゃあ逆に訊くけど、鈴鹿はどうして今回のマンションに住むことにしたの?」
テーブルの中央に置かれた大皿からフライドポテトを一本摘まんで尋ねる。突然振られた問いに鈴鹿はえー、と天を仰いだ。扇状に広がった睫毛がしっかりマスカラをした女の子みたいに長い。
「うーん、そうだなあ……やっぱ会社に二駅ってところかな。テレワークになっても何だかんだ週に何回かは出勤しないといけないし」
「つまり、立地とか場所ってことよね?」
「うん。まあ、そう」
「それよ」
私は人差し指を向けた。
「どんな場所に住みたいとか、家賃はこのくらいがいいとか、部屋の広さとか、物件を選ぶ時にいくつか条件ってあるでしょ。恋人もそれと同じで、自分にとって必要な条件をクリアしているか否かっていう割と冷静な部分から決定づけていると思うの。例えばさっきの会社の近くに住みたいっていう話を恋人という名の物件に置き換えると、遠距離は無理ってことじゃない」
「お前性格悪いな。確かにデートとか難しいなとは思うけどさ」
「でも事実、人はそうやって物件を選んでいるのよ。もちろん他人は他人だし、全てが理想的なんてことは絶対にない。だから妥協点を探す。駅からちょっと遠いけど新築だし~、とか、全然お金なくて夢ばっかり見ているバンドマンだけど顔がすっごくタイプだし~、とか。それでとりあえずの新生活がスタートするわけ。つまり物件は生活なのよ。だからそれが苦になってきちゃったら、当然引っ越しを考えるわけじゃない? 特に恋人なんて賃貸マンションと違って口約束の契約なんだから、次の瞬間には退去できるわけ。だから、まあ、何が言いたいかって言うと」
「早く康二に定職に就いて欲しい、ってことだろ」
「そう!」
鈴鹿の言葉に力強く頷いて、私はテーブルに突っ伏した。目の前が真っ暗になる。アルコールのせいで脳みそがくらくらした。
「……別れるの?」
気遣うようなトーンで容赦ない質問が降ってくる。しばらく黙っていたが、「分かんないよお」と顔を上げて泣きついた。
「だって、働かないところ以外はコウちゃんのこと大好きなんだもん。風邪引いたら絶対に私の家に来て看病してくれるしさ。顔かっこよくて、背も高くて……とにかく、お金がないところ以外は優良物件なの!」
「知っているよ。俺ら、同じバンドだったんだから」
鈴鹿は笑いながら氷で薄まったレモンサワーを手に取った。申し訳ないという気持ちが過ぎる。たかが大学のサークルだったとはいえ、当時バンドリーダーを務めていた鈴鹿からしてみればかなりやりづらかっただろう。喧嘩も絶えず、その度に間を取り持ってもらっていた。今もまさにその状況ではあるが、今回ばかりは学生ノリの延長でうやむやにすることはできない。
大好きな康二と付き合って五年目。でも、社会人になって三年目。周りの友人は徐々に結婚したりゼクシィを買ったりしていて準備を進めていた。晩婚と言われる昨今でも、「最終的には結婚したい」という女性のマインドは変わっていないし、今後も変わらないように思う。私も例外ではない。しかし、康二は二十五歳にもなってあのザマだ。このまま一生売れないバンドマンを続けるなら、私も決断しなければならない。好きという気持ちだけで生活が回るほど、世の中は甘くないのだ。
「鈴鹿には何でも話せるのになあ」
だらしなく頬杖を吐き、大きく溜息を吐いた。鈴鹿はグラスを傾けたまま、何も言わずに口角を上げた。平日の夜にもかかわらず一段と客入りの多い店内の喧噪が耳に障る。ふと手元のスマートフォンに視線を投げた。
「ていうかさ、ヨリちゃん遅くない? いつ来るの?」
スポットライトの中でギターをかき鳴らす待ち受けの康二の頭上に浮かんだデジタル時計は既に九時前を差している。もうかれこれ二時間は康二の愚痴と自分の将来について喋り倒しているようだ。本来の目的は私ではなく、鈴鹿なのに。転職を機に一人暮らしを始めた彼の引っ越し祝いを兼ねて、同じくバンド仲間だったヨリちゃんと彼の家にお邪魔することになっていた。
「あ、なんか今日仕事で遅くなるみたいだからパスだって」
「えー、お盆なのにい? そっかあ、残念だなあ。でも、テレビ業界って大変そうだし、仕方ないよね」
軽く返しながら、私はビールジョッキを手に取った。ヨリちゃんが来ないということは、鈴鹿と二人きりということだ。康二と付き合って以来、私は一人で男性の家に上がったことがない。
気の抜けたビールを飲み干す。鈴鹿が伝票を取り上げ、「行こうか」と立ち上がった。
鈴鹿の家の最寄りは新宿三丁目駅から地下鉄に乗って数駅のところだった。整備された道路に沿って高層マンションやビルが立ち並んでいる。真夏の沈殿した空気も相まって多少の圧迫感を感じだが、当の本人は全く気にならない様子だった。
「ごめん、まだ散らかっているんだけど」
そう言いながら、鈴鹿が鍵を開ける。お邪魔しまぁす、と中に入った。どこかで嗅いだことのある人工的な花の香りが立ち込めた。
鈴鹿の言う通り、まだ片付いていないようだった。1Kの六畳間には未開封の段ボールがいくつか置いてある。ベッドはなく、マットレスがカーテンの敷いた掃き出し窓にぴったりとくっつけられている。「これじゃあベランダ出られなくない?」と思ったことを口にすると、「乾燥機使っているから洗濯物干さないんだよね」と言われた。マットレスと反対側に備え付けられた壁一面のクローゼットを眺めながら、都心でバリバリ働く独身男性の生活はきっとこのくらいで事足りるのだろうと思った。
「あ、ていうか、シャワー借りてもいい? ちょっと汗流したくて」
「もちろん。風呂場は部屋出て突き当りだから。バスタオルとか適当に使って」
「ありがとう」
トートバッグを肩にかけ直し、私は部屋を出た。キッチンのある短い廊下を抜け、浴室の折れ戸を押し開ける。お風呂場と洗面所がくっついているユニットバスだった。当然脱衣所はない。私は横のドラム式洗濯機の上にトートバッグを置いた。服と下着を脱いでバッグの中にしまい、そそくさと浴室の扉を閉めた。
シャワーの栓を捻る。勢いよく噴き出したお湯は瞬く間に洗面所の鏡を曇らせた。熱めのお湯を身体にかけると、張り詰めた筋線維が少しだけ解される。部屋はあんなに何もなかったのに、見たことのない数種類のお洒落なシャンプーや石鹸、ヘアワックスなどが洗面台いっぱいに置かれていた。
全身を洗い終え、風呂場を出る。その時、キッチンにいた鈴鹿と鉢合わせてしまった。わっ、と私が声を上げる間もなく瞬時に鈴鹿が目を逸らす。見られたのは私なのに、何だか悪いことをしたような気がして「ごめん」と謝った。そして「まあ、見られても減るもんじゃないし」と笑って自分をフォローした。鈴鹿は何も言わず、踵を返した。
バスタオルで身体を拭き、持ってきた替えの下着と部屋着を身に着けてから私は部屋に戻った。気まずい雰囲気になるかと思ったが、鈴鹿は先ほどのことなんてなかったかのようだ。白い壁に向かってプロジェクターを投影させながら、「ホラー映画でも見ようよ」と言ってきた。正直ホラーやスプラッターは苦手だったが、これ以上微妙な空気になりなくなかったので、「いいね! 楽しそう!」と同意した。
部屋の照明を落とし、青白さの増したスクリーンを鈴鹿の隣に座って観る。まだ海外の大きな家と製作者たちのクレジットが映し出されているだけだったが、それだけでもう嫌だった。身を縮こまらせる私を見て、鈴鹿が笑った。
「まだ何も始まってないじゃん」
「何も始まってないって思っている時点でもう始まっているんだよ」
「何それ。今日の物件の話と言い、ツバキって分かるようで分からないことたまに言うよな」
「えー、分かってよ。てか、うわっ、なんか金髪の女の人出てきたんだけど」
「そりゃ映画なんだから人出てくるでしょ」
鈴鹿が声をあげて笑った。色白の肌と言い、広い二重幅と言い、長い睫毛と言い、男性要素の少ない彼だが、こうして歯を見せて笑うとくっきりと浮き出たフェイスラインが男の人なんだなということを暗に教えてくれる。薄暗い空間でそんなことを考えてしまうのは非常にまずいのではあるが。
結局、私たちはほとんど映画を観なかった。冷蔵庫の中にあった酒とつまみでだらだらと二次会を始めてしまった。一時を過ぎた頃、鈴鹿が眠くなってきたというので、私たちは就寝することにした。
「ツバキ、そこで寝ていいよ。俺、床で寝るからさ」
チューハイの缶を片付けながら、鈴鹿が言った。
「えっ、良いよ。私が床で寝るよ」
「そんなことさせられないでしょ」
いくら鈴鹿とはいえ「じゃあ、お言葉に甘えて……」と安易に寝るような女ではない。返事に困っていると、鈴鹿が
「じゃあ、一緒に寝る?」
と言ってきた。
私は耳を疑った。普段はそんなことを言う人ではない。酔っているのだろうか。けれど、ここで下手に断って友情を壊したくなかった。
「……いいよ」
鈴鹿は「じゃあこれ片付けてシャワー浴びてくるから先に寝てて」と言い、部屋を出ていった。取り残された私はプロジェクターの電源を切り、マットレスに横になった。このまま寝落ちしてしまえれば良いと思ったが、頭が冴えている。
エアコンの音を聞きながらマットレスの上でしばらくそわそわしていると、鈴鹿が戻ってきた。私は掃き出し窓とマットレスの間に入り込むように寝返りを打った。背中越しでも彼の体温と質量が伝わってくる。
「寝た?」
鈴鹿が遠慮がちに訊いてくる。いつもと同じ口調のはずなのに、いつもより低く聞こえた。寝たふりをした方が良いかとも思ったが、「寝たよ」と小さく呟いた。鈴鹿は鼻で笑い、「おやすみ」と言った。
やがて彼の鼻詰まり気味の寝息が耳元で聞こえてきた。私はほっとした。そりゃそうか。男とはいえ、鈴鹿は同じバンド仲間だったのだ。私が康二のことを好きなことも良く知っている。いくら同じベッドで寝ていたからといって手を出してくるわけがない。自意識過剰にも程がある。
緊張の糸が緩み、私は目を閉じた。脳内で康二のことを考える。一昨日から連絡を取っていない。喧嘩の理由は些細なことで、私が連絡をすれば彼は普段通り接してくれるだろう。そんな裏表のない馬鹿正直なところも大好きだ。けれど、このまま些細なことで喧嘩を繰り返し、取り返しがつかなくなったらと思うと、怖い。それに結婚することになったら自分の親と顔合わせをしなければならないのだ。フリーターで売れないバンドマンの彼をどうやって説明すれば良い?
「……起きてる?」
ふいに耳元へ生々しい熱を感じた。気がつくと、鼻づまり気味の寝息は止んでいた。私は一気に現実に引き戻された。今度は何も言えなかった。というより、声が出なかった。首筋にぬるりとした感触を覚えたからだ。身体がじっとりと汗ばんでいくのを感じる。尾てい骨には硬いものが当たっていた。
馬鹿だなあ、と私は思った。男女が同じシングルベッドで寝ていて何も起こらないわけがない。ましてや相手は鈴鹿だ。私は知っていた。彼が私にずっと好意を抱いているのを。でも私は康二のことが好きだから、ずっと気づかない振りをしていた。そして彼の好意を都合よく使っていた。こうなることも事前に予測できたはずなのに。男女の友情を信じたいと体の良いことを願ってしまった私は、馬鹿だ。
康二じゃない男のキスは、生乾きのスポンジのようで気持ち悪かった。身体をまさぐられ、真夏の熱帯夜に玉のような冷や汗をだらだらと流しながら、私は「朝になったらコウちゃんに謝ろう。そして結婚したいって言おう」と強く誓った。
(完)
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