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死とは何か? 実はみんな死んだことがある。死を恐れずに人生を楽しもう、という哲学。はじめてのスピノザ

 國分功一郎著「はじめてのスピノザ 自由へのエチカ」を読んでスピノザ哲学について学んだことです。私が死の恐怖を乗り越えた記事はもう一つあるのでこちらもよろしければ……。

「死」を見つめるために「存在」を考える

 今日の本題は「死」だが、そこに入る前に、まずは私たちの「存在の本質」について改めて見直しておこう。「私たちは何をもって存在していると言えるか」ということ。

 スピノザの考えによると、私たちの存在の本質は、自己保存のための力「コナトゥスconatus」だ。コナトゥスは、自分を維持しようとする力、さらに完全な自分を目指す内圧のことを指している。それに対して、別の存在観として長らく支配的だったのが形相「エイドスeidos」を本質とするもの。形相というのは、見た目とか形のことだ(もう少し広げて、一般的な意味で見てわかる属性と言っても良いかもしれない)。

 この二つの考え方の違いを理解するために、例えば、「競馬場の競走馬」と「牧場の農耕馬」と「牧場の牛」を考えてみよう。
 エイドスを本質とする場合、競走馬と農耕馬は(形がほとんど同じなので)、同じような存在になる。一方でコナトゥスを本質とする場合には、農耕馬は、競走馬よりもむしろ牛に近い存在になるだろう。競走馬は周りの馬よりも早く走ることをその存在の目指すところとしており、これは農耕馬や牛の目指すところと異なる、ということだ。

 私は男の形をしている。エイドスを存在の本質とするのであれば、私は「男らしく」あるべきだということになる。一方で私は、音楽をしているときに喜びを感じる(とする)。コナトゥスを本質とするのであれば、音楽を楽しむことこそが私の本質になる(あくまで例であって、私は音楽は嫌いなのですが……)。
 このように、「かくあるべし」という形とか決まった属性が本質なのではなくて、「かくありたい」という(より完全な)自己を目指す力を本質としよう、というのがスピノザ哲学だ。静的な存在観ではなく、動的なそれであると言っても良いかもしれない。

死を考える

 さて、今日の本題。スピノザにとって「死」はどのようなものか。彼はこのように記述しているという。

人間身体は死骸に変化する場合に限って死んだのだと認めなければならぬいかなる理由も存じない。

第四部定理三九備考

なんだかややこしい言い回しだけど、砕けた書き方にすると「死ぬのって、『身体が死骸になること』とイコールじゃないよね」ということを言っている。なぜこう言えるかというと、存在の本質はコナトゥスだからだ。身体というエイドスが硬直し灰になること(のみ)が死なのではなく、コナトゥスが丸きり変わってしまうことが存在にとっての死なのである。
 この考え方を採用すると、例えば、記憶喪失などで嗜好性から何からがガラッと変わってしまった人は「死んだ」ことになる。これは特殊な事例だけど、私たち全員が経験している死もある。それが「成長」だ。
 自分が乳児や幼児だった時のコナトゥスを想像して欲しい。そのコナトゥスと今のコナトゥスは同じだろうか? おそらく殆どの人はまるで違うものになっていると思う。つまり、私たちは、成長という過程を経ながらゆっくり死んで、そしてゆっくり生まれてもきて、今生きているということになるだろう。

 無論肉体の死はある瞬間に発生し、そしておそらく必然的にそれと時を同じくして私たちのコナトゥスもまた死を迎えるだろう。しかしそれは初めての経験でもなければ突然のものでもない。現在進行形で経験しているとすら言えるだろう。
 そんな、もう知っている死を恐れる必要はない。それよりも人生を躍動的に楽しもう、好きに生きるしかないゼ、というのがスピノザの哲学なのではないかと思う。

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